「改善、改革、革新、変革って何だろ~?何がどう違うんだろ~? ( ゜Д゜) 」
「業務改善と組織改革って何がどう違うんだろ~?組織改革と組織変革って何がどう違うんだろ~?どう関係するんだろ~??? ( ̄∇ ̄;) 」
「社内改革を進めようとしても、反対ばかりされて全然進まないんだよね・・・ (・・、) 」
「協調性がないとゆーか、何回言ってもどう言っても改善も改革も行おうとしてくれないし、協力し合ってやってくれないし・・・ o( ̄_ ̄|||)o— 」
「ぶつくさ文句ばっか言っている割には、誰も自発的に改革しようとしてくれないんだよね・・・ (;´д⊂) 」
「現場レベルでもっと創意工夫して、どんどん社内改革して行ってもらういい方法ってなーんかないかな~?いい成功事例ってなーんかないかな~? (;´Д`)ノ 」
などなど・・・
「経営理念・ビジョン・経営計画等の作成」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「組織力の強化や向上」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるかもしれないので・・・
そもそもの話、改善、改革、革新、変革とかって、いったい何なんだろーか?
改善、改革、革新、変革とかって、何がどう違うんだろーか?
それらの違いって、誰がどんな基準でどう決めるんだろーか?
改善、改革、革新、変革とかを行うメリットやデメリットって、いったい何なんだろーか?
改善、改革、革新、変革とかを行わないメリットやデメリットって、いったい何なんだろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
改善、改革、革新、変革とかって、どんな時に必要なんだろーか?
改善、改革、革新、変革とかって、どんな時には必要じゃないんだろーか?
それは、誰がどんな基準でどう判断するんだろーか?
改善、改革、革新、変革とかの言葉の意味や違いを調べたり、使い方を調べたり使い分けをしたり、改善、改革、革新、変革などを行ったりすることって目的なんだろーか?
それとも手段なんだろーか?
手段だとしたら、目的は何なんだろーか?
組織の改善、改革、革新、変革とかって、何のために行う必要があるんだろーか?
組織の改善、改革、革新、変革とかって、誰のために行う必要があるんだろーか?
組織って、いったい何なんだろーか?
組織って、何のために存在するんだろーか?
組織って、誰のために存在するんだろーか?
などなども含めて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
改善、改革、革新、変革とは?違いって?(パート1)
んーと・・・、もしかしたら・・・
などなどにも、ある意味、関係するっちゃーする面もあるのかもしれないけど・・・
( ̄  ̄;)
「改善」とか「改革」とかの言葉を使う側が、「改善」とか「改革」とかの言葉を使っていようと、使っていなくても・・・
その言葉を受け取る側がどうとらえるのか、中身がどう判断されるのか
その「改善」とか「改革」とかを、やろうって気になれるかなれないか
って場合もあるのかも~???
なーんて感じる面もあるので・・・
( ´・ω・`)
会社組織で言うところの「改善」とか「改革」などとは、一見、関係ないように思えるかもしれないけど・・・
視点が変われば、もしかしたら気づくことも何かあるかもしれないので・・・
(と言いつつ、なーにも気づくことがなかったらゴメンナサイ)
まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?
d( ̄  ̄)
- 働き方改革
- 人づくり革命
- 生産性革命
- 農業改革
- 交通革命
- 産業革命
- 構造改革
- コスト構造改善
- 統計改革
- 情報革命
- IT革命
- ロボット革命
- AI革命
- 規制改革
- 行政改革
- 政府革新
- 改革運動
- 文化大革命
- 改革開放
- トイレ革命
- 経済改革
- 司法改革
- 医療保険改革
- 税制改革
- フランス革命
- キューバ革命
- ロシア革命
- マイダン革命
改善、改革、革新、変革とは?違いって?(パート2)
んでー、次に・・・
上記を踏まえた上で、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
改善は、目的や目標をあまり考えなくてもできる
■ 「共創とは何か」
改善というのは、目的や目標をあまり考えなくてもできるのです。
「このイスを改善してください」と言われたら、何か考えることは可能だと思うんです。
すわり心地が悪い、デザインがなっておらん、値段が高いとか、いろいろな要素分解が可能です。
それは、イスというのはどういう要素が必要かということをご存知だからです。
その要素に対して、分析をすればいいわけです。
座り心地ということでいけば、座り心地をつくる要素は何だろう。
その中に因果の関係を見つければ、改善はできる。
つまり、目的や目標とか、そういうことを考えなくても、作業はできるのです。
ところが、「このイスを創造せよ」と言われたと思ってください。
これはおかしいですね。
「このイスを創造せよ」というのは文章になっていない。
意味が分からない。
われわれはあまり深く考えないでも、「創造」というのは「このイス」という現状からはスタートしないことを知っているのです。
ですから、「新しいイスを創造せよ」と言ってくれないと困る。
では、「新しいイスを創造しなさい」と言われたとする。
こうなると今度は、目的や目標を考えないとできないんです、どうしても。
改善すること自体は、決して難しいことではない
■ 「こうすれば組織は変えられる!」
改善すること自体は、決して難しいことではない。
各自が現状を把握し、認めることができれば、それを改善することは決して難しくないのである。
ただ問題は、我々のほとんどが現実を認めることができないということである。
今日の企業風土においては、自分自身を直視すること、とりわけ自分の担当部署の現状を認めることは、簡単ではない。
「内部は隠せ」というのが、今日の企業社会の現状である。
その結果、ミスは封じ込まれ、言い逃れされ、もはや隠しきれないほど化膿するまで放っておかれることになる。
「改革」とはビジネスの仕組みそのものを構造的に再構築すること
■ 「現場力を鍛える」
私たちは「改善」という言葉を日頃何気なく使っているが、その言葉の持つ意味合い、重さは会社によって異なる。
改善とは、「自主的に業務のあり方を考え、課題を発見し、解決を導き出す活動」と定義することができる。
「ちまちまとした目先の改善だけやっていたって、会社はよくならない」といった「改善否定論」的な指摘をよく耳にする。
しかし、これは本当の「改善」を理解していない人の発言である。
改善とは決して目先のムダ取りだけを指す言葉ではない。
それでは「改革」とは何を指すのだろうか。
これも様々な定義があるが、私は改革を「5~10年ごとに行うべきビジネスの仕組みの構造的変革」と定義している。
市場環境、競争環境、顧客ニーズは日々変化していく。
現場はそうした変化に対応するために、知恵を絞り、必死についていく。
しかし、時にはビジネスの「ゲームのルール」を変えるような大きな外的変化が起きる。
規制業界が自由化されたり、外資が本格的に参入したり、顧客の購買行動が劇的に変化したりという「不連続の変化」が起きた場合、現場がいくら改善活動を積み上げても、新たなゲームのルールに沿った競争力を確保するのはきわめて困難である。
そうした場合に求められるのが「改革」であり、ビジネスの仕組みそのものを構造的に再構築する必要がある。
「改善」と「改革」はどちらか一方だけを選択するというものではなく、共存させるべきものである。
改善も満足にできていない会社が、改革を振りかざしても上手くいくわけがない。
混乱を経ることなしに改革が進むことは、ほぼありえない
■ 「どうやって社員が会社を変えたのか」
改革というのは計画的に、一直線に進むとは限らないものである。
なぜなら、改革と改善は違うからだ。
改善は基本的に同じ価値観のもとで物事をよりよく変えていくことを意味しているから、そのまま混乱なく進むことも多いが、改革は、それを前に進める過程で価値基準の転換を伴うために、しばしば混乱が生じる。
世間には、改革とはそのまま無条件で一直線に「良くなること」だと思っている人がたくさんいるが、現実には、価値基準の転換に伴う混乱を経ることなしに改革が進むことは、ほぼありえない。
静止することなく流れている現実は、常にゆらいでいるものだからこそ、「ゆらぎ(混乱)を上手にマネジメントし、乗り越えていくこと」が重要なのだ。
どんな会社にも、その会社を良くしたいと思っている人はいる。
ただ、そういう思いの強い人ほど、往々にして、性格的に角が立っていたり、問題意識が前面に出るためにあくが強かったりする。
そういう人たちは、会社を良くしたいという思いにおいて目指すものは同じだから、協力し合うべきだし、することができるはずなのに、実際には互いに仲が良くないことも多い。
「あいつのここが気にくわない」
「あいつはここがダメだ」
「あいつの言うとおりにだけはしたくない」
などと、互いに言い合っていたりすることが散見される。
こういうとき、過去の延長線上から物事を見る人は、どう考えても、こんなふうに仲が良くない人たちをチームにまとめ上げるなどということは無理だし、時間のムダ、という現実的な判断をする。
しかし、「まずどういう状態を目指したいか」にこだわり、「会社を良くしよう」という一転において、彼らがつながることができれば大きな力になる。
目指す姿がはっきりすると、そこに行き着くためにはどうすればいいか、と考えるのだ。
「変革」と「改革」の違いは、「大手術」と「手直し」の差
■ 「変革」と「改革」の違いは何ですか?
「変革」と「改革」の違いは、根本的に変えようとするするかどうかです。
簡単に言えば「大手術」と「手直し」の差です。
明治維新は「変革」の志に燃えた若者たちによって達成されました。
単なる事件としてしか記憶されていませんが、私は大阪の与力であった大塩平八郎こそ「変革者」であったと思っています。
天保の飢饉に救済を町奉行に進言しますが、入れられず、自らの蔵書を売って独自に窮民を救おうとします。
そして1837年に幕府の政治を批判して兵を挙げ、鎮圧され、潜伏後、自殺します。
私たちは大塩平八郎の乱を江戸時代の事件として学びますが、その乱のあったのはペリーが浦賀にやってきた1853年のわずか16年前のことに過ぎません。
私はかなり強引ですが、幕末史は大塩平八郎から書き記すべきだと思っている程です。
彼こそ早すぎた「変革者」でした。
改革は日本史の時間で習います。
8代将軍の徳川吉宗が行なった享保の改革(1716~45年)。
老中・松平定信の寛政の改革(1787~93年)。
老中・水野忠邦の天保の改革(1841~43年)。
1960年に日本社会党から分裂した右派の「民社党」の機関誌が『改革者』でした。
体制の根幹には手をつけない、という姿勢の表れです。
現在の日本はほとんどが改革派になってしまいましたね。
変革の失敗のプロセス
改善とは
システムの構造をそのままにして、このシステムの目的となる変数がより高い数値になるように工夫することである。
勉強時間を増やすことが、改善にあたるだろう。
改革とは
システムの要因を変えてしまうことである。
たとえば、「成績点数」とか「成績順位」という目的変数を、「気づきの度合い」とか「関心度合い」に変えるというイメージである。
変革とは
変革とは、あるべき姿や到達したい地点、価値観を変えるものだ。
それは、組織の構造の中での重要な変数である目的や、それを実現するための要因の置き換えを行なうものである。
その結果、今までの枠組みのでは受け入れづらく、慣れ親しんできたやり方を変えなければならないので抵抗が起きる。
組織を変革するためのコンテンツ、つまり目標や制度、仕組みがいくらよくても、それが必ずしも組織に浸透するわけではない。
組織のビジョンやミッションが会社案内や経営計画に載っていても、メンバーは誰も本気にしていない。
絵に描いた餅のように思っている。
そして、ゴールや目標が一部の人だけで決められてしまい、それらの検討に参画していないメンバーにとっては、指示・命令と受け取られ、強制されたノルマになってしまう。
そうするとメンバーは、「外発的動機付け」である賞罰という誘引によって動くようになり、主体性ややる気といったものが、発揮されにくくなってしまうのだ。
さらに、目標を達成するための施策や仕組み・制度も、一部の人が決めてしまい、その実施を上位下達で周知されても、大抵の場合は現場の実情には合わない。
そのため、メンバーは今のやり方を変えようとか、新しいやり方を現状に適応させようとはせずに、おざなりに行なうか放置してやり過ごすようになる。
その結果、せっかく新しい試みをしようとしても形骸化してしまう。
これではまずいということになり、次に実行のためのトレーニングが行なわれる。
しかし、このトレーニングの進め方は、教え込もうというプロセスになり、知識ややり方を解説し、実践できるように練習するというマニュアル的なものになる。
メンバーは上からしつこく言われるので仕方なしに現場で実践するが、主体的な意欲を持っているわけではないので、「言われたこと」「指示されたこと」しか実践しない。
それでは成果が上がらないので、実践段階では管理が強化される。
その結果、何とか目標を達成したとしても管理者は疲弊し、メンバーはやる気を失っている状態が生まれる。
これが多くの会社にありがちなプロセスである。
言い換えると変革の失敗のプロセスと言えるだろう。
社会変化の認識の欠如
■ 「IT社会の護身術」
教育現場の情報化社会への対応の遅れは、民間以上に深刻である。
なぜなら、学校では民間企業のような業務改善の意識が働かないからである。
自らの業務に活用するか否かは本人の自由であり、活用してもしなくても人事評価は変わらず、競争市場に置かれた民間に比べるとモチベーションは非常に低い。
去年までこの方法でやってきたのだから、今年も同じ方法でやれるという意識がある。
未だに紙で連絡を行い「メールを使えない先生があるから」という民間では考えられない言い訳が通用する土壌が学校にはある。
社会変化の認識が決定的に欠如しているのである。
環境の変化に鈍感で、今までやってこれたのだから、まだ大丈夫という意識が命取りになる「ゆで蛙理論」の好例を学校の中に見つけることができる。
社会に生きる人材育成をする側の者が、社会に対応していないとしたら、学校は存在価値を問われるだろう。
変わってもよいと思える自己変革の力とは?
■ 「経営の未来」
向こう10年間のどこかの時点で、あなたの会社は前例のない形で変化するよう迫られるだろう。
あなたの会社は適応するだろうか、それとも衰退するだろうか。
自らをつくり変えるだろうか。
それともそうできずに痛みを伴う再編を余儀なくされるだろうか。
衰退が蔓延しているのはなぜだろう。
世界各地の企業幹部が突然バカになったなどということは、もちろんありえない。
かつては不滅だったビジネスモデルがいきなり死を迎えるとしたら、それは環境が変わったからであり、なかでも大きく変わったのは、変化それ自体である。
それは恐ろしいほど加速している変化のペースなのだ。
経営幹部は、製品やサービスの定期的なリニューアルの必要性はあっさり認めるのに、戦略やビジネスモデルは不滅に近いもののように、えてして思い込んでいる。
このような思い込みはますます危険になってきている。
一時的なものを永続的だと思い込んでいたら企業は未来を捨てることになる。
そして今日では、あらゆるものが一時的なのだ。
だから、目指すべきは、危機とは関係なく継続的に自らをリニューアルできる組織を築くことだ。
自動的、自発的、反射的。
これらは大規模な組織の抜本的変革を言い表す言葉としては、あまり一般的なものではない。
そして、そこに挑戦課題があるのである。
抜本的変革を自動的なプロセスに近づけること、危機に見舞われなくても継続的な自己変革を行うことのできる組織を築くこと。
目指すべきはこれなのだ。
変革に関するほとんどの本が、人びとは変革に反射的に抵抗するものであり、したがって巧みに操ったり、脅したり、おだてたりして、現状の平穏を捨てさせる必要がある、という前提からスタートしている。
私の見方は違う。
私はほとんどの人間が変革を歓迎すると思っている。
保守的な性向をたくさん持ってはいるものの、人間は常に新しい実験や新しい挑戦を探しているのである。
習慣の深い轍を何も考えずになぞるだけで日々を過ごしている人間も確かにいるが、そうした人たちでさえ変わる能力は持っている。
彼らはただ、そのためになら変わってもよいと思えるものを見つけていないだけなのだ。
献身の見返りに本物の意味と重要性が与えられるというような魅力的な契約がある場合には、自己変革の力を与えてくれる。
月曜の朝が来るたびに重い足を引きずって会社に出て来るあなたの同僚たちにとって、その契約はどのように感じられているだろう。
臆することなく次のような問いをぶつけていただきたい。
- どのような目的なら、個人的なリスクをとってでも取り組む価値があると思うか
- どのようなことを達成できたら、わが社で当たり前のようになっている一日10時間労働、週末も出勤という働き方に納得できるか
- まじめに働いてることと株主を金持ちにしていることのほかに、自分は毎日何をしていると、子どもたちに伝えたいか
残念ながら、ほとんどの企業でこのような問いはめったに持ち出されない。
経営管理のイノベーターとして、あなたはそれを変えなければならないのである。
経営革新は経営者の革新、経営者の革新は経営者の心の革新
■ 「夢をかなえる経営計画」
「景気が悪いから、経営がうまくいかない」
景気が悪化すると自社の業績不振を景気のせいにして、自己の経営能力を棚に上げて、悲嘆にくれる方がいます。
残念ながら、このような方々は、波にチャプチャプ浮かぶクラゲと一緒で、骨(経営哲学・経営理念)がなく、運動能力(経営方針・経営計画・経営組織)がなく、波まかせ。
相手や環境を変えることはできません。
「自ら」を変えていくことを通じて「自社」は変革していく。
これが本当の「経営革新」の意味するところです。
「経営革新は、経営者の革新、経営者の革新は経営者の心の革新」
なのです。
継続と変革は対立するものではない
■ 継続と変革は対立しない
組織においては、そこに働く者が、自らの位置づけを知りえなければならない。
共に働く人たちについて知りえなければならない。
何を期待できるかを知りえなければならない。
何人といえども、自らの働く環境を知らず、理解することができなければ、いかなる役割も果たしえないからである。
継続は、他の組織との関係においても必要である。
迅速な変革のためには、組織の内部における諸関係とともに、外部との関係においても継続が必要である。
継続と変革は対立するものではない。
両立し、かつ互いに調和すべきものである。
真の意味での「働き方改革」を伴わない、さらなる外注化の進展
■ 残業減らしで外注急増、大企業社員の劣化が止まらない
プログラムを一度も書いたことのないSE。
戦略作成はコンサルタント頼みの経営企画部員。
文章をまったく書かない編集者。
教育制度の企画運営を全部外注する教育担当者。
代理店のインセンティブのプログラムを作るだけの営業本部員。
残念なことにこれは笑い話などではなく、大企業のあちらこちらでお目にかかる現象である。
すでに、大企業の社員は見事なまでに外注頼みになっているのだ。
外注を管理する立場にありながら、外注先には一度も行ったことはない。
さらに、その先にある下請けの会社は名前すら知らない。
業務のつながりをまったく理解せず、下請け先のスケジュールも頭にはない。
下請け会社が仕事を降りたいと言いだしても、代替候補の企業のリストアップすらできていない。
業務の繁閑状況も知らないので、相手がピークのときに、さらに増産しろ、などと平気で無理を言う。
何をどこからどう手をつけてよいか全く分からない。
とりあえず外注先の担当者を呼びつけて叱責し、期限を切っていついつまでに事態を収集しろと頭ごなしに命令する。
残念ながら、大企業の社員が担当する外注業務の多くはすでにこんな状態になっている。
自分で全工程の管理をしたことがなく、業務の全体観を持たない社員が、外注先に仕事を機械的に割り振っているのは、そもそも無理がある。
実務を知らないし、全体のつなぎ合わせ(編集と統合)もできない。
価格を下げろというのも、どこをどう改善すればよいかの知見がないから、ただプレッシャーをかけるだけである。
このような状況のまま、品質が維持できるのか、大きな事故は起こらないのか、心配は尽きない。
これでは、過去に先人たちが築き上げた企業ブランドをもとに、発注者と実際に価値を構築している会社や人(外注先)の間に入って、ピンハネしているだけだ。
こんなものは単なる「搾取」である。
さらに、ここにきて、働き方改革である。
実際にはほとんどが単なる「時短」だ。
労働時間がそのまま制約条件になるから、時間内に処理しきれない仕事は、いままで以上に外注に回る。
「私はこれ以上残業できないので、(外注の)○○さんよろしくーー」と、大企業が時短した分の仕事が下請け企業に移転するだけである。
短期的に大変なのは、その仕事を請ける外注先だが、長期的に困るのは、大企業の社員たちのほうである。
自分で手を動かさず、細部を知らず、ポンチ絵(机上のプラン)を描くことを基幹業務と思いこみ、無理なコストダウンの要請と、納期と計数だけを眺めている仕事を続けていても、何も身につかない。
今後、情報技術が発展し、指示系列がオープンになると、情報の非対称性が崩れる。
すると、本当に付加価値を構築しているのは、どのプレーヤーなのかがさらに明確に分かるようになる。
先人たちの構築したブランドを利用して搾取してきた大企業とその社員は確実に苦境に陥る。
こんなことを続けている大企業はやがて優位性を失い、社員も別の会社に転職しなければならない状況に追い込まれることになるだろう。
そのとき、外注先に仕事の割り振りをしていただけの社員には、市場価値のあるスキルなど何もない。
真の意味での「働き方改革」を伴わない、さらなる外注化の進展は、大企業のサラリーマンの人生を悲惨なものに追い込むだろう。
自浄作用がなく、改善が困難なとき
■ 「テレビはなぜおかしくなったのか」
「テレビ報道」にかかわる人間ならば、誰しも最低限守るべき倫理がある。
- 差別や偏見を生み助長するような報道をしない
- ウソや誤った情報は流さない。万一、流したら速やかに訂正する
- デマや噂など確認が取れない情報を流さない
- 政治家や経済人などの伝える手段を持っている人間よりも、ふだん声を上げにくい弱い立場の人たちの境遇を考えて、そうした人たちの声を優先して報道する
これらを守らなければ、テレビ報道はたちまち信頼をなくす。
それは個々の人たちの人権を守り、民主主義の根幹をなすジャーナリズムの社会的な機能からみて当然のルールだ。
ところがこうしたルールから大きく逸脱した放送が実際に行われていた。
現代日本のごく最近の出来事だ。
しかも大量に、洪水のごとく垂れ流された。
有名なジャーナリストやアナウンサー、ニュースキャスターたちも関与する形で。
放送の後で指摘を受けても、「訂正」は行われない。
問題ではないかという話が関係者から出なかったばかりか、お目付け機関も見逃し、指摘を受けても「黙認」し続けた。
こうなったら、自浄作用はない。
もはや「末期的」といえる。
改善は困難だ。
なぜなら、内部にいる人間もお目付け役の人間たちも「聞く耳」をもたないからだ。
長年にわたる体質に起因した問題は、そう簡単に解決するはずがない
■ 「パラダイス鎖国」
パラダイス鎖国状態にあると、長い目で見て問題があったとしても、いまそこそこ幸せなのだから、苦しい思いをしてまで現状を変えようと思えないものである。
誰かが危機感を訴えることに成功し、痛みを伴う改革に着手したとしても、長年にわたる体質に起因した問題がそう簡単に解決するはずがない。
現在の状況は、それなりに意味や経緯があって成立しているわけだから、変えようとすればどこかにしわ寄せがくる。
変化によって損する人が騒ぎ出し、反動による逆行が始まる。
新年にダイエットを決意するようなもので、そう簡単に生活習慣は変わらず、すぐに息切れして、下手をすれば反動で食べ過ぎてかえって太ってしまう。
かといって、現状維持を続けていれば、いずれはひずみが大きくなり、時代に遅れて恐竜化し、とりかえしがつかなくなってしまう。
「このぐらいだったらやってもいいかな」ぐらいの小さい変化を積み重ね、徐々に新しい時代に適応する体力を作っていくのが、パラダイス鎖国時代を健康に生きる知恵である。
目新しい急激なダイエット法ではなく、無理ない範囲で食生活を変えたり、ヨガやジョギングを続けたりして、息長く、体質をより健康的なものに変えるということだ。
日本企業の経営システムは基本的な部分で継続性を維持している
■ 「新・日本の経営」
日本の企業は社会組織、社員の共同体であり、共同体の全員が将来にわたって幸福に生活できるようにすることを目標にするとともに、十分な業績を達成しようと努力している。
こうした考え方から、1950年代に「日本的経営」が確立するようになった。
合意に基づく意思決定、終身雇用制、年功制に基づく昇給と昇進、そして社員全員がひとつの労働組合に所属する企業内組合が日本的経営の柱である。
日本の経営方式は普遍のものというわけでもない。
いわゆる「日本的経営」の全体が確立したのは、第二次世界大戦後の時代である。
日本経済が成功を収めたのは何よりも、日本の文化に基づいて経営システムを築き上げたことによるものだ。
この基盤から離れる動きをとる際には、リスクがきわめて高いことを覚悟しなければならない。
財務と生産のシステム時代と技術の変化に適応していかなければならない。
だが、人間を扱う部分では、継続性を原則としなければならず、実際にも原則になっている。
変革ではなく継続性が主題になるのは、日本企業の仕組みのうち人間にかかわる部分に注目したときである。
これは当然である。
他の経営システムと比較したときに日本の経営システムを特徴づけているのは、人間にかかわる部分であり、日本企業の文化はこの部分に基づいているからだ。
日本企業の経営のシステムは基本的な部分で継続性を維持しているのだ。
もちろん、社会と経済が変化しているので、それに適応した変化はみられる。
日本ではほとんどの国と違って、企業の生命がきわめて長い。
ここまで長寿の会社が多い事実は、日本の会社が家業でない場合にも、自己の存続を目的とする共同体であることを示している。
日本企業は売買の対象になる物理的な資産の集合体ではない。
社会組織なのであり、構成員の生活のために長く生き残ることを目標にしているのである。
方針が立派につくられていても、改革が成し遂げられるわけではない
■ 「なぜ社員はやる気をなくしているのか」
「意識改革」なるものの研修が本当に効果をもたらしたという話を、いまだかつて聞いたことがない。
そもそも、官製談合を「誰でも知っているみんなの秘密」として当たり前のようにやっている組織で、事の本質にかかわるような話には蓋をしたまま、研修できれいごとの「あるべき論」を説教し、それをもっと「意識改革」などと称するのはあまりにも空々しい。
上から言われたから形にだけはしなくては、といった程度の熱意しか感じ取ることができなかったら、そんなことはやるだけ無駄だ。
こういう組織には担当者の熱意などではどうにもならない別次元の根深い問題が横たわっている。
このような組織で大切にされるのは中身ではなく形式だ。
会議であっても、中身はともかく、それをやったという形がまず大事なのだ。
こういう世界の中では、人間も儀式の中の道具だてのひとつになる。
しかし、このようなやり方に慣れきった人たちは、この種の「儀式」を「ディスカッション」と称して、大まじめにずっとやってきたのだ。
中身がまったくないこのような儀式を、誰もおかしいと思わず仕事としてとり行ってきたのである。
内容よりも形式を重視する傾向の強い人たちは、人も道具だてのひとつとして見ているから、役職だとか肩書きに意味は見出しても、「内発的な動機」が果たす役割などには、そもそも興味すら持たない。
命令さえすれば動く「道具」が内発的動機など持つ必要性があるわけないからだ。
道具に人の情熱など、そもそも必要としないから、内発的動機など無視してもいっこうにかまわないのである。
人を、中身(たとえば、考えや意見、関心の有無)で評価するのではなく、その属性(地位や役割)で見る、という考え方を持っていると、人の内発的動機に対する関心はおのずと小さくならざるをえなくなる。
儀式としての体裁を整えることを大切にする人たちが重きを置いているのは、つねに内容よりも形式であり、事実ではなく精神論である。
そして、このような考え方、価値観が当たり前になっていることが、日本という国が今日抱えているさまざまな困難な問題を引き起こしている根源的な要因だと考えている。
事実を直視し、現実と向き合おうとしない国に未来はない。
目指す方向や方針がいかに立派につくられていても、それだけで改革が成し遂げられていくわけではない。
改善、改革、革新、変革とは?違いって?(パート3)
んでもって・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、上記を踏まえた上で、こんなのからも一応念のために考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・。)ノ
改善とは?
○ goo辞書
悪いところを改めてよくすること。
○ Weblio辞書
物事をよい方に改めること。
改善とは、より好ましい・望ましいものへ改めること、および、そのための創意工夫の取組み。
○ ウィキペディア
誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にする事、行為。
改革とは?
○ コトバンク
社会の変動や危機に対応し、あるいは適合するように社会的、経済的、政治的諸制度や諸組織、諸政策などを部分的に改善することをいう。
したがって社会の基本的な仕組みの全面的変革である革命とは区別される。
改革は、既存体制の許容範囲内で改善や改良を重ね、場合によっては変革主体の要求の一部を充足することになるが、他方体制の全面的変革や崩壊を防止するという意味をももっている。
変革とは?
○ コトバンク
変えて新しいものにすること。
また、変わって新しいものになること。
革新とは?
○ コトバンク
旧来の制度・組織・方法・習慣などを改めて新しくすること。
○ Weblio辞書
革新とは、字句通りの意味では新たに革(あらた)めることを意味し、既存のものをより適切と思われるものに変更することを意味する。
改善、改革、革新、変革とは?違いって?(パート4)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
コメント
改善するよう社員に何回か言ったけどぜんぜん進まずに悩んでいました。
読んでいて。。。
アッ!!そうだったのか!!今頃気づいた!!なんてこった!!バカだオレ!!(*/ω\*)
と気づけました。。。汗
ありがとうございます。また来ます。今度はじっくり読みに。。。^^
ぱっくん 様
初めまして。
コメントありがとうございます。(^^)
> アッ!!そうだったのか!!
ほんの少しでも、何かのお役に立ったのであれば嬉しいです。(≧▽≦)
> バカだオレ
そんなことは決してないと思いますよ~。
永久に気がつかない方もいっぱいいらっしゃることですし・・・。
ぱっくんさんの場合、この記事以外に3つの記事をさらっと読んでくださっただけで気がついてくださったじゃーないですか~。
そう思うと、ぱっくんさんは、むしろめちゃくちゃスルドイ方なんじゃーないかな~?
なーんて、個人的には感じてたりなんかします。
d(⌒o⌒)b
> また来ます
そう言っていただけると、とっても励みになります。
こんなボログでもよろしければ、気が向いた時にでも遊びにきてやっていただけると嬉しいです。(^^)
【追伸】
(*/ω\*)
↑
この絵文字、めちゃくちゃ気に入っちゃいました♪
使わせていただいてもよろしいでしょうか?
ご検討くださいませませ。m(_ _)m