「疑問を持つメリットって何だろ~?もっと疑問を持てって会社で言われることがあるんだけど、どーして疑問を持たせたいんだろ~? (;´д`) 」
「疑問を持ったら何かいいことでもあるのかな~? (´・ω・`) 」
「他社ではどーか知らないけど、少なくともうちの会社では、疑問を持つことにメリットが感じられないだけど・・・??? (ーー;) 」
「疑問を持つメリットが感じられるどころか、むしろ疑問を持つことのデメリットを感じちゃうぐらいなんだけど・・・??? (・_・;) 」
「何のために疑問を持つ必要があるんだろ~? ( ̄∧ ̄ ) 」
「誰のために疑問を持つ必要があるんだろ~?( ̄ー ̄?)」
とか、その一方では・・・
「なーんで疑問を持ってくれないのかな~?問題意識がないから漫然と仕事をするだけで疑問を持たないのかな~??? (|||▽ ) 」
「それとも、疑問を持とうとしないから問題意識も持てないし、危機感も持てないってことなんだろーか??? ( TДT) 」
「普通だったらちょっと考えてみたら疑問がいっぱい浮かびそうことであっても、疑問を持つことなくすぐに鵜呑みにしちゃうし、質問ぐらいすればいいのに質問すらしようとしないし、その結果、失敗やミスをやらかしちゃうし・・・ (;゜∇゜) 」
「疑問を持ってくれるどころか、何でもかんでもマニュアルがないと不安がるし、マニュアル通りにやりたがるし、どーしたらいいものだか・・・ o( ̄_ ̄|||)o— 」
「疑問を持たせるいい方法って、なーんかないかな~??? (;´Д`)ノ 」
「疑問を持ってもらうには、やっぱもっと教育しないとダメなのかな~?でも、そんな余裕はないし、どーしたらいいものやら・・・ (・・、) 」
などなど・・・
「経営理念・ビジョン・経営計画等の作成」、「自律型人材育成」、「組織力の強化や向上」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
このような声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
コレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
疑問を持つことにメリットが感じられる会社って?(パート1)
んーと・・・
まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
ふと浮かんだ疑問は、自分の正直な感覚
■ 「本質を見抜く「考え方」」
世の中のさまざまな言い分、見解、判断などといったものに接して、
「誰の言っていることももっともに聞こえる」
「みんなそれぞれに立派な理屈がありそうだ」
などと感じて、いったいどの結論が正しいのか、わからなくなってしまう・・・
そんな経験はないでしょうか。
これは恥ずかしいことでも珍しいことでもありません。
むしろ、何ものにもとらわれない素直な考え方をしていたら、多くの場合、こうした疑問にとらわれて当たり前なのです。
正しいものの見方や考え方というのは、できるだけいろいろな立場や視点からものごとに光を当て、曇った眼鏡や色眼鏡、歪んだレンズでものごとを見ないようにすることから始まるということです。
そのために何が大切か、誰の目にも明らかなのは、すでにできあがっている他人の考え方に染まらないで、「自分の頭で考える」ということです。
一見もっともらしく見える他人の判断や見解を、そのまま自分の頭に採り入れるということは、もしかしたらとんだ色眼鏡や歪んだレンズに、自分の頭を支配されかねないということです。
なかでも強敵なのが、相手が最初から自分の都合のいい結論を持っていて、「先に結論ありき」の論理を組み立てているときです。
すでにどこかで結論の「落としどころ」「着地点」が決まっているのに、形だけ論議をするという会議が最近とくに多くなっているようです。
あまりに見事な「反論の余地ない議論」は、「先に結論ありき」だったのではないかと疑ってみるほうがいいようです。
一見上等な議論ほど、私たちから考える機会を奪い、間違った方向にミスリードする危うさをはらんでいる場合が多いからです。
みんなが一つの意見に染まっているということは、とても危険な状態だといえます。
それが間違っていたり崩れたりしたときに、全員が共倒れになってしまうからです。
みんなが言っていることが正しいとは限らない。
それはかえって危険信号なのだと認識することが大切です。
ふと浮かんだ疑問は、自分の正直な感覚です。
ものごとを考えるときは、冷静な情報分析も必要ですが、この「感覚」がものをいうことも多いのです。
「理屈はそうかもしれないけれど、何か釈然としない」という感覚や、「どうも腑に落ちない」という感覚をもっと大切にしなければいけません。
それは、「気持ちはわかるけど・・・」と言うときと同じで、十分な留保を置くべきです。
相手のペースに巻き込まれてしまわないよう、何か感覚的に引っかかるものがあれば、もう一度元に戻って、じっくり自分で考えることが必要です。
肌身感覚や皮膚感覚といったファジーな感覚は、すべての人間が生まれながらに持っている、危機回避のために備わった能力、つまり安全装置なのかもしれません。
頭で正しいと判断しても、何かのシグナルを察知したときは、立ち止まってもう一度振り返るという、そんな心の強さを身につけておきたいものです。
人間は本来、疑問を感じ、考える能力を持っている
■ 「できない人ほど、データに頼る」
小さな子供に、「なんで?」と何度も質問され、困った経験は誰にでもあるでしょう。
なんども「なんで?」と繰り返し質問されると、「そういうものなの!」と思わず叫びたくなりますが、子供は納得してくれません。
私たちは年齢を重ねると、次第に「どうして?」と尋ねなくなります。
大人になると、物事をそのまま受け入れて疑問を持つことができなくなり、「なぜ?」と質問することが減っていきます。
「なぜ?」と自問する方法は、たくさんあります。
「どのように」ではなく、「なぜ?」と質問することが大切です。
問題点が具体的に浮かび上がり、その答えを解く糸口を見つけられるからです。
「なぜ?」と自問すると変化が生まれ、観察すると「なぜ?」という疑問が湧いてきます。
「なぜ?」と問いかけるのに、特に高度な知識は必要ありません。
しかし、いまだに多くの企業が「なぜ?」と自問していないのが実情です。
くだらないアイデアなんてない。
子供のように、なぜ、そうなっているのか自問してみよう。
固定観念に縛られず、顧客に最高の満足を提供できることは何かを考えてみよう。
何があなたと顧客に、本当の価値を生むのか。
そして、なぜそうすることができないのか、自問してみよう。
人間は本来、疑問を感じ、考える能力を持っています。
反論のためでなく、物事を深く理解するためです。
理解すると、さらに改善できるからです。
毎日の生活でも、
「なぜ、この仕事をしているんだろう?」
「なぜ、この家に住んでいるんだろう?」
「なぜ、この人と結婚したのかしら?」
「なぜ、この人は友達なの?」
など、本来問いかけることはたくさんあります。
しかし、ビジネスの世界では、「なぜだろう?」という疑問はあまり持ちません。
また、いつどのように、「なぜ?」と自問すればいいのかわかりません。
「なぜ?」と自問する方法は、たくさんあります。
さまざまな視点に立って、質問するのです。
そして、いちばん効果的なのは、裸の王様を見て、「なんで、王様は洋服を着ていないの?」と子供が尋ねるように率直に問いかけることです。
また、「どのように」ではなく、「なぜ?」と質問することが大切です。
問題点が具体的に浮かび上がり、その答えを解く糸口を見つけられるからです。
「なぜ?」と自問すると変化が生まれ、観察すると「なぜ?」という疑問が湧いてきます。
自分が大切にしていることだから、
「なぜ、そうなんだろう?」
「なぜ、変えられないんだろう?」
と問いかけられるのです。
「なぜ?」と問いかけるのに、特に高度な知識は必要ありません。
しかし、いまだに多くの企業が「なぜ?」と自問していないのが実情です。
ひとこと疑問を発していれば免れることができた事態
■ 「こうすれば組織は変えられる!」
考えること、創造することは、ごく自然な行為である。
私たちの脳は、もともと考えたり、創造したりするようにつくられている。
考えることそのものをサポートするような環境で練習を重ねれば、誰でもその能力を大きく伸ばすことができるのだ。
次の話について、少し考えてみてほしい。
子どもが親に「なぜお星さまがあるの?」と尋ねたとする。
親は質問を無視するか、「変なことを聞かないで」といった返事を返す。
やがて従順なその子どもは、たとえ聞きたいことがたくさんあっても、質問するのをやめてしまう。
「(自分以外の)誰もが知っているようなことについて質問してはいけない」ということを学習したのだ。
そしてこの「考えない」習慣は、その後の人生においても実践され続けるのである。
多くの組織が依然として、時間通りに出勤し、状況の改善など試みずに、ひたすら波風を立てない、言われたことをただおとなしくこなすだけの人間を好む。
非探求的であることを徹底して教え込まれて大人になった彼は、工場のボイラーが今にも爆発しそうな音を立てていたとしても、それに対して注意を払おうとはしない。
そしてひとこと疑問を発していれば免れることができた事態を、みすみす招くことになるのだ。
自由に質問できるか否かが、「安心して考えることのできる環境」かどうかを決定づける最も重要な条件となる。
いっさい疑問や再検討の対象とはならないことが多い企業社会にこそ、この自由が求められるのだ。
日本について質問を受けたら、どう答えればよいだろう?
■ 外国人の疑問「日本人はどうして本にカバーをつけるの?」
訪日外国人は年間約2000万人。
日本について質問を受けたら、どう答えればよいだろう?
日本人は人前で家族のことを褒めないですね。どうして?
日本人はなぜ、はっきり「ノー」を言わないの?
どうして本にカバーを付けて読んでる人が多いの?
どうして靴を脱がなくちゃいけないの?
疑問を持つことが始まり
■ 日本とドイツ、学習方法に見る隔たり
日本の公立中学校に少しずつ慣れ始めた我が娘。
帰国子女ならではのいろいろな試練が降り掛かってきます。
例えば日本の学習方法。
あまりにも暗記中心なのです。
日本の教育の現場では、たとえその事柄を理解していなくとも、“とにかく覚えること”が求められているようでした。
考えること、興味のあることを追究すること、自分の意見を述べること・・・・・・
そういう訓練はドイツでたくさんしてきたのですが、記憶力を鍛えるトレーニングは初めてです。
ドイツの先生は言います。
「疑問がないと答えは出てこないんだよ」と。
なるほど、疑問を持つことは学問の始まりかもしれません。
1つの現象や物事をどう見るか、質問の立て方によっていろいろな答えが導き出せる。
世の中の考え方やものの見方は当然1つではない。
こんなドイツの授業風景が、日本に戻ってからは何度も懐かしく思い出されるのでした。
日本の「おもてなし」への疑問
■ 日本の「おもてなし」への疑問
「お客様は神様です」と教育されている店員さんのほとんどは「なんでも言うことを聞くのが当然」と思っているのではないでしょうか?
その姿勢が日本特有の「おもてなし」という精神を作ったのかもしれません。
しかし「本当にそれでいいのか?」と疑問に思うことが、世界をまわって帰国してから多くなったのです。
オーストラリアで働いていたとき、お客さんに笑顔で「Thank you」と言われることが多くありました。
日本ではその言葉は従業員からお客さんへの一方通行で使われる印象しかなかったので、最初に言われたときは、違和感がありました。
その疑問の根源を突き詰めていくと、「Thank you」と言う背景には「対等な立場にいる」という認識があるからではないかという結論になり、自分の中ですごく納得ができました。
お互いが尊重して、人生を過ごすという意識はとても重要なことであって、人に対するリスペクトは忘れてはいけないものだと思います。
認識の違いによって、日本人である僕らが世界の国々に行ったときにやりがちなミスがあるのではないでしょうか?
それは「リスペクト」を忘れてしまい、まるで自分の立場が上であるかのように振る舞うことです。
笑顔で「ありがとう」と言うことによって生まれるコミュニケーションが、互いをhappyにしていくのだと、そんな風に感じるのです。
それはきっと、国境や人種、年齢は関係なく共通することだと思います。
疑問しか浮かび上がらない日本の就職活動システム
■ 新卒の私がベトナム就職を選んだ理由
そもそも、「日本の良い大学を出て、良い会社に入り、定年まで安定的に生きる」という日本のお決まりのようなレールに乗る必要性を全く感じていませんでした。
日本の就職活動のシステムも疑問しか浮かび上がりません。
安定した仕事内容で安定した給与をもらうというのは、大半の人が憧れる生活かも知れません。
しかし、会社から離れた時に、自分の力で稼いでご飯を食べることができるのでしょうか?
外の世界に出たら、会社のなかでの肩書きはほとんど役に立たないと思っています。
誰でも海外に自由に出られるようになりました。
海外からの留学生や旅行者もかなり多くなりました。
にもかかわらず、いつまでたっても日本に拘り続ける日本人がいます。
もちろん海外に出る人が偉い、なんて言いませんし、言えません。
ただ、選択肢の数が変わります。
「質問する力」とは、鵜呑みにせず自分で考えて疑問点を追求する力
■ 「Why?」を声に出すことの重要性
欧米では、「それはいい質問ですね!」というフレーズは何よりも重宝されます。
「いい質問」をする人は、自分の中で少しでも
「どうして?」
「Why?」
があれば、発言する傾向がある。
と言うよりも、発言せずにはいられないのです。
「質問する力」とは、政府や、マスコミや評論家の言うことを鵜呑みにするのではなく、まず、自分の頭で考え、疑問点があればとことん追求し、自分で納得してから決断する力のこと。
自分で考える力を付け、それを「Why」と一緒に質問できる力こそ、今の日本には必要なのではないでしょうか?
「大本営発表」と「メディア」がもたらした最悪の結果
■ 新聞が報じなかった、本当の被害
米側の記録では、東京大空襲に投じられたB29は344機。
1700トンの焼夷弾を投下し、都内は文字通り焼け野原となった。
約10万人の命が奪われ、27万棟が焼け、100万人が家を失った大災害。
しかし当時の「大本営発表」はたったの、これだけだった。
130機という数字は、米側の発表とかけ離れる。
さらに被害については、「各所に火災」としかされていない。
さらに100万の罹災者、10万の死者は「その他」の被害とされた、のだ。
当時の新聞もこうした発表にならい、被害の全貌を伝えなかった。
太平洋戦争末期に全国各地で相次いだ空襲の被害。
奪われた多くの命があったにも関わらず、その実態が報じられることはなかった。
大本営発表そのままの報道だ。
戦況が悪化するにつれ、「大本営発表」は数字や言葉をどんどんとごまかすようになった。
そして、メディアはそれをチェックせずに伝え続けた。
首都・東京で大空襲があっても、それは変わらなかった。
その後の沖縄の地上戦や広島、長崎への原爆投下でも、だ。
「大本営発表」と「メディア」
両者の関係がもたらした最悪の結果を、私たちは知っている。
「なんのために」「どういう意味があるのか」を問う姿勢
■ 「考え抜く社員を増やせ!」
今の会社には「命じられたことはやる。仕事というのはそういうもの」という割り切りをしている人がけっこういます。
一般社員だけではなく管理職の中にもこういう人がたくさんいるのです。
こうした考え方はある意味、「自分自身をも部品として捉えている」ということからみても、人間を人間として見るより機械として見る色合いの強い考え方です。
能力や資質などという要素を介在させず、ただ員数として人を捉えるのです。
自分をも含め、人というのは命ずることで自在に動かせるコマであり、道具である。
単なる員数であると、きわめてドライに割り切っています。
こういう気持ちになり切ってしまうと、「自分自身を見直す余裕」も失われてしまいます。
自分自身をも部品として捉える、という考え方に立つと、人の問題は「人 = 員数」としてかたづけられてしまいます。
しかし、現実の多くの仕事では、3人部下がいる場合、能力のある3人と、能力のない3人とでは、パフォーマンスがまったく異なる、ということは誰にでも理解できます。
にもかかわらず、従来からある常識的な見方では、基本的に人間のクオリティはカウントせず、すべて「員数」で見るという傾向があったのです。
こうしたものの見方の持つ一番の問題点は、物事や出来事の価値、質、その持っている意味などを、思考の対象から外してしまうところにあります。
質ではなく数えやすい量が重視され、中身ではなく、形式が大切にされます。
物事の価値や意味、つまり、
「なんのために」
「どういう意味があるのか」
を問う姿勢もこうした世界では後ろに追いやられてしまいます。
こうしていつの間にか「どうやればいいのか」「どうやると効率的か」しか考えなくなってしまうのです。
ひたすら目先の利益の最大化だけを追い求め、そのことの意味や価値を問わず、「どうやるか」しか考えないとするなら、環境激変時の対応策にしても、何が原因でそうなったかは問いませんから、どうしてもモグラ叩き的なアイデアしか浮かんでこなくなってしまうのです。
目先の課題の処理以外に、考えのをやめてしまっている人は、制約条件のくびきから逃れられなくなっています。
枠の中に思考が閉じ込められてしまうと、少し考えれば当たり前のことが、どうしても考えられなくなってしまうということです。
こういう状況に陥ってしまうと、問題点のリストアップだけはきれいにするけれども、解決はされていかないから毎年同じリストを作っておしまい、ということが起こります。
「上司から言われたことを効率的にこなす」のが仕事だ、と思っているときは、「仕事を処理する」ことが、あたかも最終目的のようになってしまいます。
本来の目指すべき目的が意識されていないと、形を整えたらそれでよしとされます。
こういう状態でも忙しく仕事をしていると、何がしかの自己満足だけはあるので、かえって問題は顕在化しにくいのです。
下手に疑問を呈したら怒られてしまうかもしれない
■ 「論点思考」
一般に、ビジネスパーソンが問題解決に取り組む場合、なにが問題か、どの問題を解決しなければならないか、という問題設定は、すでに経営幹部や上司が行なっており、自分はその解決法を考え出すところから始めるという場合が多いのではないだろうか。
上司から課題を与えられたときはどうだろうか。
なにも感じることなく、そのまま解決策を考える場合もあれば、疑問を感じながらも上がいったことだからとそのまま取り組むこともあるのではないかと思う。
下手に疑問を呈したところで、そんなことを考える暇があったら早く問題に取りかかれと怒られてしまうかもしれない。
一般のビジネスパーソンの場合は、どうしても上から与えられた問題を鵜呑みにしがちである。
したがって、課題レベルを疑うのはむずかしいかもしれない。
でもちょっと待ってほしい。
与えられた問題は正しいとはかぎらない。
与えられた問題をそのまま解いても正解にはつながらない可能性がある。
たいして成果があがらない可能性もある。
つまり問題をあなたにもちかけた人のためにもならないのである。
論点を与えられたときには、つまりなにか命令を受けたときには、まず与えられた問題を疑うことから始めるべきだ。
問いの設定が正しく行なわれていれば、成功は半ば保証されたようなものである。
逆に問いの設定が間違っていれば、その後の戦略の策定・実行をいくら精緻華麗に行なったとしても、もともと方向性が間違っているのだからよい結果につながるはずがない。
「うちの会社は利益が上がっていない」
「○○社より利益が上がっていないのは問題だ」
と悩んでいる場合、それが本当に問題かどうかは、きちんと見極める必要がある。
そもそも企業は多くの問題を抱えている。
売上や利益といった数字的な問題もあれば、社員のモチベーションが低い、社員定着率が低いなどの問題もある。
だが、それらは一般的には問題といわれるものであっても、その会社にとっては論点ではないことが多い。
一般的な問題をすべて解決しようとすると、短所がないかわりに長所もないという特徴ない会社になり、収益もあがらない。
論点を見つけるには、
「本当にそれが論点か」
とつねに疑問を持つ。
「これが問題だ」という人の話を聞いて「なるほど」と思ってもそこで思考を止めてはいけない。
「なるほど・・・でも、なぜなのか」と、「なぜ」を繰り返す。
必要性を感じていても後回しにしてしまっているなら、なぜ優先順位が低くなっているのかを考えてみる。
「なぜ」を繰り返して課題の真因に迫っていくことができる。
複数の論点が思い浮かばないとすれば、それは要注意である。
視野が狭いために一つしか浮かばない、あるいは、逆に思い込みが激しく他の論点があることを見逃しているかのどちらかを疑う必要がある。
ときに質問される側にすれば「意外」とも感じる質問があるに違いない。
その種の質問をあなたは医者にかかったときに体験しているのではないか。
例えば、「熱があるから、熱を下げる薬が欲しい」といったときに、
「ゆうべ、なにを食べましたか」と聞く。
「熱にどういう関係があるのか」と思うだろう。
それは医者が単なる風邪ではなく、食あたりを疑っているとか、素人が想像していないことを考えている。
質問される側にすれば「意外」と感じる質問だが、質問者にとっては論点にたどり着くための質問にほかならない。
ビジネスチャンスは、常識を疑うことから生まれる
■ 「疑う力」
「疑う力」をつけるというと、あまりよくない印象を持つ人もいるかもしれません。
しかし、「疑う力」を持つことは、おそらく多くの人が思う以上に、さまざまなメリットがあります。
一つは、騙されないことです。
これは「疑う力」と聞いて、まず多くの人が最初に思い浮かべるものでしょう。
詐欺などにも引っかかりにくくなりますし、消費者として、どのように行動すべきかも見えてきます。
また、政治家の発言や政策に対しても、一度、裏があるのでは、と疑ってみることは大切です。
研究やビジネスなどでは、「疑うこと」が発明や発見につながります。
新しい発見は、常識を疑うことから生まれます。
ビジネスチャンスも、常識を疑うところから、たくさん生まれています。
また、健康維持に役立つというメリットもあります。
ふだんと違う自分に気づきやすくなります。
「たいしたことないだろう」などと放っておく人と、「もしかしたら深刻な病気かもしれない」と疑って医者にかかる人では、場合によっては寿命すら違ってきます。
「疑う力」を持つというと、権威に逆らうアウトロー的なものをイメージする人もいるかもしれませんが、両者はイコールではありません。
いまの自分の考えの土台をつねに疑う。
これもまた大事な「疑う力」です。
人は情報が少なく、自分で検証が難しい問題について、「権威」の言うことを信じたがります。
人が無条件に信じてしまう「権威」には、「警察官」「医者」「大学教授」「人気タレント」などがあります。
これら「権威」の言うことを、多くの人は無条件に信じます。
ステレオタイプな権威への妄信が、「疑う力」を停止させ、思考停止に陥らせる一つの原因です。
ほかにもステレオタイプな考え方の例として、「東大生 = 真面目」というものや「マスコミ = 権威」というものがあります。
さらに多くの人が思い込みがちなステレオタイプとして、「官僚 = 優秀」があります。
逆に言えば「権威」に対して強くなれば、「疑う力」は向上します。
たとえば国が発表したからといって、正しいとは限らないと考えるなど、つねにそういう思考の癖を身につけておくのです。
疑問を持つことにメリットが感じられる会社って?(パート2)
んでもって・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、こんなのからも一応念のために考えてみるのはどーでしょう?
(⌒▽⌒)ノ
疑問とは?
○ コトバンク
- うたがい問うこと
- 本当かどうか、正しいかどうか、疑わしいこと。また、その事柄
素朴な疑問とは?
○ Weblio辞書
深く検討されていない単純な質問、常識的な物事に対する疑問の投げかけなどを指す表現。
疑問を持つことにメリットが感じられる会社って?(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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