「経営計画が絵に描いた餅になっちゃう時って、どんな時なんだろ~? ( ̄▽ ̄;) 」
「一生懸命作成したはずの経営計画が机上の空論に陥る原因って何だろ~?絵に描いた餅とか机上の空論とかって従業員にもし言われたら、めちゃくちゃ悲しいし、心が折れそうなぐらいかなーりショックだよね・・・、どんな経営計画の立て方をしたら、絵に描いた餅とか机上の空論とかって従業員から言われちゃうんだろ~? (;´д`) 」
「経営計画とかを時間をいっぱいかけてがんばってつくっても、絵に描いた餅とか机上の空論とかって思われちゃったら、従業員の協力も得られないだろーし、もしそうなっちゃったら何のために作成したのかわからなくなっちゃうし、本末転倒になっちゃうよね・・・ (ーー;) 」
「絵に描いた餅や机上の空論って従業員から言われない経営計画とか事業計画とか、営業計画とか販売計画とか、人材採用の計画とか人材育成の計画とか、企画書とか提案書とかって、どーやって作成したらいいんだろ~? (;´Д`)ノ 」
「やっぱもっといい雛形やサンプルを使った方がいいのかな~?それとも専門家に経営計画等とかを作成してもらった方がいいんだろーか? 。゚(゚^o^゚)゚。 」
「その方が、絵に描いた餅や机上の空論って言われない経営計画が作成できるんだろーか?計画倒れにも陥らずに済むんだろーか? ( ▽|||) 」
などなど、このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
んでもって・・・
「経営理念・ビジョン・経営計画等の作成」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「人材育成戦略(戦略的な人材育成)」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などなどのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
こーゆー疑問って意外と大事
なんじゃーないかな~???
o(*⌒O⌒)b
なーんて感じることもあるのと、それにもしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
経営計画等が絵に描いた餅、机上の空論に陥る原因って?
(パート1)
んーと・・・
経営計画等が絵に描いた餅や机上の空論に陥ってしまう原因って、本当にいろいろとあるんだろーけど・・・
( ̄  ̄;)
共通している面も意外とある
かもしれないし、それにもしかしたら・・・
なんかにもある意味関係するかもしれないので、例えばこんなのからまずは考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
立派に作られたはずの中期計画が目の前の仕事とは無関係の計画に
■ 「考え抜く社員を増やせ!」
中期計画というのは、なんのために作るのでしょう。
その意味や目的を問うのではなく、どう「立派な」もしくは「立派に見える」中期計画を作るのかが仕事だ、というスタンスならば、それほど難しい話ではありません。
実効性は問わない、というか、実際に使われるかどうかは保障の限りにあらずという暗黙の前提の下でなら、作るのは難しくはない、ということです。
残念なことに、多くの日本の企業では、その意味や目的を問わないこういう仕事のやり方が今でも普通に行われています。
中期計画作りにかかわる人はスキルだけは学んでいますから知識は十分に持っています。
しかし、「なんのために」という基本的な問いは欠けたままです。
その結果、時間とコストをかけて形のうえでは立派に作られたはずの中期計画が、ほとんどの人にとって関心外の出来事、つまり目の前の仕事とは無関係の計画、になってしまっています。
現実に仕事の指針として機能しているとはとても言いがたいというのが多くの企業での実態なのです。
どうやるか、しか考えていないと、意味や目的を問い直すという根源的な問いかけをする能力がしだいに減退していきます。
その結果、そういうことを考えること自体が苦手になります。
そのまま真似ても、自分の会社でうまくいくとは限らない
■ 「疑う力」
以前、ある会社の幹部からこんな話を聞きました。
この会社の工場で、不良品が大量に出るようになったときのことです。
経営コンサルタントが提示した結論は、「設計プロセスに問題がある。三次元CADを導入すべき」というものでした。
三次元CADの導入には数千万円かかり、その後の教育やメンテナンスもいろいろ大変です。
そこでその会社はコンサルタントの話を鵜呑みにせず、この導入を決める前に、もう一度初心に返って、原因を徹底調査することにしました。
調べたところ、不良品の50パーセントは設計変更とは関係なく、過去のミスを繰り返していたことによるもの、とわかりました。
つまり過去のミスの経験がほかの人たちに伝わっておらず、そのため同じミスが繰り返されていたのです。
また、その部署では、ミスのデータの整理がきちんと行われていなかったこともわかりました。
そのため前の担当者が犯したミスと同じミスを、次の担当者も犯していたのです。
その会社ではこれまで二次元CADを使っていましたが、この使い方を間違えている場合もあったことがわかりました。
そこでミスの伝達方法を徹底化させると同時に、CADの使い方を教える女性部隊もつくりました。
女性にしたのは、男性よりもみんなが質問しやすいからだそうです。
そもそもこのコンサルタントは、問題の工場に一歩も足を踏み入れていませんでした。
机上の空論で、数千万円もする三次元CADの導入を提案したのです。
この教訓は、専門家の言うことを鵜呑みにするな、ということです。
経営に一般論はありません。
ほかの企業でうまくいったことをそのまま真似ても、自分の会社でうまくいくとは限らないのです。
ある人に効いた薬が別の人に効かないこともあるのとまったく同じです。
「学者の理屈は机上の空論」と揶揄される成り行き
■ 「ストーリーとしての競争戦略」
学者とは、さまざまなけもの道を走っている人を眺めながら考えているという人種です。
実務家に見えるものが学者には見えません。
ましてや、迅速で適切なアクションもとれません。
立ち止まっているからです。
実務家にとって本当に有用なのは、結局のところ一人ひとりがそれぞれの仕事の経験の中で練り上げていくフォームであり、研ぎ澄まされた嗅覚のほうです。
学者の考える理屈は、実務家の野生の勘に遠く及びません。
だったら、理屈なんて考えないで、さっさとけもの道を邁進したほうがいい。
「学者の理屈は机上の空論」と揶揄される成り行きです。
ビジネスは多かれ少なかれ「けもの道」です。
その道の経験を積んだ人しかわからない嗅覚がものを言います。
右か左かどちらに行くべきか、判断を迫られたときに野生の勘で選び、5年経って振り返ってみたら、あのときのとっさの判断が効いていた、というようなことはしばしばあります。
理屈では十分に説明できません。
理屈では説明がつかない野生の勘が勝負の8割を決める。
そのとおりだと思います。
しかしながら「いやー、ビジネスなんて理屈じゃないよね」ということで、のっけからけもの道を爆走しているだけでは、肝心の野生の勘をつかめないはずです。
野生の嗅覚が成功の8割にしても、2割の理屈を突き詰めている人は、本当のところ何が「理屈じゃない」のか、野生の嗅覚の意味合いを深いレベルで理解しています。
「ここから先は理屈ではなくて気合だ」というふうに気合の輪郭がはっきり見えています。
だからますます「気合」が入り、「野生の勘」に磨きがかかる。
「理屈じゃないから、理屈が大切」なのです。
けもの道で身につく嗅覚は決定的に大切なのですが、その一方で、限界もあります。
それは、日々けもの道を走っていると、視野が狭くなり、視界が固定するという問題です。
走りながら考えている人は、どうしても視界が狭くなります。
高速道路を走っている状態を想像してみてください。
速く走れば走るほど、どうしても視点も固定してきます。
ありがたいことに論理はそう簡単には変わりません。
目前の現象は日々変化します。
だからこそ「変わらない何か」としての論理が大切になるのです。
ふだんから走りながらなんとなく考えていることであっても、一度立ち止まって頭の中から出してみて、じっくりと論理化してみれば、どうすればいいのか気づくことがあるはずです。
経営計画をいざ立てようとすると顧客の視点がどこかに行ってしまう
■ 「顧客第一主義」は悩ましい
経営ビジョンや社長挨拶を読んでみると「お客様あっての当社」といった主旨の文言が並ぶ。
知識はあるし会社の方針でもあるのだが、経営計画をいざ立てようとすると顧客の視点がどこかに行ってしまう。
そもそも「顧客の視点」という言葉は頭で理解しているだけで自分の腹に落ちていない。
姿勢や考え方は存在するが仕事に慣れてくると初心を忘れがちになる。
ポンチ絵(机上のプラン)を描くことを基幹業務と思いこむ
■ 残業減らしで外注急増、大企業社員の劣化が止まらない
プログラムを一度も書いたことのないSE。
戦略の作成はコンサルタント頼みの経営企画部員。
文章をまったく書かない編集者。
教育制度の企画運営を全部外注する教育担当者。
代理店のインセンティブのプログラムを作るだけの営業本部員。
残念なことにこれは笑い話などではなく、大企業のあちらこちらでお目にかかる現象である。
すでに、大企業の社員は見事なまでに外注頼みになっているのだ。
外注を管理する立場にありながら、外注先には一度も行ったことはない。
さらに、その先にある下請けの会社は名前すら知らない。
業務のつながりをまったく理解せず、下請け先のスケジュールも頭にはない。
下請け会社が仕事を降りたいと言いだしても、代替候補の企業のリストアップすらできていない。
業務の繁閑状況も知らないので、相手がピークのときに、さらに増産しろ、などと平気で無理を言う。
何をどこからどう手をつけてよいか全く分からない。
とりあえず外注先の担当者を呼びつけて叱責し、期限を切っていついつまでに事態を収集しろと頭ごなしに命令する。
残念ながら、大企業の社員が担当する外注業務の多くはすでにこんな状態になっている。
自分で全工程の管理をしたことがなく、業務の全体観を持たない社員が、外注先に仕事を機械的に割り振っているのは、そもそも無理がある。
実務を知らないし、全体のつなぎ合わせ(編集と統合)もできない。
価格を下げろというのも、どこをどう改善すればよいかの知見がないから、ただプレッシャーをかけるだけである。
このような状況のまま、品質が維持できるのか、大きな事故は起こらないのか、心配は尽きない。
これでは、過去に先人たちが築き上げた企業ブランドをもとに、発注者と実際に価値を構築している会社や人(外注先)の間に入って、ピンハネしているだけだ。
こんなものは単なる「搾取」である。
さらに、ここにきて、働き方改革である。
実際にはほとんどが単なる「時短」だ。
労働時間がそのまま制約条件になるから、時間内に処理しきれない仕事は、いままで以上に外注に回る。
「私はこれ以上残業できないので、(外注の)○○さんよろしくーー」と、大企業が時短した分の仕事が下請け企業に移転するだけである。
短期的に大変なのは、その仕事を請ける外注先だが、長期的に困るのは、大企業の社員たちのほうである。
自分で手を動かさず、細部を知らず、ポンチ絵(机上のプラン)を描くことを基幹業務と思いこみ、無理なコストダウンの要請と、納期と計数だけを眺めている仕事を続けていても、何も身につかない。
今後、情報技術が発展し、指示系列がオープンになると、情報の非対称性が崩れる。
すると、本当に付加価値を構築しているのは、どのプレーヤーなのかがさらに明確に分かるようになる。
先人たちの構築したブランドを利用して搾取してきた大企業とその社員は確実に苦境に陥る。
こんなことを続けている大企業はやがて優位性を失い、社員も別の会社に転職しなければならない状況に追い込まれることになるだろう。
そのとき、外注先に仕事の割り振りをしていただけの社員には、市場価値のあるスキルなど何もない。
真の意味での「働き方改革」を伴わない、さらなる外注化の進展は、大企業のサラリーマンの人生を悲惨なものに追い込むだろう。
異論や疑問に対して抵抗力があるプラン
■ 「企画力の教科書」
ビジネスの現場で企画を求められる場面を考えると、そこにはたいてい「発注者」が存在する。
発注者は得意先や上司など、立場はいろいろであるが、とにかく誰かが発注をしなくては、企画作業は始まらない。
ビジネスの現場では、純粋に自分のために企画をするなどということは基本的にあり得ない。
企画の現場でごく普通に見かける状況として、プランナーが一人で独走してしまい、発注者のニーズを忘れ、結果的に受注に失敗する、ということがある。
ひとたびこの前提を忘れると、「相手が聞きたいこと」ではなく、「自分がいいたいこと」を中心にすえて、企画を作成するようになってしまう。
プランニングの現場でストーリーが重視されるのには、いくつかの理由がある。
適当なストーリーが見つからないうちは、そのアイデアの正当性を、プランナー自らが理解していないということでもある。
当然のことながら、自分が十分に理解していないものを、他人に納得させることはできるわけがない。
ビジネスの現場には、想像以上にたくさんの関係者が登場する。
それはつまり、企画というものが、何人もの手を経て共有化されていくということを意味する。
ストーリーがしっかり組み立てられているプランは、それに対する異論や疑問に対して抵抗力がある。
ストーリーがしっかりしてれば、質問に対しても、全体の流れのなかで要素を説明できるため、簡単に突き崩されることがない。
要素は独立して存在するのではなく、それぞれが関連しながら位置づけられているからだ。
意思決定や経営方針が首尾一貫しないとき
■ 「夢をかなえる経営計画」
企業はさまざまな意識をもった人の集合体ですので一筋縄にはいきません。
企業の夢(つまりは経営者の夢)を実現するためには、「経営者の意図」を確実に末端まで浸透させる仕掛け、仕組みが必要です。
企業業績は、その源流である経営者の心構えで決まるのです。
経営者がよりビジュアルに、理念・方針・戦略・戦術を鮮明にしたとき、企業業績が向上しはじめるのです。
企業経営は一人ではできません。
社員や仕入先等の関係者が一つの方向を目指し、力を糾合して初めて成果が出てくるものです。
人はそれぞれ存在意義を持っています。
人だけではない、この世に存在する生きとし生けるものすべて存在意義を持っています。
しかし、往々にして、人はその存在意義を見失いがちです。
存在意義を失った人々は、生きる目的を見失い、感動もなく、ただ漫然と日々をおくるだけとなるのです。
企業もまた然り。
経営者も創業当時は、「こんな仕事で社会に貢献したい」と考えていたはずです。
しかし、時の流れとともに、現実の「業務」に埋没し、その「存在意義」を忘れたとき、また、そのことが、社是・社訓として定められているのに単にお題目になってしまっているとき、企業は非常に危険な状態になります。
すなわち、これは、自社の意思決定や行動が是か非かの判断基準を放棄している状態にほかならないのです。
このような状態に陥っているとき、経営者は外部からの情報を「損得」で考えるようになります。
「損得」で判断するとたいてい失敗します。
「善悪」で判断しなければならないのです。
判断基準がないから、外部の情報に振り回され、意思決定や経営方針が首尾一貫せず、行動にブレーキがかかり、無駄なエネルギーを空費することになってしまうのです。
ロジカルに提案や企画を作っても伝わらないとき
■ 「戦略と実行」
戦略がポーンとトップから降りてきて、何でこれをしなくてはいけないのかよくわからないまま、形だけでも何かしないといけないから、とりあえずいわれたことをやってみる・・・
これでは戦略が成功するわけありません。
基本的な目的がはっきりしていなければ、もし実行段階で変更や修正を迫られたときに、何を基準にして変更してよいか分かりません。
また、「いわれたからやる」では創意工夫の余地もなければ、達成感もなかなか得られず、やる気がどうしても出ないというのも当然です。
日本の優秀な現場は、それでも一生懸命やるわけですが、本当の目的のところがはっきりわからないわけですから、硬直的になったり、部分最適になったりします。
それを今度は上司から「考えてない」などといわれては、たまったものではありません。
「何でこういうことをするんですか」
「どうしてそういうアプローチなんですか」
と下から何度か聞かれると、それを伝える人間はだいたい頭にきて、
と言うわけです。
そう言ってしまうのは、この説明をしている人が、自分で腑に落ちていないからなんです。
何回なぜと言われても、きちんと説明ができることが自分自身に腑に落ちていることです。
「いいからやれ」といわれて納得できず、モチベーションがあがらない。
それでは、理由が説明されれば納得するのでしょうか?
「納得」というのは理屈というよりも気持ちの問題です。
なぜこれをやるのか、なぜこれだけコストを削減するのかと聞かれれば、これこれこうだと論理的に説明することは可能でしょう。
極端に言えば、説明や理由など、幾らでも作ることが出来ます。
現場の社員が欲しがっているのは、そういうことのなのでしょうか?
「腹に落ちる」のは、必ずしも論理がすばらしいからではなくて、自分がメッセージの送り手( = トップ、上司)の気持ちがわかるからではないでしょうか。
どんなにすばらしい論理であっても、納得のいかないときはいかないのです。
質問にはロジカルに全部答えてもらったけど、なんとなくしっくりこない。
だまされたような気がするときは、やはり「納得」していないのです。
コミュニケーションの本質とは言葉を交わしたり、情報交換をするだけではなく、「送り手が受け手と意味を共有すること」であり、そのためにはお互いの考え方、価値観を理解しなくてはなりません。
どれほどロジカルに提案や企画を作っても、相手の考え方、気持ちを無視していれば、伝わるはずありません。
ほとんどの組織では、戦略が打ち出されると
「そんなことやって、何の意味があるのか」
「トップは現場のことがわかっていないのではないか」
「そうではなくて、今やらなくてはいけないのは○○だ」
などという声があちこちから聞こえてくるものです。
常に「トップがやれといったから」などと言い訳、愚痴を並べ、少しでも悪いことが起きると、他人のせいにし、あくまでも自分は被害者であるかのように振舞いたがる人々も出てきます。
そうすることで、誰も、何の得もしないのにもかかわらずです。
「こうした不満が上がらないようにするにはどうしたらよいか」
それがいかに無理なことかは散々経験されてきたはずです。
考え方や価値観のところを分からずに、一生懸命説明を繰り返したり、データを流しても、コミュニケーションは進みません。
トップは常に「見られている」ことを意識する必要があります。
言葉の端々に出るニュアンスを、現場は微妙に嗅ぎ取り、トップが本当は何を考えているのか、どの程度真剣なのかを値踏みします。
「顧客第一」と普段は言いながらも、土壇場になって売上が目標に達しないと「何とか売れ」「断られても帰ってくるな」などと声を荒げる部長がいます。
売上が下がり始めると「売上に質のよいも悪いもない」と言ってしまう社長もいます。
「わざわざ」心にもない約束をして、それを破って部下を失望させるくらいなら、最初から言わない方がずっとましです。
結局、「トップの言葉の意味」は会社が好調のときでなく、問題に直面したり、業績が悪化したときにこそ試されます。
逆に言えば、問題に直面したときこそ、リーダーが組織の価値観、そして戦略に対するコミットメントを鮮明に伝えるチャンスであるともいえます。
ビジョンや戦略が「絵に描いた餅」で終わってしまうとき
■ 「現場力を鍛える」
立派なビジョンや戦略が打ち出されても、まったく実行されずに「絵に描いた餅」で終わってしまう企業がある一方、最初の戦略は十分に練りきられていなくても、現場がたちまちのうちに知恵を出しながら実行し、その結果を反映しながら戦略そのものも進化させていく力強い現場を持つ企業も存在する。
現場力の企業間格差は競争戦略の優劣よりはるかに大きいと言える。
駄目な経営者は自社が劣っている理由を現場の怠慢のせいだと短絡的に認識する。
しかし、本当の理由は、現場が「しない」のではなく、現場にその能力がない、すなわち現場が「できない」のである。
この認識の有無が決定的な差となる。
「しない」と認識すれば、現場に対する管理を強めることになるだろう。
現場は反発、疲弊し、現場はより荒廃するはめになる。
一方、「できない」と認識すれば、できない理由を解明しながら、組織としての訓練、努力を粘り強く積み重ねていくことになる。
最初はできなかったことでも、努力、経験、知恵の積み重ねによって現場力は間違いなく一段ずつ高まっていく。
経営者が「業務のスピードを上げろ」「商品やサービスの品質を上げろ」と叫んでも、その当事者である現場はそう簡単にはできないのである。
怒鳴り声をあげて、叱咤激励するだけでなく、組織能力を向上させるための合理的な取り組みをする必要がある。
戦略の実行については、社長はきわめて無力である。
もちろん、現場がやりやすい環境を整えたり、鼓舞する仕掛けなど経営者が担うべき役割がある。
最後に結果を出すのは、あくまで現場である。
どんなに素晴らしいビジョンや戦略を掲げようが、現場に目がいかず、現場力を高める知恵も工夫もない企業が業績に苦しむのは至極当然のことである。
戦略が実現されず、「絵に描いた餅」で終わってしまう理由
■ 「現場力復権」
残念ながら、「当たり前」が「当たり前」でなくなってしまった企業が増えている。
「言われたことしかやらない」「決められたことしかやらない」というきわめて陳腐な現場が増えているのだ。
企業も手をこまねいて、現場力の劣化を放置しているわけではない。
現場力強化を経営計画に謳い、全社をあげた運動を展開している企業は多い。
しかし残念ながら、その多くは「計画倒れ」に終わってしまっている。
「計画倒れ」の理由はいろいろあげられるが、共通する根本的な理由のひとつは、経営としての「覚悟の欠如」である。
改革の方向性は間違っていないが、抽象的な物言いに終始し、肝心の現場から見ると「何をどう変えればよいのか」が皆目わからないケースが実に多い。
これでは「現場力強化」という社内運動も、たんなるスローガンとなり、一過性的な運動でいつのまにか霧散してしまいがちである。
現場の当事者意識の低下の要因は、さまざまである。
契約社員、パート・アルバイトといった非正社員の増加、協力会社、グループ会社などへの過度の分業、アウトソーシングによる現業部門のブラックボックス化など、現場を「コストセンター」とみなした施策によって、現場は「分断」され、一体化とは程遠い状態となってしまった。
安直に目先の人件費を下げたり、業務を過度に分断させていたままでは、当事者意識は高まるどころか、劣化・喪失につながってしまう。
こと人に関しては「固定費を変動費化せよ」は必ずしもプラスの側面ばかりではない。
むしろ、やみくもな「変動費化」の追求によって、根幹の競争力にマイナスの影響を及ぼしているケースも多い。
最大の問題は、人という経営資源を、たんなる「コスト」としてしか見ていないことである。
機械や設備であれば、「インプット」に対する「アウトプット」はその性能によって規定される。
しかし、人の「アウトプット」は、けっして固定ではない。
環境や教育、動機付けによって、その「アウトプット」の拡張性は無限に広がる。
経営の目的は、変動費率を高めることではなく、現場の競争力を高め、そこから生み出される付加価値を高めることなのである。
組織能力の基盤となるのが現場力である。
戦略を実行する主体は、あくまでも現場である。
戦略というシナリオとそれを実現する現場力に乖離があったのでは、戦略は実現されず、「絵に描いた餅」で終わってしまう。
自社の現場力はどのようなレベルなのか、打ち出した競争戦略を実現するために現場力は十分なのかを見極める必要がある。
経営計画等が絵に描いた餅、机上の空論に陥る原因って?
(パート2)
んでもって・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、こんなのからも一応念のために考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・。)ノ
「絵に描いた餅」とは?
○ ことわざデータバンク
絵に描いた餅は、食べることはできないことから、計画などがどんなにすばらしくても、実現しなければ役に立たないというたとえ。
○ 故事ことわざ辞典
どんなに上手に描かれていても、絵に描かれた餅は見るだけで食べられない。
転じて、実際の役には立たないものや、実現する見込みのないものの意味。
「画餅」「絵に描いた牡丹餅」ともいう。
「画に描いた餅」とも書く。
「机上の空論」とは?
○ コトバンク
頭の中だけで考え出した、実際には役に立たない理論や考え。
○ はてなキーワード
実現性の薄い・頭の中だけで考えられた方法論のこと。
多くは実益を齎さない。
「絵に描いた餅」と「机上の空論」の違いとは?
○ 「絵に描いたもち」とゆうのは「机上の空論」と同じ意味ですか?
指をくわえて見ているしかないのが「絵に描いた餅」、現実主義者にせせら笑われるのが「机上の空論」でしょう。
「机上の空論」を机上の論で、「こうやれば、もっとうまく活用できる」と、うまく活用を論ずるが実際には役に立たなければ、ただの「絵に描いた餅」です。
「絵に描いたもち」は遠くから、ただあこがれているだけでそれを現実化するにあたって具体的なことは何もしていない時の表現です。
関心はそれをどう達成するか、ではなくその結果にだけ関心があります。
それに対して「机上の空論」はすでに現実化にむけて企画を始めて以後の段階での表現です。
しかし、まだその実践、実用段階ではありません。
関心はそれをどう達成するか、過程におります。
[発想]
↓
【絵に描いたもち】
↓
[企画]
↓
【机上の空論】
↓
[実践]
_____[結果に関心がある」
_____「過程に関心がある]
「計画倒れ」とは?
○ Weblio辞書
計画していたものの、実施、実行に至らないままで終わること。
挫折、頓挫、絵に描いた餅、などと表現することもある。
経営計画等が絵に描いた餅、机上の空論に陥る原因って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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