「鵜呑みにする時としない時の違いって何だろ~? ( ̄‥ ̄;) 」
「教育(共育)との関係って何かあるのかな~? (;´д`) 」
「鵜呑みにするってどーゆーことなんだろ~?どーして鵜呑みにしちゃうんだろ~? (; ̄Д ̄) 」
「どんな時に鵜呑みにしちゃうんだろ~?どんな時だったら鵜呑みにしないんだろ~? (・_・;) 」
「と言っても、何でもかんでも鵜呑みにしてしまうわけじゃーなくて、鵜呑みにしない時もあれば、つい鵜呑みにしてしまいそうになる時もあるんだけど、鵜呑みにしてしまう時としない時の違いって何なんだろーか?(;・∀・)」
「鵜呑みにしちゃうのって主体性がないってことなんだろーか?それとも疑問が持てていないから鵜呑みにしちゃうんだろーか?鵜呑みにすることと教育(共育)って何か関係があるんだろーか?関係しているとしたらどう関係しているんだろーか? ヽ(;▽;)ノ 」
などなど・・・
「三方よしの経営相談」、「自律型人材育成」や「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
主体性があろーがなかろーが・・・
誰にでも多かれ少なかれ鵜呑みにしてしまう時がある
んじゃーないかな~???
( ・ _ ・ )
鵜呑みにしてしまったことに気づいて、ショックを受けたりめちゃくちゃヘコんだりすることもあるだろーけど、でも考えようによっては・・・
鵜呑みにしてしまって後悔した時こそ、失敗から学ぶチャンスとも言える
んじゃーないかな~???
ヾ(*´∀`*)ノ
つい鵜呑みにしてしまいそうな時とか、鵜呑みにすることはない時とかって、共通している点もあれば、人によって違う点もあるかもしれないけど・・・
自身がどんな時に鵜呑みにしてしまいやすいのか等の傾向がわかれば
対処の仕方もわかる
場合だってあるんじゃーないかな~???
(〃⌒∇⌒)ゞ
だとしたら・・・
こーゆー疑問って意外と大事
なのかも~???
d(⌒o⌒)b
なーんて感じることもあるのと、それにコレってもしかしたら・・・


















などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので・・・
そもそもの話、鵜呑みって、いったい何なんだろーか?
鵜呑みにするって、いったいどーゆーことなんだろーか?
鵜呑みにしてしまう原因って、いったい何なんだろーか?
どーして鵜呑みにしちゃうんだろーか?
どんな時に、鵜呑みにしてしまいやすくなっちゃうんだろーか?
どんな時なら、鵜呑みにしてしまうことはないんだろーか?
鵜呑みにすることと教育(共育)とは、何か関係するんだろーか?
もし関係があるとしたら、どんな教育(共育)だったら鵜呑みにしてしまうんだろーか?
どんな教育(共育)だったら、鵜呑みにしてしまうことはないんだろーか?
鵜呑みにすることと常識とは、何か関係するんだろーか?
鵜呑みにすることと視野や視点とは、何か関係するんだろーか?
どんな組織だったら、鵜呑みにしてしまいがちなんだろーか?
どんな組織だったら、鵜呑みにしてしまうことはないんだろーか?
鵜呑みにすること、鵜呑みにしないことのメリットやデメリットって、いったい何なんだろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
などなども含めて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
鵜呑みする時としない時の違いや教育(共育)等との関係って?
(パート1)
んーと・・・、もしかしたら・・・


なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、例えばこんなのからまずは考えてみるのはどーでしょう?
(⌒▽⌒)ノ
鵜呑みとは?(鵜呑みにするとは?)
○ コトバンク
《ウが魚をまるのみにするところから》
- 食物をかまずにのみ込むこと。まるのみ。
- 物事の真意をよく理解せずに受け入れること。
「宣伝文句を鵜呑みにする」
鵜呑みする時としない時の違いや教育(共育)等との関係って?
(パート2)
で・・・
次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
大切なのは、与えられた問題点を鵜呑みにしないこと
■ 「論点思考」
一般のビジネスパーソンの場合は、どうしても上から与えられた問題を鵜呑みにしがちである。
したがって、課題レベルを疑うのはむずかしいかもしれない。
大切なのは、与えられた問題点(仮の論点)を鵜呑みにせず、「本当の論点はなにか」と考える態度だろう。
多くのビジネスパーソンは、与えられた論点について質問などせず、すぐに着手するだろう。
上司に
「なぜこれをやるのか」
「目的はなにか」
などと聞くことはあまりないかもしれない。
もともと日本の組織では、なにかをやるときにその理由を開示する習慣があまりない。
部下が上司に質問したら、「つべこべいうな」と一蹴されてしまいそうだ。
あるいは非礼と受け取られるかもしれない。
だが、課題が指示された段階で、質問したり、仮説をぶつけたりするのは重要なことだ。
実は上司も論点が明確でないまま、部下に仕事を振り分けているケースがある。
だから質問や仮説をぶつけることによって、上司の論点を明確にしていく作業は重要なのである。
ときに質問される側にすれば「意外」とも感じる質問があるに違いない。
その種の質問をあなたは医者にかかったときに体験しているのではないか。
例えば、「熱があるから、熱を下げる薬が欲しい」といったときに、
「ゆうべ、なにを食べましたか」と聞く。
「熱にどういう関係があるのか」と思うだろう。
それは医者が単なる風邪ではなく、食あたりを疑っているとか、素人が想像していないことを考えている。
質問される側にすれば「意外」と感じる質問だが、質問者にとっては論点にたどり着くための質問にほかならない。
権威への妄信が、思考停止に陥らせ鵜呑みを生む
■ 「疑う力」
「疑う力」をつけるというと、あまりよくない印象を持つ人もいるかもしれません。
しかし、「疑う力」を持つことは、おそらく多くの人が思う以上に、さまざまなメリットがあります。
一つは、騙されないことです。
詐欺などにも引っかかりにくくなりますし、消費者として、どのように行動すべきかも見えてきます。
また、政治家の発言や政策に対しても、一度、裏があるのでは、と疑ってみることは大切です。
研究やビジネスなどでは、「疑うこと」が発明や発見につながります。
新しい発見は、常識を疑うことから生まれます。
ビジネスチャンスも、常識を疑うところから、たくさん生まれています。
いまの自分の考えの土台をつねに疑う。
これもまた大事な「疑う力」です。
じつは「自分自身を疑う」というのは、一番難しいことです。
多くの人は、自分自身は、信じられると思っています。
数字を使ったトリックで、心理学で「ゲインロス効果」と呼ばれるものがあります。
最初に大きく見せておき、あとから小さくするのを前提に、最初は大きな数字を言うのです。
たとえばある商品の値段について、最初は「20万円です」と言うとします。
相手が「高いな・・・」と渋ると、徐々に値段を下げていき、最終的に5万円で売るケースがそれです。
こうすると最初から「5万円です」と言うより、買い手は「安い」と感じます。
20万円と言われたものを5万円で買ったほうが、「15万円も安くなった」と喜ぶものです。
相手が最初に言っていた数字を下げた場合、一見こちらに譲歩したように見えて、じつは相手のほうが得をしていることは少なくありません。
得をしたのは相手なのに、こちらが得をしたような錯覚に陥ってしまう。
知っていれば、そんな騙しの手口にも引っかかりにくくなります。
「販売個数」も、売り手の言う数字が信用できないものの一つです。
典型が「限定10個」といった限定品で、実際は10個以上あるのに、希少性を出すため、あえて少ない数を言っている可能性があります。
まだまだ席に余裕があるのに、「あと何席です。お早めに」などと宣伝するのも、そうです。
提示されている数と、実際に余っている数に違いがあるのは、ホテルの空き室でも珍しくありません。
ホテル側が希少性を持たせようとしているわけではありませんが、予約サイトの仕組みを知っていれば「満室」とあっても鵜呑みにせず、「別ルートなら空き室があるかも」という発想ができるようになります。
以前、ある会社の幹部からこんな話を聞きました。
この会社の工場で、不良品が大量に出るようになったときのことです。
経営コンサルタントが提示した結論は、「設計プロセスに問題がある。三次元CADを導入すべき」というものでした。
三次元CADの導入には数千万円かかり、その後の教育やメンテナンスもいろいろ大変です。
そこでその会社はコンサルタントの話を鵜呑みにせず、この導入を決める前に、もう一度初心に返って、原因を徹底調査することにしました。
調べたところ、不良品の50パーセントは設計変更とは関係なく、過去のミスを繰り返していたことによるもの、とわかりました。
つまり過去のミスの経験がほかの人たちに伝わっておらず、そのため同じミスが繰り返されていたのです。
また、その部署では、ミスのデータ整理がきちんと行われていなかったこともわかりました。
そのため前の担当者が犯したミスと同じミスを、次の担当者も犯していたのです。
その会社ではこれまで二次元CADを使っていましたが、この使い方を間違えている場合もあったことがわかりました。
そもそもこのコンサルタントは、問題の工場に一歩も足を踏み入れていませんでした。
机上の空論で、数千万円もする三次元CADの導入を提案したのです。
この教訓は、専門家の言うことを鵜呑みにするな、ということです。
経営に一般論はありません。
ほかの企業でうまくいったことをそのまま真似ても、自分の会社でうまくいくとは限らないのです。
ある人に効いた薬が別の人に効かないこともあるのとまったく同じです。
人は情報が少なく、自分で検証が難しい問題について、「権威」の言うことを信じたがります。
人が無条件に信じてしまう「権威」には、「警察官」「医者」「大学教授」「人気タレント」などがあります。
これら「権威」の言うことを、多くの人は無条件に信じます。
ステレオタイプな権威への妄信が、「疑う力」を停止させ、思考停止に陥らせる一つの原因です。
ほかにもステレオタイプな考え方の例として、「東大生 = 真面目」というものや「マスコミ = 権威」というものがあります。
さらに多くの人が思い込みがちなステレオタイプとして、「官僚 = 優秀」があります。
逆に言えば「権威」に対して強くなれば、「疑う力」は向上します。
たとえば国が発表したからといって、正しいとは限らないと考えるなど、つねにそういう思考の癖を身につけておくのです。
認知コストは、「ソーシャルブレイン(社会脳)」という脳科学の新しい分野の研究で使われる言葉です。
人間は他人の意見を聞いたとき、それを批判する場合と受け入れる場合では、「受け入れる方が楽」と考えます。
批判するにはエネルギーが必要ですが、受け入れるのは、自分で何もしなくてもできるからです。
コンサルタントやリサーチャーに頼むのも、まさに認知コストを下げるためといえます。
自分で調べるのが面倒だから、お金をかけて調査を頼むのです。
「プロの出した結論だから、受け入れてもいいだろう」というわけです。
認知コストが下がっているのは、世の中のすべてを基本的に妄信しているからかもしれません。
時代の流れや、権威主義的な傾向が強くなっていることも影響しているのでしょう。
そうした中では、「先生の言うことは正しい」ということにもなってしまうのです。
これは教師にとっては楽な話ですが、危険な傾向でもあります。
宣伝を鵜呑みにし、つい衝動買いしてしまうとき
■ 「「判断力」を強くする」
野生動物が持っている危険を回避する本能が警戒心です。
もはや野生動物ではない私たちヒトにとっての警戒心とは、「その情報は本当か?」と疑う力です。
「疑う力」の不足は、判断ミスを誘います。
商品を実際に使ってみると、あまり自分に合わないことが分かり、いつの間にか押入れの奥にしまいっぱなし・・・ということもあります。
それほど欲しかったわけでも、必要なわけでもないのに、巧みな宣伝に乗せられて、つい衝動買いしてしまうのです。
テレビやチラシを通して受け取った情報(宣伝)を鵜呑みにし、その商品を「すばらしい」と判断して飛びついた結果です。
ファッション誌を華やかに色どるモデルたちの細身な体形は、商業目的の不自然な細身とも言えます。
ところが、そんな雑誌を眺めている女性たちは、いつの間にか洗脳され、憧れてしまうのです。
このように、本来「自分の価値観」だと思っていることが、じつは「他人の価値観」を刷り込まれていることが少なくありません。
判断を間違える代表的な原因は「近視眼」ではないでしょうか。
現状に関して全体像が見えず、狭い範囲で物を見て判断することです。
「木を見て、森を見ず」型の判断ミスです。
狭い範囲で考えているので、本当はいろいろある選択肢の中で、限られた選択肢だけしか見ていないことがあります。
つまり、価値ある他の選択肢の存在に気づけてないのです。
自分が勝手に限定していた最初の選択肢の中でなかなか判断がつかない、ということはよくあることです。
価値ある選択肢を見落とすケースです。
予想もしていなかったまったく違う別の選択肢の中に進むべき道があったりします。
鵜呑みにすることがない教育(共育)とは?
■ 「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」
ドイツの学校を見ていて感じるのは、勉強の目的は知識の量を増やすことではなく、後々まで使える底力のような能力を培うことに重点が置かれていることだ。
簡単に言うと、「論理を構築する力」と「主張する力」と「妥協点を見つける力」である。
日本の高校生の勉強が往々にして、全方面的な知識の集積と、大学受験のためのテクニックの習得のようになっているのとはだいぶ違う。
日本とドイツの高校生の学力を比べたなら、知識の量は日本の生徒のほうが断然多い。
また、初めて教わることを理解するのも、日本人のほうが素早い。
ただ、日本の生徒の知識は、ほとんどが受動の知識なので、いざ、その知識を能動的に駆使するとなと、ドイツの生徒のほうが俄然強くなるだろう。
まず彼らは、何を聞いても何を読んでもそのまま鵜呑みにすることはない。
すべてを、「本当に正しいのか」、「なぜ正しいのか」と疑ってかかる。
「懐疑的であれ」ということを徹底的に教え込まれているのだ。
それは、70年前、この国の人間がヒトラーを妄信し、一丸となって破滅へと突き進んだことへの反省でもある。
彼らは、教わっている最中でさえ受動的ではない。
自分の意見は何だろうといつも考えている。
そして、考えたことを躊躇せずに主張する。
ドイツ人とは、おそらく日本人の10倍ぐらい疑い深く、日本人の10倍ぐらい主張の強い人々だ。
それに比べて私たちは、もともと人を疑ってかかるより、信頼に基づいて暮らしてきた民族だ。
相手の立場を理解し、相手の気持ちを考えて、まず、なるべく仲良くやろうというベクトルが自然に働く。
他人を理屈でねじ伏せる訓練は受けておらず、闘争のDNAもあまりない。
日本では、素直であることが美徳であり、相手を理解する能力が重要なのだ。
そして今までは、黙っていても、持ち前の優秀さと勤勉さが技術を伸ばし、国を豊かにしてくれた。
この島国では、結構平和に回ってきたのである。
ただ問題は、日本人がこの平和な島の中で、考えを同じうする人々とだけ暮らしていけた時代は、とっくに過ぎてしまったということだ。
鵜呑みにさせるための大衆扇動術
- 大衆は愚か者である。
- 同じ嘘は繰り返し何度も伝えよ。
- 共通の敵を作り大衆を団結させよ。
- 敵の悪を拡大して伝え大衆を怒らせろ。
- 人は小さな嘘より、大きな嘘に騙される。
- 大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな。
- 利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ。
- 貧乏な者、病んでいる者、困窮している者ほど騙しやすい。
- 都合の悪い情報は一切与えるな。都合の良い情報は拡大して伝えよ。
- 宣伝を総合芸術に仕立て上げろ。大衆の視覚聴覚を刺激して感性で圧倒しろ。
「大本営発表」と「メディア」の関係がもたらした最悪の結果
■ 新聞が報じなかった、本当の被害
米側の記録では、東京大空襲に投じられたB29は344機。
1700トンの焼夷弾を投下し、都内は文字通り焼け野原となった。
約10万人の命が奪われ、27万棟が焼け、100万人が家を失った大災害。
しかし当時の「大本営発表」はたったの、これだけだった。
130機という数字は、米側の発表とかけ離れる。
さらに被害については、「各所に火災」としかされていない。
さらに100万の罹災者、10万の死者は「その他」の被害とされた、のだ。
当時の新聞もこうした発表にならい、被害の全貌を伝えなかった。
太平洋戦争末期に全国各地で相次いだ空襲の被害。
奪われた多くの命があったにも関わらず、その実態が報じられることはなかった。
大本営発表そのままの報道だ。
戦況が悪化するにつれ、「大本営発表」は数字や言葉をどんどんとごまかすようになった。
そして、メディアはそれをチェックせずに伝え続けた。
首都・東京で大空襲があっても、それは変わらなかった。
その後の沖縄の地上戦や広島、長崎への原爆投下でも、だ。
「大本営発表」と「メディア」
両者の関係がもたらした最悪の結果を、私たちは知っている。
鵜呑みにするのではなく、自分で考えて納得してから決断する力
■ 「Why?」を声に出すことの重要性
欧米では、「それはいい質問ですね!」というフレーズは何よりも重宝されます。
「いい質問」をする人はエソス(個人の特質)があり、自分の中で少しでも「どうして?」「Why?」があれば、発言する傾向がある。
と言うよりも、発言せずにはいられないのです。
「質問する力」とは、政府や、マスコミや評論家の言うことを鵜呑みにするのではなく、まず、自分の頭で考え、疑問点があればとことん追求し、自分で納得してから決断する力のこと。
自分で考える力を付け、それを「Why」と一緒に質問できる力こそ、今の日本には必要なのではないでしょうか?
就活生が鵜呑みにする「就職ナビサイト」の危険性
■ 就活生が鵜呑みにする「就職ナビサイト」の危険性
かつて私はライターとして、この業界から仕事を受けていたが、実際のところはさておき、「明るい未来が開けている」「風通しがよい」「グローバル化を推進する」「メセナなど社会的貢献を志向する」、人材へのインタビュー内容についても「やる気満々」「充実した企業ライフを過ごしている」という文脈での記述を要請されたことを覚えている。
これに従わないと即刻クビという匕首(あいくち)が突きつけられていた。
美辞麗句の盛り方は、ある意味「カネ次第」。
カネを盛ると話も盛られるという構図が出来上がっている。
優良企業もブラック企業も、みんな「すばらしい会社」と「評論」されるのである。
人材を適切な場所に配置することを旨とするはずが、実は営利を優先するがゆえにミスマッチを生む。
混乱を生じさせる一因ともなっているのではなかろうか。
世間一般の「幸せのカタチ」を鵜呑みにすることほど危険なことはない
■ 幸せの定義
自分にとっての「幸せ」とは何か。
そこに思いを巡らせる行為を怠り、世間一般の「幸せのカタチ」を鵜呑みにすることほど、危険なことはない。
「幸せとは何か」
――もちろん、たやすく答えが出るものではない。
でも、少なくとも他者にその答えを求めるのはやめにしよう。
世間体とやらに幸せを預けるのもやめにしよう。
自分で悩み、考え抜いたって、たどり着けるかはわからないのに、他者から与えられた答えを追って、何になるというのか。
オレの幸せは、オレが決める。
あなたの幸せは、あなたが決めればいい。
だれの人生でもなく、あなたの人生なのだから。
これはほかでもない、僕の人生なのだから。
企業が発信した「上から目線」の情報を鵜呑みにしないとき
■ 「「応援したくなる企業」の時代」
従来、企業と顧客はシンプルな双方向の関係にあった。
そのため、商品やブランドに関する情報は、企業の側で容易に管理することができた。
しかし、コミュニティが発達するにつれて、企業と顧客の関係は、双方向だけでなく、顧客と顧客の関係をも含む三角関係になった。
企業が発信した情報であっても、受け手である顧客はそのまま鵜呑みにせずにコミュニティ内の他のメンバーと確認し合ったり、まったく異なる情報を得たりすることが可能となったのである。
このようなコミュニティが発達すると、顧客は情報発信元の企業よりも周囲の評価やクチコミのほうを高く信頼し、重要視するようになる。
その結果、企業と顧客は上下の関係ではなくなり、企業もまたコミュニティメンバーと横並びの存在になる。
近年はSNSなどのソーシャルメディアが普及したことにより、形成されやすくなっているのだ。
このような状況下では、すべての生活者が周囲から情報を得られるようになるだけでなく、ひとりひとりが情報発信を積極的におこなうこともできる。
そこでは企業と生活者は対立概念ではなく、対等である。
にもかかわらず、企業が「上から目線」で”売らんかな”という姿勢でのぞめば、当然、生活者たちは敏感にそれを嗅ぎ取り、共有し合い、たちまちのうちにその企業を忌避してしまう。
鵜呑みする時としない時の違いや教育(共育)等との関係って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・













などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?




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