「意識って何だろ~?意識を変えるってどーゆー意味なんだろ~? ( ̄ー ̄?)」
「意識するとか意識を変えるとか意識が高いとか意識改革とか、経営者意識とか当事者意識とか問題意識とか仲間意識とか帰属意識とか危機意識とか、意識ってつく言葉がたくさんあるけど、そもそも意識が何なのかよくわからないからなのか、どーもピンと来ないんだけど・・・? (ーー;) 」
「気づきを得るとか気づくとかって言葉を聞くこともあるけど、もしかしてコレって意識とも関係しているんだろーか? ( ̄∧ ̄ ) 」
「意識していないから気づけないってことなんだろーか?それとも気づかないから意識できないってことなんだろーか? (;゜∇゜) 」
「意識を変えるには何をどーしたらいいんだろ~? (; ̄ェ ̄)」
「誰が何をどう変えたら意識が変わるものなんだろ~? ( ̄‥ ̄;) 」
「意識を変えろって言われることもあるんだけど、どーして意識を変える必要があるんだろ~?何のために意識を変える必要があるんだろ~? 。゚(゚^o^゚)゚。 」
「誰のために意識を変える必要があるんだろ~?意識を変えるメリットやデメリットって何なんだろ~?意識を変えなかったら何がどーなっちゃうんだろ~? p(´⌒`q) 」
などなど、このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
「経営理念・ビジョン・経営計画等の作成」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「人材育成戦略(戦略的な人材育成)」、「自律型人材育成」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
こーゆー疑問って意外と大事
なんじゃーないかな~???
(`・ω・´)
なーんて感じることもあるし、その一方で・・・
「意識を変えろって何度も言っているんだけど、教育もしているんだけど、何をどーやっても意識を全然変えてくれないんだよね・・・ (・・、) 」
「何度も教えたり注意したり叱ったりしているのに、いちいち指摘しないと気づいてくれないし、いったい何をどーしたら気がついてくれるんだろ~?ヽ(;▽;)ノ」
「漫然と何となく仕事するんじゃなくて、もっとちゃんと意識して仕事して欲しいのに、何度言っても意識してくれないんだよな・・・ (;・∀・)」
「毎日仕事していたら気づくことって普通だったらあるはずなのに、どーして気がついてくれないんだろ~?コレってやっぱり意識の問題なのかな~? (|||▽ ) 」
「ウチの部下って、上司の気持ちにどーして気づいてくれないんだろ~? (o´д`o)=3 」
「ウチの上司って、部下の気持ちにどーして気づいてくれないんだろ~? (;´д⊂) 」
「ウチの社長って、従業員の気持ちにどーして気づいてくれないだろ~? (´;ω;`) 」
「従業員の意識を変えるいい方法って、なーんかないかな~? (;´Д`)ノ 」
「社長や管理職の意識を変えるいい方法って、なーんかないかな~? ( TДT) 」
などなど、このような切実な声をお聞きすることもあるんですけど・・・
(;´・ω・`)
「意識」とか「気づき」とかとは一見、全然関係ないように感じるかもしれないけど、実はコレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
意識を変えるとは?気づきとは?誰が何をどう変えたら変わる?
(パート1)
んーと・・・
社内で言うところの「意識を変える」とか「意識する」とか「当事者意識」とか「問題意識」とか「危機意識」とかとは一見、何の関係もないように思えるかもしれないけど・・・
視点が変われば何か気づくこともあるかもしれないので、例えばこんなのからまずは考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
意識すらしたことがないし、意識の変えようもない状態の時って?
例えば、こーんなベンチとか・・・
こーんなベンチとか・・・
こーんなベンチとかがあったとするっす~。
これらのベンチを見て・・・
「ほれほれほれ~っ!意識しろ! (*-`ω´-*)ゞ 」
「もっともっともぉーっと意識しろ! (。 ̄x ̄。) 」
「とっと意識を変えろ! ヽ(*`Д´)ノ 」
「さっさと気づけよ! ( )`‥´( ) 」
「は?意識を変えるってどーゆーコトなのかって!? ( ̄" ̄;) 」
「それぐらい自分で考えろぉー! ( `ロ´) ≪ 」
「そもそも当事者意識ってものがなさ過ぎる!(〝▼皿▼)=3」
「もっと危機意識を持て!もっと問題意識を持て! ヽ(`⌒´メ)ノ 」
などと言われたとしても・・・
「えーっと・・・、意識しろとか意識を変えろとかって言われてもぉ~・・・ (;´д`) 」
「何をどう意識しろってゆーの???どんな意識をどう変えろってゆーの??? p(´⌒`q) 」
「それぞれのベンチの何が違うかぐらいだったらわかるんだけどさぁ~・・・ ( ゜ロ゜) 」
「仕切りがあるのかとか、どこに仕切りがあるのかないのかぐらいの違いしかないと思うんだけど??? 。゚(゚^o^゚)゚。 」
「だからそれが何???って感じなんだけど・・・??? ( ̄ー ̄?)」
「それで意識しろだの意識を変えろだの、当事者意識がどーのだの危機意識がどーだの問題意識がどーのだのって言われても、何をどーしたらいいのかわからないんだけど???チンプンカンプンなんだけど??? o゚p(∴´⌒`∴)q゚o。」
なーんて思っちゃいません?
( ̄  ̄;)
今まで意識していなかったことで初めて意識するきっかけになった時って?
そーゆー私も以前は、あーんなベンチとかこーんなベンチとかがあるなんて全く気づかず、意識したことすらなかったんっすけどね・・・
だけど、ある知人と一緒に歩いている時に、たまたまベンチを見かけて、その時にその知人が・・・
「そーいやーさー、あの手の仕切りがあるベンチって、どーゆー意味があるのか知ってる?どーして仕切りがあるのか知ってる? ( ;-`д´-) 」
「あの手の仕切りがあるベンチって、実はね・・・ (;´゚д゚`) 」
って、教えてもらったんっすよね・・・
めちゃめちゃショックを受けた覚えがあるっすよ・・・
マジ!?アレって・・・ (;゚;Д;゚;;) 実はそーゆー意味だったのか・・・!?
さらに意識するようになった出来事って?
んでー、意識しながら街中をうろちょろしてみたところ・・・
うろちょろぉ~ (・ ・。)(。・ ・) うろちょろぉ~
仕切りのあるベンチ以外にも、他にも例えばこんなのとか・・・
こーんなのとかをいっぱい見つけちゃったんっすよ・・・
いやー・・・
まさか、こーんなにあっちゃこっちゃにあるとは・・・
ココにもココにも!! ((((゚ □ ゚ ) ゚ □ ゚)))) こんなところにも!!
さらにさらにショックを受けちゃいますたよ・・・
ガ━━━━ (= ̄□ ̄=)━━━━ ン!!
因みにこの手のブツは、「排除オブジェ」とか「排除アート」とかって言うらしいっす・・・
この手のブツが、こんなにあっちゃこっちゃにあったってコトにもショックだったけど・・・
それなのに全く意識することなく、それまで気づくこともなかった自分自身に対して、めちゃくちゃショックですた・・・
ガビーン Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン
意識を変えるきっかけになった出来事って?
で・・・
ようやく意識するようになったものの、あまりにも知らないことだらけだし・・・
申し訳ない気持ちでいっぱいだし、こんな自分にもできることは何かないだろーか?
(´;ω;`)
などと感じたので、夜回りとかに参加してみたんっすけど・・・
当事者の方や夜回り参加者の方にいろいろと教えてもらったお陰で、さらにさらにショックを受けちゃって、意識が大きく変わるきっかけになったんっすよ・・・
え゛!? (((( ;゜д゜)))) 襲撃!?
んでー、死亡者まで出ているって惨状を知ったり、襲撃する側はどーして襲撃するのかって原因も知ったりしたからなのか、ものすごーく世知辛い気持ちになって、社会のシステムってものを考える機会になったり・・・
(っ´;ω;’c)
自分は当事者じゃないと思っていたとしても、今のご時世、誰がいつ当事者になってもおかしくないよなー、決して他人事じゃないよなー、自分だけは絶対に大丈夫って考え方はヤバイよなーって当事者意識を持つようになったり・・・
危機意識とか問題意識とかも、ようやく持てるようになったりしたんっすよ・・・
(;゚;Д;゚;;)
意識を変えるとは?気づきとは?誰が何をどう変えたら変わる?
(パート2)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「え゛!?アレってそーゆーコトだったの!? (;゚;Д;゚;;) 」
「今まで意識すらしていなかったかも!? Σ( ̄ロ ̄lll) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「うぉー・・・、無関心って実はめっちゃコワイことなのかも・・・!?自助とか自己責任とか自業自得とかについても考えさせられちゃうかも・・・!? ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
「こーゆーのもそーなんだけど、意識していないだけで他にも実はいっぱいあったりなんかするのかも・・・!?目の前にあって毎日のように見ているのに気づいていないコトって、実はいっぱいあったりなんかするのかも・・・!?((((;゜Д゜))) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「こーやって考えてみると、疑問を持つって大事なのかも・・・!?何でもかんでも鵜呑みにしちゃったらヤバイのかも・・・!? ((((゚ □ ゚ ) ゚ □ ゚)))) 」
「目の前で起こっているのに意識していないから気づいていないしスルーしちゃっているし、気づいていないから意識を変えようもないってコトなのかも・・・!? \( ̄▽ ̄;)/ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「同じものを見ていても、気づく人もいれば全然気づかない人もいるし、意識する人もいれば意識しない人もいるのってどーしてなんだろ~??? (・_・;) 」
「もしかして、ナゼそうなのかって理由を知っているか知らないかとか、自分なりに考えてみたのか考えてみていないのかとかの違いなんだろーか? (;゜Д゜) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「理由を知らなければ意識のしようもないし、気づくこともないもんなー・・・( ̄▽ ̄;) 」
「だけど、理由を知ったからと言って意識する人もいれば、意識しない人もいるよーな気がしなくもないんだけど、それってどーしてなんだろ~??? (; ̄Д ̄) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識を変えるってどーゆー意味なのか、言葉の辞書的な意味を調べて丸暗記するだけじゃー、意識を変えられないってコトなのかも・・・!? ( ̄○ ̄;) 」
「いくら机の前で考えていても理解できないってコトなのかも・・・!?実際に行動してみて自分で体験してみなければ意識を変えられないってコトなのかも・・・!? (|||▽ ) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「あ・・・、でも、書籍とかを読んだりニュースとかを見たりなんかしても、意識が変わることもあるよなー ( ̄ー ̄?)」
「あっそー、ふーんで終わっちゃって、意識することもなければ意識が変わらない時もあるけど、何がどう違うんだろ~??? (´・ω・`) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「もしかしたら、知識として丸暗記するだけじゃー、意識が変わることはないのかも・・・・・・!? ( ゜д゜) 」
「大きなショックを受けるぐらい感情を揺さぶられるような出来事を通じないと、意識が変わることはないのかも・・・・・・!? ヽ(;▽;)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識を変えろっていくら言っても何度言っても、どれだけ教育をしても、意識を変えようがないってコトなのかも・・・!? ( ̄▽ ̄|||)」
「だよなー、意識を変えろって言っている側だって意識していないことがたくさんあるし、意識を変えようとしていないことだっていっぱいあるもんな・・・ (´ε`;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「当事者意識にしても危機意識にしても問題意識にしても、いきなり持てるようになるものでもないってコトなのかも・・・!? (;゜д゜) 」
「何事にも順序ってものがあって、まずは意識をするようになって、状況とか背景とか原因とかを知ってから意識が少しずつ変わって行って、当事者意識とか危機意識とか問題意識とかを徐々に持てるようになるってコトなのかも・・・!? (ーー;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「当事者なのか当事者ではないのかって違いも、もしかしたら大きいのかも・・・!? w( ̄△ ̄;)w 」
「当事者って自覚があったら、嫌でも意識するし意識が変わっちゃう時もあるような気がしなくもないかも・・・!? (* ̄△ ̄) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「だけど、当事者になっちゃうと途端に意識しなくなって見えなくなっちゃうコトもあるもんなー・・・ 。゚(゚^o^゚)゚。 」
「社内の非常識って言うし、その会社でしか通用しないこともあるし、そう考えると組織文化なんかも意識に関係して来るのかも・・・!? (@ ̄□ ̄@;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「人によっても価値観によっても状況によっても、何が心に響くのか響かないのか、何が意識を変えるきっかけになるのかならないのかって、もしかしたら違うのかも・・・!? p(´⌒`q) 」
「いずれにしても、内輪だけのコミュニケーションとか当たり障りのない会話とか、毎日ルーチンでやっている仕事とかよりも、普段接することがあまりない人の話を聞くとか出来事を実際に体験してみるとかの方が、よっぽど意識が変わりやすいのかも・・・!? ( ー`ω´ー ) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ってゆーか、意識って変えるものなんだろーか? ( ̄・・ ̄)」
「それとも、意識って変わるものなんだろーか? ( ・_・) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「誰かに意識を無理やり変えられるのって、まるで洗脳みたいだから、いくら仕事でもやっぱヤダよなー・・・ ( ̄_ ̄|||) 」
「自発的に意識を変える方がまだマシだよなー・・・、となると、何をどーしたら自発的に意識を変えることにつながるんだろ~??? σ( ̄∇ ̄;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識するとか意識を変えるとかって、人材育成の面の問題なんだろーか? ( ̄∧ ̄ ) 」
「それとも、組織の面の問題なんだろーか? (;・∀・)」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識を変えるメリットって何なんだろ~??? (´-д-`) 」
「それって、誰にとってのメリットなんだろ~??? (; ̄ェ ̄)」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ってゆーか、そもそも何のために意識を変える必要があるんだろ~??? ( ´△`;) 」
「誰のために意識を変える必要があるんだろーか?社会貢献になることとか自分自身のためになることとかだったら意識を変えるメリットを感じるけど、社長や上司のためだったらデメリットしか感じられないんだけど・・・ (ヾノ・∀・`) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「頭がウニ状態じゃー!よくわからーん!意識を変えるって結局どーゆーコトなのさ!?何をどーすれば意識を変えられるのさ!? \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
で、上記を踏まえた上で・・・
例えばこんなのからも、考えてみるのはどーでしょう?
(⌒▽⌒)ノ
無意識のまま脳が実行していること
■ 「脳はなにかと言い訳する」
視界にいつも見えているのに、自分の鼻を邪魔に感じません。
何を今さら当たり前のことを、という声が聞こえてきそうです。
でも、とても不思議なことなのです。
顔をどこに向けても、鼻先はいつも同じ場所に見えています。
でも、鼻の存在はまったく気になりません。
見えている気さえしません。
これもまた脳の作用です。
無意識に視野の鼻を消しているのです。
脳には不思議なことがたくさんあります。
ただ、はっきりしていることは、「意識できること」よりも「無意識のまま脳が実行していること」のほうがはるかに多いということです。
日常生活に思いを巡らすとき、もちろん意識にのぼることしか意識できませんから、意識で感知しえたことのみが、あたかも「自分のすべて」であると勘違いしがちです。
でも本当は、無意識の大海原にこそ、脳の真の活動が潜んでいます。
無意識を知ることは、脳を知ることの醍醐味でもあります。
意識が”意外性”の反映だとしたら、面白い側面が見えてきます。
意識が表れたとき、脳は周囲の状況を解釈し、その情報を活用して、次の行動を決定しようとしています。
意識は「脳回路の成長」や「知恵の育成」を促すものだと解釈できそうです。
脳が情報をどういうふうに歪めているかというと、脳は自分にとって興味のあるものを好んで選択するということです。
たとえば、幼い子どもに、「日本地図を描きなさい」と言うと、たいていの子どもは、まず自分の家を大きく描き、次に近所周辺の道路を描き・・・
というようによく知っているところを異常に拡大して仕上げていきます。
結果として、日本地図は本人の興味を中心にして歪められてしまいます。
世界地図の場合も同様で、まず日本を大きく描いて、次にアメリカやロシアなど他の国々を描きます。
しかも、日本以外の国は小さく。
それはなぜかというと、自分にとって興味のあるもの、大切なものは、脳の中では非常に大きいからです。
自分が接している生活とインタラクション(相互作用)するのは、私たちの体であり、脳である以上、たとえ歪めてもいいから、大切なものを大きくするわけです。
ですから、その情報が自分にとって価値があれば、それに対してより強く反応する、というのは、当然のことなのです。
それゆえに私たちは日常において注意が必要になります。
そうだと思い込んでしまったら、その思い込みから逃げることができなくなってしまう不自由さ、先入観に機能が縛られてしまう危険性を伴っているということです。
逆に言えば、新しい発想、人とは違う個性とは、先入観や思い込みだけで流されてしまわないで、ほかに何か可能性がないだろうかと考えていくところから出てくるのかもしれません。
ほぼ無意識に繰り返している行動
■ 「ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか」
私たちの日常生活には、ほぼ無意識に繰り返している行動がたくさんある。
朝、寝ぼけ眼でも、朝食を食べ、歯を磨き、靴のひもを結べる。
習慣化した行動は継続しやすく、どんなに疲れていても実行できるという利点がある。
ある行動が習慣化すると、違う行動を取るほうが望ましい場合にも、私たちは同じ行動パターンを繰り返しがちだ。
同じレストランに足を運び、同じメニューを注文し、帰宅してテレビで同じ番組を見る。
もっと好ましい選択肢がほかにあるかもしれないと考えることすらしない。
判断を間違える代表的な原因とは
■ 「「判断力」を強くする」
判断を間違える代表的な原因は「近視眼」ではないでしょうか。
現状に関して全体像が見えず、狭い範囲で物を見て判断することです。
「木を見て、森を見ず」型の判断ミスです。
狭い範囲で考えているので、本当はいろいろある選択肢の中で、限られた選択肢だけしか見ていないことがあります。
つまり、価値ある他の選択肢の存在に気づけてないのです。
判断する際には、まず「鳥の目」で幅広く見渡し、できるだけ選択肢の見落としがないようにすべきです。
しかし、だからといって視野に入った選択肢のすべてをていねいに検討していては、時間がいくらあっても足りません。
そもそも深く検討する価値がない選択肢もあります。
そうした選択肢は、できるだけ早く切り捨てることです。
そうすることで限られた時間内に効率的に思考でき、判断ミスを避けることができます。
いろいろな可能性を考えず、勝手にたった一つの可能性を決めつける「思い込み」の判断ミスもよくあります。
自分の判断に対する過信状態です。
「思い込み」に陥る理由は次の2つでしょう。
一つ目は、選択肢を早々に一つに絞り込んでしまう結果です。
二つ目は、少ない判断材料で因果関係を断定した場合です。
つまり、そもそも他の選択肢をまったく見ていない状態です。
私たちの日常生活では、可能性が他にもいろいろあることを自覚さえできずに自分の判断を過信してしまうことがよくあります。
そもそも何のために「判断」しているかと言えば、自分が希望する目的地に、より早く到達したいからです。
ところが、最終目的地は遠くに霞んでしか見えないことがあります。
そのため、分かれ道では、細い道より広い道とか、きつい坂より緩やかな坂というように、目先の状況をもとに選んでしまうことはありませんか?
大きな最終目標よりも、目先の小さなことに囚われて判断を誤ることはよくあります。
脳では省力化のメカニズムが発達しています。
その脳の省力化のメカニズムの一つが「単純化」です。
しかし、時間短縮のための単純化とは、脳内処理を一部省略することなので、ときおり、そのこと自体が判断ミスの原因になってしまうこともあります。
「イタリア人は陽気」「高額の商品は高品質」「理系の人は論理的」
一方、イタリア人にも陰気な人、高額でも低品質な商品、理系出身の人でも非論理的な人がいるはずです。
脳のパターン化による単純化が悪さをするケースに限り、私たちはそれを「偏見」と呼んだりします。
脳の「単純化」は判断時間を短縮するための重要な働きなのですが、時にはそれが判断ミスを誘うのです。
一部だけに注目して、過剰に単純化して解釈する誤りは日常茶飯事です。
「単純化」は脳の大切な働きですが、ときおり誤作動して私たちを判断ミスへと誘うのです。
無意識で繰り返していることが多いぶん、もっとこわいかも
■ 「この世でいちばん大事な「カネ」の話」
習慣っていうのは、一度身についてしまうとなかなか変えられないし、変わらないものだからね。
無意識で繰り返していることが多いぶん、もしかするとギャンブルよりももっとこわいかもしれないよ。
大人がそういう態度だと、子どもだって勘違いしちゃう。
「損しない」ってことがいちばん大事みたいに思っちゃう。
「損したくない」ってことばかり考えていると、人って、ずるくなるんだよ。
新たな気づきを得るためには
■ 「ビジネスマンのための「行動観察」入門」
人はそれぞれ自分自身の価値観がある。
私たちはふだんの生活において、なるべくエネルギーを使わなくてすむように、様々なことについていちいち考えずに意思決定して行動をしている。
しかし、様々な気づきを得るためには、自分の価値観をいったん横において、フィールドを観察することが求められる。
普段と同じように観察をすると、「これはこういうことだろう」「こうあってほしい」という自分のフィルターを通して事実を安易に解釈してしまう。
しかし、それは実態をとらえようとするときにはバイアスになってしまう。
「自分の価値観から自由になって考える」というのは、言うのは簡単だが実行は非常に困難である。
しかし、それができてこそ新たな気づきが得られる。
先入観は邪魔であり、この罠には高名な科学者でもはまってしまうことが多い。
イノベーションの原動力は、思いやりや貢献の意識
■ 「学習する組織 -現場に変化のタネをまく-」
どのような組織でもイノベーションを行いたいと思っているだろうが、なかなかうまくいかないようである。
多くの組織のメンバーは、外部の環境変化に対する感受性が低く、何となくわかっているようでいて、肌身には感じておらず、はっきり自覚するようには認知していない。
この外部感受性を開発するには、どうすればいいのだろうか。
外部に対する感受性は、内部に対する感受性が高まるにつれて高まるという傾向がある。
自分について深く気づくことができるようになると、周囲のことに気づくようになるのである。
社会の変化を感じるには、自分の組織が分からなければならないし、自分の組織が分かるには、所属するメンバーのことが分からなければならない。
さらに、所属するメンバーなど周囲の人のことが分かるには、自分自身のことが分からなければならないのである。
そういった意味で、イノベーションを実施できるようなメンバーを育成するには、自分自身の内面の探求から始める方が、遠回りのようで近道だと思う。
自分自身がどうなりたいのか、どんなことを目指して生きてきたのか、どんなときに達成感や充実感を感じたのか、どんなときに成功して、どんなときに失敗してきたのか、どんな強みを持っているのか、などを振り返る。
周囲の人は何を目的として日々生きているのか理解することができ、ああ、こういうことを目指してこういう行動をするのかということが分かるから、相手を深く許容できるようになる。
組織というのは、人と人との集まりである。
一人ひとりが多様な価値観と特性を持っているから、この一人ひとりを理解できて、初めて組織全体を理解できるようになる。
このように、内側が見えると隣接する周辺が見え、それが見えるとさらにその外側が見えるようになるのではないか。
外側を生かすために内側を変えていくイノベーションの原動力の一つは、周囲に対する思いやりや貢献の意識かもしれない。
問題の原因を見つけ出すためには
■ 「システム・シンキング」
ストレスの多い時などには、人間は、目の前に差し迫った問題に集中してしまう傾向がある。
このような狭い視野からは、変化の「結果」にしか気づくことはできない。
その変化は、もともとシステムのどこか他の場所で発生したものである。
現在存在している問題はすべて、大きなシステムに含まれているはずだから、問題の原因を見つけ出すためには、視野を広くして大きなシステムを捉える必要がある。
広い視野を持つことで、より効果的な解決策を見つけ出すことができる。
人間が意識的に動こうとする時には
■ 「未来を変えるちょっとしたヒント」
人間には、運転中に緊急事態に直面すると、視野に入ってきたものの方向に無意識にハンドルを切ってしまうという習性があります。
興味深いことに、未来についてもまったく同じことが当てはまります。
未来の悪い状況ばかりが常に視野に入っていれば、自然と、そちらの方向にハンドルが切られてしまいます。
一方、未来に明るい状況を見ていたら、ハンドルが自然と視界に入っている良い状況の方向に切られていき、その結果、確実にそちらに進んでいくのです。
私たちは日々、時間に追われて忙しい生活を送っています。
時間を常に競争している相手であるかのようにみなしています。
時間が足りないと感じる状態を「忙しい」という言葉で表しています。
このような状況の中で、人々の心の中に芽生えているのは、「今、この瞬間さえ良ければ、それでベストではないか」という思いでしょう。
人間が意識的に動こうとする時には、必ず未来のことがイメージとして頭の中に無意識に描かれます。
私たちは普段、頭で実に様々な考えを巡らしていますが、それらの中には次の行動のイメージが必ず含まれているのです。
それがあるから、私たちは次の行動に移れるのです。
価値観は、私たちの思考と行動に影響をもたらします。
まず、価値観は、その主体が何を重要だと考えるかを規定します。
さらに、価値観の変化も注目すべき対象に挙げられます。
社会の中で共有されている価値観に注目すると、普遍的なものと時代によって変化するものがあることがわかります。
本来の目指すべき目的が意識されていないと
■ 「考え抜く社員を増やせ!」
今の会社には「命じられたことはやる。仕事というのはそういうもの」という割り切りをしている人がけっこういます。
一般社員だけではなく管理職の中にもこういう人がたくさんいるのです。
こうした考え方はある意味、「自分自身をも部品として捉えている」ということからみても、人間を人間として見るより機械として見る色合いの強い考え方です。
能力や資質などという要素を介在させず、ただ員数として人を捉えるのです。
自分をも含め、人というのは命ずることで自在に動かせるコマであり、道具である。
単なる員数であると、きわめてドライに割り切っています。
こういう気持ちになり切ってしまうと、「自分自身を見直す余裕」も失われてしまいます。
自分自身をも部品として捉える、という考え方に立つと、人の問題は「人 = 員数」としてかたづけられてしまいます。
しかし、現実の多くの仕事では、3人部下がいる場合、能力のある3人と、能力のない3人とでは、パフォーマンスがまったく異なる、ということは誰にでも理解できます。
にもかかわらず、従来からある常識的な見方では、基本的に人間のクオリティはカウントせず、すべて「員数」で見るという傾向があったのです。
こうしたものの見方の持つ一番の問題点は、物事や出来事の価値、質、その持っている意味などを、思考の対象から外してしまうところにあります。
質ではなく数えやすい量が重視され、中身ではなく、形式が大切にされます。
物事の価値や意味、つまり、
「なんのために」
「どういう意味があるのか」
を問う姿勢もこうした世界では後ろに追いやられてしまいます。
こうしていつの間にか
「どうやればいいのか」
「どうやると効率的か」
しか考えなくなってしまうのです。
ひたすら目先の利益の最大化だけを追い求め、そのことの意味や価値を問わず、「どうやるか」しか考えないとするなら、環境激変時の対応策にしても、何が原因でそうなったかは問いませんから、どうしてもモグラ叩き的なアイデアしか浮かんでこなくなってしまうのです。
目先の課題の処理以外に、考えのをやめてしまっている人は、制約条件のくびきから逃れられなくなっています。
枠の中に思考が閉じ込められてしまうと、少し考えれば当たり前のことが、どうしても考えられなくなってしまうということです。
こういう状況に陥ってしまうと、問題点のリストアップだけはきれいにするけれども、解決はされていかないから毎年同じリストを作っておしまい、ということが起こります。
「上司から言われたことを効率的にこなす」のが仕事だ、と思っているときは、「仕事を処理する」ことが、あたかも最終目的のようになってしまいます。
本来の目指すべき目的が意識されていないと、形を整えたらそれでよしとされます。
こういう状態でも忙しく仕事をしていると、何がしかの自己満足だけはあるので、かえって問題は顕在化しにくいのです。
人間は自分の意識をすべて自覚しているわけではない
■ 「「応援したくなる企業」の時代」
人間は頭のなかにあることのうちの5%程度しか言語化できず、残りの95%は無意識下に置かれたままになっているという。
自分の意識をすべて自覚しているわけではなく、日常的な行動のほとんどが、深層意識の中で無自覚のままおこなわれているのである。
表面的な要望を聞き取るような調査を何度重ねても、新しい手がかりがほとんど得られないのも当然だ。
既存の定量調査などから導かれた数字データでは、本当に必要な本質的なニーズに切り込むことは難しいのである。
それなのに、会議の席などでは、こうしたかならずしも信頼性が高いとはいえない調査から導かれた数字や、言語で明示されたことを根拠にした判断が絶対的なものとして扱われる。
「なんとなく」とか、「そんな気がする」といった感覚的な意見はとてもいい出せない。
そこに95%の真実が隠されているかもしれないのに、だ。
自動車王として知られるヘンリー・フォードは「もし消費者に『なにが欲しいのですか?』と訊ねていたら、『もっと速く走れる馬を』といわれただろう」と語ったといわれているが、本当のニーズは顕在化した意識にはない。
そう考えると、生活者本人に訊けば、それがそのまま生活者視点であるという考え方が、うまくいかないことにも納得がいくのではないか。
私たちはいつのまにか数字を絶対視し、文字通り偏重してしまっている。
なぜ企業は、これほどまでに数字を重視するようになったのだろうか。
もともと数字というものは、見えにくいものを単純化してわかりやすくする目的で用いられていた。
だが、問題はそこからそぎ落とされてしまうものもある。
数字には、測定できるものしか表現されない。
そのため、扱いやすくはなるものの、視点が一面的になってしまいがちなのである。
数字を絶対視したくなるのもわからなくはないのだが、数字がすべてを表しているわけではないのだ。
アンケート調査ひとつにしても、前提をどう設定するかによって、結果が大きくちがってしまうのだ。
客観性の代名詞のようにいわれる数字も、じつはきわめて主観的で、流動的なものなのである。
同じようなことはマーケティングの現場にも見られる。
大脳の活動の中で、我々自身に意識できる領域は20%しかない
■ 無意識の世界を活性化する
我々の大脳の活動の中で、我々自身に意識できる領域は20%しかないといわれる。
つまり、80%の活動は無意識の世界で行われているのだ。
例えば、風呂に入っている時などに、突然いいアイデアがひらめくことがある。
思いついたアイデアは意識することができても、なぜ風呂に入っている時にそのアイデアが湧きあがってきたのかは自分にも分からない。
まだ思い浮かんでいないアイデアもあるはずだが、それが何かも分からない。
なぜなら、アイデアを形成する過程は、80%を占める無意識の世界で行われているからである。
こう考えてみると、我々が意識できることはごく一部であり、意識すらできないことが数多くあることに気づく。
我々は意識して選択を行っているように感じているが、たまたま頭に思い浮かんだ選択肢の中からひとつを選んでいるにすぎない。
頭に思い浮かばない多くの選択肢が存在することに気づいていない。
思い浮かばない選択肢は、選ぶことすらできないのだ。
同じ現象を見ていても、人によって気づくことが違う理由はここにある。
「なぜこういうことが起こっているのだろう」
これが、無意識の世界が新しい着眼点を意識の世界に投げ込んできた瞬間である。
こうした着想が湧くようになると、様々な仮説を立てることが可能になる。
そして、実験によってそれを検証することもできるようになる。
こうした過程の中から新しい発見が生まれ、異なる角度からものを見ることが可能になっていくのだ。
日本の人権意識の低さは異常
■ 日本の人権意識の低さは異常
日本の人権意識の低さは異常としか言いようがない。
虐待DVだけでなく社会全体が人権を守るという意識が皆無だ。
洗脳教育の賜物だ。
先進国は人権は当然の権利として、老若男女とわず誰でも主張する。
主張するのは当たり前なのでバッシングなんて絶対に有り得ない。
- 会社で上司が部下に怒鳴る殴る
- 仕事の面接で年齢を聞かれる
- 学校で教師が生徒に体罰や理不尽なシゴキ
- 言葉の暴力、肉体の暴力、パワハラセクハラモラハラ
全て許されない犯罪なのだ。
怒るべき事なのに日本人は唯々諾々と従う。
仕方ない皆同じように我慢している。
我慢するのは恥であって偉くもなんともない。
我慢が偉いだの努力が素晴らしいだの思いこんでいるのは日本人だけだ。
我慢して良いことなんか何一つない。
人権を主張しろ。
怒りを我慢するな。
怒りは今この瞬間にも、人権を踏みにじっている。
意識が高い奴がウザい理由
■ 意識が高い奴がウザい理由
意識が高い奴がウザいのは自己実現と仕事が結びついていると信じて疑わない姿勢が見えるからだ。
自己実現と仕事は結びつくこともあるが必ずしもそうではない。
「仕事で自己実現!」系のいかにも意識の高そうな論調は今はめっきり冷めているように見える。
意識の高い連中はそれを強要する。
非常にウザい。
仕事はカネを稼ぐためにある。
それが自己実現と結びついてもかまわないが強要するな。
現代日本では自己実現と仕事は結びつかない。
今日をどのように過ごすのか意識するには
■ 「死ぬまでに何をするのか」を考える
死ぬまでに何をするか?
生きているうちに何をやりたいか?
人間の生は、タイムオーバーの存在する、束の間のものだ。
しかも、いつ寿命が尽きるのか自分では判らない。
そういう危うい条件のもとで自分の生が成立していると自覚すると、この一回きりの人生をどう料理してやろうか、死ぬまでの束の間をどのように過ごそうかという発想が生まれてくる。
明日死ぬかもしれないとして、今日をどのように生きるのか?
もし、あと十年ぐらい生きられるとしたら、その十年を使ってどのような事をやりたいのか?
明日死ぬかもしれないし来年死ぬかもしれない自分自身が、残された時間をどのように生き、どのように死に至るのか――
そのように考えると、人生はあまりに短く、よしんば長生きできるとしても二十代は一度きり、三十代は一度きりなのである。
「十年後には死んでいるかもしれない」と思えば十年間の身の振り方を考えたくもなるし、「明日死ぬかもしれない」と考えれば、今日をどのように過ごすのか少しは意識するようになると思う。
日常の喜びを逃さないという点でも、「死ぬまでに何をするか」的発想は適している。
ささやかな喜びも、生きていればこそのものだ。
死ぬまで美味いものを食いたい、大好きなエンタメを楽しみたいと思う人は、それがために毎日を真剣に生きたっていいと思うし、そんな自分の生を否定する道理なんて無い。
いつか死はやって来る。
それまで生を噛みしめよう。
私たちは、意識を変えていかなければなりません
■ 外国人技能実習制度をこれ以上、人身取引の温床にしないために
「「人身取引」とは、暴力や脅迫、詐欺といった手段を用いて搾取する目的で人を受け取るなどの行為を指します。
犯罪行為であり、「強制労働」と言った方が分かりやすいかもしれません。
日本でも数多く発生しており、主たる一つが技能実習生に対する事件です。
労働基準法には、「暴行、脅迫、監禁その他精神または身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない」と記されています。
ところが、技能実習生に対しては、過酷な労働環境のもとで働かせ、その上、労働基準監督署に訴えたら強制帰国をさせると脅し、最低賃金以下で働かせ続けるケースが数多くあります。
これは、脅迫によって本人の自由を拘束して働かせているという意味で強制労働、つまり、国際的に禁じられた人身取引に当たります。
本人が望んでいないのに、強制的に帰国させることも犯罪です。
技能実習生に対する事件が人身取引に当たると理解している日本人は少ないのが現状ですが、国際的には大きな問題になっています。
この制度を支えている考え方 ―― 安価な労働力として外国人を都合良く使い、不要になれば帰国させるという「使い捨て」の考えが社会に蔓延していることが、まずは大きな問題だと思います。
日本に来て働いてくれる外国人労働者は、私たちの仲間であり、同じ職場や地域、日本社会を支えてくれる人たちです。
皆の尊厳を大切にし、権利を尊重し合って仲間として接することが大事です。
今後、アジアでは労働力の奪い合いになるといわれています。
技能実習制度の悪評はアジアで広まっていますから、このままでは日本に人材が来なくなると思います。
私たちは、意識を変えていかなければなりません。
外国人を迎えるのなら、文化や言語の違う人たちと共生する方法を模索し、多文化共生を基本にした制度をつくっていくことが不可欠です。
個人や企業の活動が国境をあまり意識することなくつながっている世界
■ 「グローバル・マーケティング入門」
今やグローバリゼーション3.0の時代になります。
世界がフラット化し、個人や企業の活動が国境をあまり意識することなくつながっている世界です。
個人が今居る場所を意識することなく、マスコミを経由してではなく、インターネットを利用することで、自由に各種の情報にアクセスできるようになりました。
またクラウドコンピューティングを活用することで、ユーザーはインターネットに接続する端末とその上で動くブラウザ、インターネット接続環境があれば各種のサービスを安価で楽しむことができるようになりつつあります。
零細企業では難しかったサーバの購入や管理の大半が不要になるのです。
中小企業や新興国であっても創造性があればグローバルに活躍できる手段が整ってきているのです。
グローバリゼーション2.0の時代の国際化は、各国が自国の市場を維持しつつ行為が行われた分野がまだまだ多く存在していました。
しかしグローバリゼーション3.0の時代は、多くの分野で各国の市場が統合されグローバルな市場を考えて競争しなければならなくなってきています。
昔は日本の中で存在した単純な作業が、現在では中国、ベトナムなど人件費の安い国にアウトソーシングされています。
労働市場を日本国内で閉じた形で考えて企業を経営することはできなくなっています。
日本のメーカーの家電品の多くの部品がアジアの工場で作られ、中国の工場で完成品になるというように国際分業ネットワークによりできています。
このように生産もグローバル化してきています。
消費に目を移せば、ルイ・ヴィトンのバッグを持ち、スターバックスでカフェラテを飲み、iPodで好みの曲を聴いている女性。
コカ・コーラを飲みマクドナルドや回転寿司を好み、家ではニンテンドーDSで遊んでいる子ども。
トヨタやホンダの車に乗り、メジャーリーグのファンでリーバイスのジーンズやナイキのシューズをはいている人々・・・
そのような人々は日本に限らずアジア、アメリカ、ヨーロッパと世界中で見ることができます。
生産、消費の分野でグローバル化が急速に進んできているのです。
オリンピックやサッカーのワールドカップのように世界中の人々、企業が参加し、競う時代を迎えたのです。
このような世界の変化を背景に、企業も今までとは違い、広く大きな視点を持ち、価値の創造、伝達、実現が求められるようになってきています。
ITの普及に伴って世界経済は地理的距離も地理的概念も意味をなさなくなり、世界の至るところに競争が迫っています。
地理的概念や距離が意味をなさなくなることによって、先進国だけでなく発展途上国の企業もグローバル・プレーヤーになることが可能になっています。
1つの製品で短期間のうちにシェアを奪ってしまう企業も現れています。
そうした傾向は強まると思われます。
グローバルなマーケティングを展開するということは、国境や地域を越えて、言語や文化、また生活スタイルの異なる市場へ進出するということです。
従って、まずそれら世界の市場や、世界の消費者の購買行動について知ることから、グローバル・マーケティングは始まります。
異なる文化に遭遇したとき、初めて自文化を強く意識する
■ 「日本語教師のための異文化理解とコミュニケーションスキル」
文化は生得的なものではありません。
日本社会に生まれ育ったからこそ日本文化の成員になるのであって、たとえ両親が日本人でも、生まれも育ちもアメリカだったら、たいていの場合その人はアメリカ文化の成員になります。
つまり、文化はDNAに記されているものではなく、生まれてから学び取るものです。
私たちは文化の中に生まれ落ち、文化の中で育っていくので、文化の重要な部分は深く浸透し、自文化の中で生活している限り、いろいろ意識しないようになります。
だからこそ、異なる文化に遭遇したとき、初めて自文化を強く意識するのです。
たいていの日本人があまり意識していないこと
■ 「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」
国の信用というのは、パスポートの強さに比例する。
たいていの日本人はあまり意識していないが、日本のパスポートはとても強い。
世界の多くの国のパスポートは、日本やドイツのものほどの力を持たない。
できることなら、自分のパスポートを日本やドイツのものと取り替えたいと思っている人たちは多いはずだ。
EUの国に入国するときも、日本のパスポートを持つ私たちなら、入国管理の検査官もすいすいと通過させてくれる。
しかし、信用がないとみなされているパスポートを所持している人間は、表から裏からくまなく調べられ、ひどく手間がかかる。
日本のパスポートなら、航空券さえ買えれば、明日にでもフランスやスイスに行ける。
たいていの国のビザも問題なくもらえる。
日本人でよかったと思う。
日本人が無意識のうちにリスク回避的な選択を行うとき
■ 「(日本人)」
アメリカ人は個性的だが利己主義で、日本人は集団主義で自己表現が苦手だとされる。
日本人は、曖昧な状況に置かれると、無意識のうちにリスク回避的な選択を行う。
だが状況が明確であれば(自由に何でもやっていいのだとわかれば)、アメリカ人と同様に自己主張をする。
アメリカ人は逆に、曖昧な状況では自己主張をすることがもっとも有利な選択だと考える。
だが過度な自己主張がひんしゅくを買うような場面では、ちゃんとその場の空気を読んで自分を抑えることもできる。
アメリカ社会では、自己主張しない人間は存在しないのと同じだと見なされる。
このような環境では、迷ったら自己主張をする、というのが生存のための最適な戦略になる。
それに対して日本では、下手に目立つとロクなことがない、と考えられている。
このような社会では、迷ったら他人と同じことをしておく、というのが最適な戦略になるだろう。
誰もが意識できないほどに職場の体質と化してしまっていると
■ 「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
不祥事は、よく言われるように、決していきなり起こるわけではない。
もはや、周囲が不祥事を不祥事としてとらえる感覚を失ってしまい、麻痺してしまうことで、大きなトラブルに発展してしまったと考えられている。
裏を返せば、企業不祥事を引き起こす、周囲を巻き込んだモラールダウンは、もはや誰もが意識できないほどに職場の体質と化してしまっているということである。
そして、そのことが大きな事件になった時に、はじめてその職場のモラールダウンが話題になるのである。
契約を意識しない(させない)「就社の文化」
■ 「日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?」
私たちは会社で働くとき、基本的に「労働契約」を会社との間に結んでいる。
だが、入社するときに、こういった契約を意識することはほとんどないだろう。
そもそも、契約の内容もよく知らないのだ。
「権利を行使する」という発想すら、ないに違いない。
義務教育でも労働法なんてものはまったく教えないし、契約に関する教育も一切ない。
何が権利で何が義務であるのか、私たちは驚くほど知らない。
それは、交通ルールを知らないままに自動車を運転しているようなものだろう。
就職は、会社と労働者の間で取り交わす「約束」なのであり、「労働契約」を結ぶことなのだ。
契約を意識しない(させない)こうした「就社の文化」は、これまで、会社と労働者との間の強い信頼関係によって成り立ってきたと言えるだろう。
契約の存在を知らないで済む世界は、ある意味では「幸せな世界」だったのかもしれない。
意識の問題として語られてきた問題
■ 「ヒーローを待っていても世界は変わらない」
多様な人々が遍なく活用できるというニュアンスを超えて、多様な人々の多様性を積極的に生かすという意味で「ダイバシティ」という言葉も使われ始めています。
日本人男性とは違う、女性や外国籍の方たちの、その人たちならではの視点を生かして行う経営のことを「ダイバシティ経営」と言ったりしますが、最近ではそちらのほうが、日本人男性のみで会社を運営するよりも生産性が高まるとも言われています。
多様な人たちの多様性が積極的に生かされる社会は、当然、多様な人たちの多様な参加形態が多様な形で保障される社会である必要があります。
望んでも社会参加がかなわず、他人と十分に刺激し合うこともできなければ、その人の力が十分に開花する条件は整わないからです。
ところがこの問題は、しばしば意識の問題として語られてきました。
「条件が整わないとできない、なんて言わずに、がんばってやればいいじゃないか」
「その気になれば、なんだってできるよ」
という理屈です。
日本人は、この発想が大好きです。
「だから、できないのは本人の責任」という、いわゆる自己責任論もここから出てきます。
「困難があってもくじけない、強い気持ちが大事」という意味では、私も賛成します。
ただ、そのことがあまり強調されすぎると「すべては本人の気持ち次第」ということになって、社会は何もしなくてもいいことになってしまう。
どんなに悲惨な貧困家庭で育った子どもでも、将来大成して大成功をおさめた人はいるでしょう。
しかし、だからといって、貧困家庭の子どもたちに何もしないで放置しておいていいのかと言えば、それは違うと思います。
10人に1人か2人はそういう人がいたとしても、残りの8人9人のことも考えないと、社会は全体としてはうまく回らないだろう、と思います。
誰かの責任にして話を終わらせてしまっています。
それを別々の人たちが、ときに正反対の方向から言っています。
お互いが言い放つだけでは現状は変わりません。
なぜなら、現状とはその結果だからです。
働き方を変えるにあたって一番の障害は、個人の意識を変えること
■ 「ワークライフシナジー」
日本人が働き方を変えるにあたって、一番の障害は何かと聞かれれば、個人の意識を変えることにあると答える。
頭ではわかっていても、みんなが働いているときに、自分だけ人と違うことをしているというのは、なかなか難しいからだ。
効率ばかりを意識していると発想する力を養うことができない。
効率よく働いて生み出された時間に新しい仕事を入れてしまってはもとも子もない。
効率のよい働き方の延長線上に豊かな発想は生み出されない。
生活にゆとりがないと新しいアイデアが浮かばない。
ところが、日本の社会では、長い時間働く社員の方が定時に帰る社員よりも会社への貢献が大きいと考えられている。
そして、長い間働くことのインセンティブがいろいろな仕組みの中に組み込まれている。
なぜ労働時間の短縮を含む生活大国が、日本で実現できなかったのか。
自分のやりたいことに迷いのない人は人生の有限感を意識している
■ 「未来の働き方を考えよう」
自分のやりたいことに迷いのない人、徹底的にしがらみのない人には、人生の有限感を意識している人が多いです。
逆説的な言い方だけれど、彼らはくだらない不安をもちません。
死の意識や人生の有限感をもつ人は、それ以外の細かい不安に怯えません。
最も大事なのは何なのかが、わかってくるからです。
人生が有限だと宣告された時に生き方が変わるのだとしたら、それまでの人生は、自分が本当に望んでいる生き方ではなかったということです。
人生はいつまで続くかわからない。
この意識をもつことが、くだらない世間の”あるべき論”に汲々と従う生き方に対して、立ち向かう原動力となってくれます。
放っておくとできてしまうタコツボ意識
■ 「現場力を鍛える」
仕事というものは組織や部門をまたがって、「チェーン(鎖)」としてつながることではじめて価値を生む。
しかし、概念としてはそのことを理解していても、実際には組織の壁、部門の壁は厚く、情報の断絶が起きたり、意思疎通が上手くいかなかったり、部門のエゴが出てきたりする。
これはどの組織も避けては通れない「成長の宿命」なのである。
放っておけば、壁はできるし、タコツボ化するのが自然なのである。
放っておくとできてしまうタコツボ意識を常に払拭する努力、すなわち「ツボ割り」が不可欠なのである。
意識的に外の世界を知覚すべく努力しなければ外の世界が見えなくなる
■ 「経営者の条件」
組織に働く者は、必然的に組織の中で仕事をする。
意識的に外の世界を知覚すべく努力しなければ、やがて内部の圧力によって、外の世界が見えなくなる。
したがって、成果をあげることを学ぶべく、特別の努力を払わないかぎり、成果はあげられないことを知らなければならない。
変化は意図して起こせないが、意識すれば自らが変わることはできる
■ 「新経営資源論 ― 「もったいない」で変わる中小企業経営」
変化は意図して起こせるものではない。
しかし、意識すれば自らが変わることはできるはずだ。
そうして目線を変化させれば、おのずと従来とは異なる角度から資源に光が当たるので資源が新たな輝き放つ可能性も広がってくる。
身近すぎるがゆえに、盲点となっている資源の可能性は意外と少なくない。
たとえば資源によっては、いくつかの特製を内包しており、何種類もの顔をもっているものがある。
ところが、資源を漠然と眺めていると、たとえ視界に入っていてもそうした特性は意外と認識できないものだ。
一つひとつは何気ないものに思えてもいくつかのパーツを組み合わせることで全体として大きな特性を発揮する資源もある。
自らの特性も資源に着目するうえで欠かせない要素である。
自らの専門分野であれば、当然造詣が深いし、興味をもって取り組むので発想も豊かになりやすい。
本人が自分自身を知ることができるような気づきの対話
■ 「現場の「知恵」が働く チームイノベーション」
組織のなかには、個人や集団の行動を縛る「思い込み」が至るところに見られる。
外部の人間からは「思い込み」にしか見えなくても、なかにいる人たちは気づかない。
疑うことすら思いつかないほど当たり前になっている場合が多い。
もしくは、気づいていたとしても、「変えられない」という思い込みによって思考にフタをしている。
「自由に発想してみよう」といっても、こうした思い込みは随所に現れて思考の壁になっていく。
そのことを意識して、「○○はできない」「○○はダメだから」と自ら釘を刺すような発言が出てきたら、その背景にある「思い込み」を洗い出して、ほぐしてみることが必要だ。
たとえば「失敗は許されない」といういい方をよく聞く。
私は経験上、それは多分に思い込みではないかと疑っている。
むろん大きな失敗はしないに越したことはないけれど、では、どのくらいまでの失敗なら許されるのかと、一度まともに考えてみるべきではないだろうか。
このような思い込みが強すぎると、新しいチャレンジを避ける、見通しが立たないことはせずに確実なことだけを実行する、上司からの指示だけをこなす、というふうに行動が限定的になる。
しかし、大きな失敗を恐れるあまり、小さな失敗を避けて通っていたら、いつまでたっても状況は変化しない。
小さな失敗が予測されるのであれば、むしろそれは課題だととらえ直すべきであって、課題を克服しようとするところから発想は生まれる。
「短納期」
「多品種」
「コスト削減」
これも典型的な思い込みになっている可能性が高い。
発想を活性化させるためには、これらの思い込みを一度くつがえしてみることが大事だろう。
本当に短納期で開発する必要があるのか、多品種を出すことは、早く出すために古い技術の転用ですませることより優先されるべきなのか、他にコストを下げる方法はないのか、というふうに制約条件を疑ってみるのだ。
客観的に見ると、全体最適にもとづいて仕事をするのは当たり前だと思うかもしれない。
しかし、縦割り組織のなかでは、それぞれの立場や職場の役割、個人のおかれた状況によって、当たり前のことが当たり前に見えなくなってしまうことも少なくない。
組織にはびこる思い込みは、個人的な心理というより、暗黙のルールのような集団心理や圧力として働いて組織の行動を制約している場合が多い。
したがって、これに対しては上司と部下が、あるいは部署間、部門間の当事者が一緒に考えながら解きほぐし、明るみに出して取り払っていくしかない。
「会社の常識は社会の非常識」というように、その組織にとって当たり前を当たり前のまま放置ておくと、本当の問題に目が向きにくい。
もしも、ひょっとしてこれは思い込みかもしれないというものが見つかったら、ひとまず疑ってみること、場合によっては一度棚上げにして、全体を俯瞰する議論をしてみるべきだろう。
挑戦する前から「できない」「意味がない」「予算がつかない」「できても評価されない」と思えてしまうような発想は、その中身に問題があるというより、私たちが思い込みや常識にとらわれているからそう見えるだけかもしれない。
思い込みを疑い、衆知を集めて別の角度からの仮説を立てられれば、見える世界が変わってくる。
そこで組織の常識を打ち破ることができれば、せっかくの発想が殺されることはなく、それを実現するためには何をどうすればいいのか、どこで知恵を出せばいいのかというアイデアの実行段階へと進んでいける。
他人からは見えていても、自分の問題や自分の癖などには無自覚であることが多い。
その場合は、本人が自分自身を知ることができるような気づきの対話が必要だ。
制約や思い込みに気づくための対話は、相手がまずそれを常識だと思い込んでいるため、あえてしつこく
「それはなぜですか」
「本当にそうですか」
「ほかの方法はないのですか」
「当たり前ってホント?」
「絶対、絶対に無理?」
という異邦人のような目で禅問答のようなやりとりをして、常識の枠をはずす、矛盾を乗り越えるような対話をする。
無意識にされてしまう判断
■ 「経営意思決定の原点」
「百聞は一見にしかず」といいます。
結局、いろいろな話を何度も聞くよりも、自分で事実を見、体験することで「腑に落ちる」ということでしょう。
その意味で、事実の大切さは洋の東西を問わず変わりません。
問題はこの「事実」という代物です。
「事実」と言いながら、自分の持つフィルターを通してだけ選択的に事実を拾うのが人間なのです。
「事実」とは、実はそうしたフィルターを通して残されたものなのです。
この判断は無意識にされてしまうので、誰かが大声を上げて注意を喚起しない限り、そもそも「重要な情報を無視している」という問題意識すらありません。
いずれにせよ、自分の見方にそぐわない、見方を否定するような情報はどうしても無視されるか過小評価され、自分の見方にあった情報ばかりが目に付くようになります。
「事実」「データ」「情報」を集め、「客観的」に分析することが、よりよい意思決定につながることは、一般的には間違いありません。
しかし、そうした「事実」の重要性を繰り返すときには、もう一度
「誰にとっての事実か」
「どういう立場から見た事実か」
「どのような事実か(エセ事実ではないか)」
を確認してみる必要があるでしょう。
「事実」は一つかもしれませんが、「人間が見た事実」は複数であっても不思議ではありません。
ある見方だけに偏っては、本当の姿は見えてこないし、また「事実」に基づいたとしても、正しい意思決定にはつながらないでしょう。
自分で、はっと気づくとき
■ 「職場学習論 ― 仕事の学びを科学する」
失敗しなかったものの、準備がうまくいかず、いろんな人に迷惑をかけて、何とか終わるということがあったんです。
もう一度、すべてプロセスを見直しました。
先輩は答えは何も言ってくれません。
なぜか、なぜ、なぜかと問われていくと、結局、いくつか、自分で、はっと気づきましたよ。
そのときの僕は仕事を逆さまに考えられなかったんですね。
ゴールの逆から考えて、今、何をやらなければならなかったのか、何が重要なのかを考えなかった。
あと、全部1人で抱え込んでしまっていたことに気づきました。
「何か解決しなきゃいけない問題がある」と強く意識するとき
■ 「地頭力のココロ」
○ Why
↓
○ What
↓
○ How
まず一番上のWhyっていうのは、問題そのものを認識すること。
あるいは問題発見という言い方もできるね。
「何か解決しなきゃいけない問題がある」って強く意識することだ。
実はこれが問題解決では一番大事なんだ。
そもそも認識されていない問題は解決のしようがないからね。
「気づき」っていう言葉もこれと同じだね。
次に、ここで発見された問題を定義する。
つまり対象としてどこまでを解決する必要があるのかっていう「線引き」をして、問題を明快に決定するっていうのがWhatだ。
そしていよいよ定義された問題を実際に解決する。
これがHowだよ。
この構造を頭のなかに入れて毎日を過ごすだけでも「ものの見方」が変わってきて、ある日自分のなかですっきりしたりすることがあるんじゃないかな。
本当の創造性は「変わらないもの」を意識しているところから生まれる
■ 「本質を見抜く「考え方」」
目の前のトレンドに目を奪われると、それがじつは過去にも似たようなことがあった、いわば「前例あり」の事柄なのか、本当に重要視すべき「画期的な変化」なのかも、わからなくなってしまうのです。
日本人は、どうもこうした、新しく見えるものだけのものに飛びつく、「トレンディ」な発想に弱すぎるようです。
「変わるもの」ばかりに目を向けていると、「変わらないもの」について考える視野が失われてしまいます。
本当の創造性は、「変わらないもの」をつねに意識しているところから生まれるのです。
意識を高めるには
■ 「出現する未来」
分別の声は、個人の場合と同じように集団の創造性の芽を摘む。
これは「集団思考」と呼ばれ、集団内で構成員の正直さや正当性を微妙な形でたえず検問している。
こうした集団の分別の声は、発言や行動ばかりか考え方にも縛りをかける。
その影響に気づくのは、たいてい後からだ。
意識を高めるには、内なる恐れや分別の声を探し出して根絶する必要はない。
それらに気づき、認めさえすればいい。
個人でも集団でも、無意識の想定の保留は、口で言うのは簡単だが、実行するのは難しい。
組織は、多くの人がついていくのが大変なほどのスピードで動いている。
だが、立ち止まって、無意識の想定を検証する方法を身につければ突破口が開ける。
組織を「全体」からみるのは難しいと思うかもしれないが、自分たちがつくり出している文化にもっと目を向け、好奇心を持つことが第一歩となる。
人は誰もが、自分が所属する文化を、自己のなかに取り込んでいる。
そうでなければ文化は存在していないことになる。
人間が瞬間、瞬間に体現してこそ、文化になるからだ。
自分たちが働き、生活している組織全体を内側から眺める能力を磨くことができる。
会議が終わった時、気持ちが動いた出来事を思い出してみる。
その出来事が起きた時、自分がどう感じ、何を考えたのか、想像力を駆使して再現してみる。
これを何度か繰り返せば、自分自身について、そして組織について多くのことがわかるようになる。
どこが安全だと感じ、どこに不安を感じているか。
どこで自分の意見が否定され、どこで全体の動きに同調したか。
どこで気が散り、どこに熱心だったか。
つぎに、他の参加者の立場を想像する。
自分と似ているのはどこで、違っているのはどこか。
何人かの参加者の立場になってみる。
このように視点を変えると他の人の気持ちや考えがわかるように思えるが、実際には想像力を駆使して、自分自身の気持ちや考えの微妙な部分を探っているのである。
ある状況を「問題」だと見ることによって、自分をその状況から切り離し、「起こりうることをあるがままに見る」妨げになる。
解決すべき問題が『外』にあると考え、問題を解決しようとしている『自分』と、問題の本質の関係を見ようとしないか、見たくないのであれば、問題の全貌を見ることはできない。
人と問題を切り離せば切り離すほど、問題解決の努力が根本的な変化を妨げ、現状を維持する要因として機能する。
技術的な問題なら、問題解決型の考え方で十分、解決できる。
だが、複雑な人間のシステムでは、問題の根が無意識の想定や、根深い習慣的な行動にあるため、問題解決型の考え方では、到底、解決できないのである。
自分自身が問題を生み出していると自覚しないかぎり、根本的な変化は起こらない。
抽象的な働く義務や意識だけを高めていったらどうなるだろう
■ 「ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪」
政府や社会がブラック企業の問題で遅れをとっている最大の要因は、現状に対する認識が誤っているからだ。
政府や学者の基本的な思考枠組みは、「若者の意識の変化」で雇用問題を捉えるという傾向にある。
若者非正規雇用や失業の問題を「フリーター」や「ニート」問題へと矮小化してきたことがその現れである。
そして、ブラック企業の問題に対しても、彼らは同じように「若者の意識」さえ改善させれば、解決する問題だと考えている。
パワーハラスメントにしても、新型うつにしても、「最近の若者は叱られた経験が少ない」ことが変化の原因としてよく用いられる。
だが、仮にもし何らかの新しい「若者特有の精神的傾向」があるとしても、客観的な社会構造を背景とした「企業側の変化」を同時にとらえなければ、辞めてしまう若者やうつ病になってしまう若者の問題に対処することは、まったくできない。
こうした認識の誤謬の上に立てられる「若者政策」は状況を改善するどころか、悪化させ、あまつさえブラック企業の肥やしとなっている。
すでに就職活動が若者を追い込んでおり、うつ病罹患者や、自殺者が増加している。
ましてブラック企業ばかりが「出口」で待ち受けている中で、抽象的な働く義務や意識だけを高めていったらどうなるだろう。
若者は、就職活動やブラック企業の中で、「違法なことでも耐えなければならない」と再三にわたって教え込まれ、受け入れている。
そして、自分たちの結婚や育児、出産さえも惜しんでブラック企業に奉仕しているのである。
これ以上「耐える精神」を学ばせても、日本の生産性や社会の発展には絶対につながらない。
経験に根差す罪悪感と恥の意識は、人の自尊心を深く蝕む
■ 「こうすれば組織は変えられる!」
個人にも組織にも、ともに変化を避けたがる傾向がある。
変化には常にある程度のストレスがつきものなのだ。
変化が絶対的に不可避なものとしてその身にのしかかってきても、車のヘッドライトに照らされた鹿のごとく、ひたすらその場に立ち尽くす人たちがいる。
何をしなければならないかはわかっているのに、恐怖のあまり動き出せないのだ。
おそらく彼らは、新しい秩序に慣れることができないかもしれない。
あるいは仕事が今よりきつくなるかもしれないということを恐れているのだろう。
いずれにせよ、彼らは懸命に真の前進を避けながら、さも前進しているかのように見せようとする。
人によっては、変化そのものよりも、それがもたらすアカウンタビリティに対する恐怖の方が大きい場合がある。
彼らは、間違いを指摘される可能性を恐れて、責任を与えられることをいやがるのだ。
これまでに幾度も恥ずかしい思いをさせられてきたのだろう。
とにかく二度とそんな思いはしたくないのである。
こうした恐怖心は、特に具体的な理由がないときでも、その人の心から消えることがない。
経験に根差す罪悪感と恥の意識は、人の自尊心を深く蝕む。
特に、間違いをことさら強調するような環境に育った人は、きわめて深刻な問題を抱えてしまう。
恐怖心に支配された人は、突然間違っていもいいと言われても、当然ながら疑心暗鬼で、なかなか古い習慣を捨てようとはしない。
恐怖心によって培われた習慣は、たとえ本人がそれを望んだとしても、打ち壊すのが非常に難しい。
飢餓状態からの回復が慎重な食事療法を必要とするように、長い間虐げられてきたと感じている人が方向転換を決意したマネジメントを信用するようになるには、長い時間がかかるのだ。
意識や行動を変えることは、企業文化を変えることにつながっていく
■ 「どうやって社員が会社を変えたのか」
トップから社員まで、その企業で働く一人ひとりが持っている意識や行動の集積が企業風土ですから、意識や行動を変えることは、企業文化を変えることにつながっていくのです。
戦略の改革や仕組みの改革は、トップマネジメントの意思によって決定されます。
けれども、それを実際に行うのは社員です。
一人ひとりの社員の自主性ややる気が引き出されてこそ、組織単位のリストラクチャリングやリエンジニアリングは可能となります。
企業変革とは、戦略と仕組みと文化の改革が三位一体の形で進んでいくことで成し遂げられるものなのです。
企業はさまざまな意識をもった人の集合体
■ 「夢をかなえる経営計画」
企業はさまざまな意識をもった人の集合体ですので一筋縄にはいきません。
企業業績は、その源流である経営者の心構えで決まるのです。
経営者がよりビジュアルに、理念・方針・戦略・戦術を鮮明にしたとき、企業業績が向上しはじめるのです。
企業経営は一人ではできません。
社員や仕入先等の関係者が一つの方向を目指し、力を糾合して初めて成果が出てくるものです。
人はそれぞれ存在意義を持っています。
人だけではない、この世に存在する生きとし生けるものすべて存在意義を持っています。
しかし、往々にして、人はその存在意義を見失いがちです。
存在意義を失った人々は、生きる目的を見失い、感動もなく、ただ漫然と日々をおくるだけとなるのです。
企業もまた然り。
経営者も創業当時は、「こんな仕事で社会に貢献したい」と考えていたはずです。
しかし、時の流れとともに、現実の「業務」に埋没し、その「存在意義」を忘れたとき、また、そのことが、社是・社訓として定められているのに単にお題目になってしまっているとき、企業は非常に危険な状態になります。
すなわち、これは、自社の意思決定や行動が是か非かの判断基準を放棄している状態にほかならないのです。
このような状態に陥っているとき、経営者は外部からの情報を「損得」で考えるようになります。
「損得」で判断するとたいてい失敗します。
「善悪」で判断しなければならないのです。
判断基準がないから、外部の情報に振り回され、意思決定や経営方針が首尾一貫せず、行動にブレーキがかかり、無駄なエネルギーを空費することになってしまうのです。
「納得」というのは理屈というよりも気持ちの問題
■ 「戦略と実行」
戦略がポーンとトップから降りてきて、何でこれをしなくてはいけないのかよくわからないまま、形だけでも何かしないといけないから、とりあえずいわれたことをやってみる・・・
これでは戦略が成功するわけありません。
基本的な目的がはっきりしていなければ、もし実行段階で変更や修正を迫られたときに、何を基準にして変更してよいか分かりません。
また、「いわれたからやる」では創意工夫の余地もなければ、達成感もなかなか得られず、やる気がどうしても出ないというのも当然です。
日本の優秀な現場は、それでも一生懸命やるわけですが、本当の目的のところがはっきりわからないわけですから、硬直的になったり、部分最適になったりします。
それを今度は上司から「考えてない」などといわれては、たまったものではありません。
「何でこういうことをするんですか」
「どうしてそういうアプローチなんですか」
と下から何度か聞かれると、それを伝える人間はだいたい頭にきて、
と言うわけです。
そう言ってしまうのは、この説明をしている人が、自分で腑に落ちていないからなんです。
何回なぜと言われても、きちんと説明ができることが自分自身に腑に落ちていることです。
「いいからやれ」といわれて納得できず、モチベーションがあがらない。
それでは、理由が説明されれば納得するのでしょうか?
「納得」というのは理屈というよりも気持ちの問題です。
なぜこれをやるのか、なぜこれだけコストを削減するのかと聞かれれば、これこれこうだと論理的に説明することは可能でしょう。
極端に言えば、説明や理由など、幾らでも作ることが出来ます。
現場の社員が欲しがっているのは、そういうことのなのでしょうか?
「腹に落ちる」のは、必ずしも論理がすばらしいからではなくて、自分がメッセージの送り手( = トップ、上司)の気持ちがわかるからではないでしょうか。
どんなにすばらしい論理であっても、納得のいかないときはいかないのです。
質問にはロジカルに全部答えてもらったけど、なんとなくしっくりこない。
だまされたような気がするときは、やはり「納得」していないのです。
コミュニケーションの本質とは言葉を交わしたり、情報交換をするだけではなく、「送り手が受け手と意味を共有すること」であり、そのためにはお互いの考え方、価値観を理解しなくてはなりません。
どれほどロジカルに提案や企画を作っても、相手の考え方、気持ちを無視していれば、伝わるはずありません。
ほとんどの組織では、戦略が打ち出されると
「そんなことやって、何の意味があるのか」
「トップは現場のことがわかっていないのではないか」
「そうではなくて、今やらなくてはいけないのは○○だ」
などという声があちこちから聞こえてくるものです。
常に「トップがやれといったから」などと言い訳、愚痴を並べ、少しでも悪いことが起きると、他人のせいにし、あくまでも自分は被害者であるかのように振舞いたがる人々も出てきます。
そうすることで、誰も、何の得もしないのにもかかわらずです。
「こうした不満が上がらないようにするにはどうしたらよいか」
それがいかに無理なことかは散々経験されてきたはずです。
考え方や価値観のところを分からずに、一生懸命説明を繰り返したり、データを流しても、コミュニケーションは進みません。
トップは常に「見られている」ことを意識する必要があります。
言葉の端々に出るニュアンスを、現場は微妙に嗅ぎ取り、トップが本当は何を考えているのか、どの程度真剣なのかを値踏みします。
「顧客第一」と普段は言いながらも、土壇場になって売上が目標に達しないと「何とか売れ」「断られても帰ってくるな」などと声を荒げる部長がいます。
売上が下がり始めると「売上に質のよいも悪いもない」と言ってしまう社長もいます。
「わざわざ」心にもない約束をして、それを破って部下を失望させるくらいなら、最初から言わない方がずっとましです。
結局、「トップの言葉の意味」は会社が好調のときでなく、問題に直面したり、業績が悪化したときにこそ試されます。
逆に言えば、問題に直面したときこそ、リーダーが組織の価値観、そして戦略に対するコミットメントを鮮明に伝えるチャンスであるともいえます。
無意識に多くの組織で共有されている危機感
■ 「ダイアローグ 対話する組織」
どうも従来のコミュニケーションでは、「伝わっていない」ことがある・・・
コミュニケーションが希薄なせいか、人と人とのつながりも失われた気がする。
こうした危機感は、実は無意識に多くの組織で共有されているように思います。
しかし、社内で価値観を共有し、社員の結束力を高めるため、会社の命令で半ば強制的に親睦を深めるのは、果たして今のビジネス環境にマッチしたやり方なのでしょうか。
そもそも高度経済成長期に社員が価値観や行動規範を共有できたのは、社内運動会や飲み会のおかげだったのでしょうか。
年功序列と終身雇用、右肩上がりで給料が上がっていき、ずっとここで暮らしていけるという家族主義的な企業観が社会全体に広がっていた。
悪く言えば、組織全体が企業に隷属する個人の集団だったからこそ、運動会も飲み会もコミュニケーションの手段のひとつになり得ただけではないでしょうか。
非日常の社内運動会や社員旅行では会社に隷属することを求められ、日常的には自律した個人として成果をあげることが求められる・・・
このようなやり方で、価値観や行動規範が「何も言わなくても伝わる」昔のような組織の「絆」が生まれるのでしょうか。
日本全体が、大量生産を行えば、今日より明日、明日より明後日、自分たちはさらに裕福になれるという「大きな物語」を共有しているとき、企業にとって取り組むべき問題は明確であり、何をすれば会社の利益になるのかを社員全員が共有することも、特に難しいことではありませんでした。
だから、相互に理解を深めていくための「対話」に多くの時間を費やすよりも、疑う余地のない共通の目標に向かって、休むことなく全力で突き進むことが大切だったのです。
しかし、今日の企業にとっては「取り組むべき問題は何か」ということ自体があいまいで、流動的なものになっています。
このような社会にあっては、社員の価値観や信念も多様化し、「上からの命令には疑問をもたず、一糸乱れずまっすぐ進め」といった古い時代のロジックは通用しません。
むしろ一人ひとりが「そもそも、このプロジェクトは何をめざすのか」「そもそも、この製品の存在意義は何か」を主体的に考え、あいまいで、流動的な「めざすべき方向」を共に探索していく、協同的な思考プロセスをつくり上げていくことが必要になりました。
「早く走ること」よりも「深く考えること」が求められる時代だと言っていいかもしれません。
そして、それぞれが「深く考えたこと」を、どのように行動につなげていくか。
そのためには、お互いの理解を共有し合うプロセスが必要となるでしょう。
「人間同士の間にコミュニケーションが成立すること」は、ふだん考えているよりも、ずっとずっと難しい行為であることを私たちは認識したほうがよいでしょう。
合意すれども、船は動かず。
コミュニケーションを「情報の移動」と理解している限りにおいては、共有できているのは「情報」だけ。
相手の考えている価値の前提や行動の背景にある世界観を共有していなければ、たとえ妥協点が見つかったとしても、全員が思いをひとつにして行動するなどはできません。
組織文化や組織の価値観とは、命令や規則のように押しつけられるものではありません。
理念が日常的な行動と結び付くには、その内容について、自分なりに「腹に落ちて」いなければならないのです。
「意識改革」なるものの研修
■ 「なぜ社員はやる気をなくしているのか」
「意識改革」なるものの研修が本当に効果をもたらしたという話を、いまだかつて聞いたことがない。
そもそも、官製談合を「誰でも知っているみんなの秘密」として当たり前のようにやっている組織で、事の本質にかかわるような話には蓋をしたまま、研修できれいごとの「あるべき論」を説教し、それをもっと「意識改革」などと称するのはあまりにも空々しい。
上から言われたから形にだけはしなくては、といった程度の熱意しか感じ取ることができなかったら、そんなことはやるだけ無駄だ。
こういう組織には担当者の熱意などではどうにもならない別次元の根深い問題が横たわっている。
このような組織で大切にされるのは中身ではなく形式だ。
会議であっても、中身はともかく、それをやったという形がまず大事なのだ。
こういう世界の中では、人間も儀式の中の道具だてのひとつになる。
しかし、このようなやり方に慣れきった人たちは、この種の「儀式」を「ディスカッション」と称して、大まじめにずっとやってきたのだ。
中身がまったくないこのような儀式を、誰もおかしいと思わず仕事としてとり行ってきたのである。
内容よりも形式を重視する傾向の強い人たちは、人も道具だてのひとつとして見ているから、役職だとか肩書きに意味は見出しても、「内発的な動機」が果たす役割などには、そもそも興味すら持たない。
命令さえすれば動く「道具」が内発的動機など持つ必要性があるわけないからだ。
道具に人の情熱など、そもそも必要としないから、内発的動機など無視してもいっこうにかまわないのである。
人を、中身(たとえば、考えや意見、関心の有無)で評価するのではなく、その属性(地位や役割)で見る、という考え方を持っていると、人の内発的動機に対する関心はおのずと小さくならざるをえなくなる。
儀式としての体裁を整えることを大切にする人たちが重きを置いているのは、つねに内容よりも形式であり、事実ではなく精神論である。
そして、このような考え方、価値観が当たり前になっていることが、日本という国が今日抱えているさまざまな困難な問題を引き起こしている根源的な要因だと考えている。
事実を直視し、現実と向き合おうとしない国に未来はない。
目指す方向や方針がいかに立派につくられていても、それだけで改革が成し遂げられていくわけではない。
意識を変えるとは?気づきとは?誰が何をどう変えたら変わる?
(パート3)
んでもって・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、例えばこんなのからも念のために一応考えてみるのはどーでしょう?
( っ・ω・)っ
意識とは?
○ コトバンク
- 心が知覚を有しているときの状態
- 物事や状態に気づくこと。はっきり知ること。また、気にかけること
- 関心や態度、また自覚
○ Weblio辞書
物事に気づくこと。
また、その心。感知。知覚。
はっきりした自律的な心の働きがあること。
自覚。覚醒。見当識。
状況・問題のありようなどを自らはっきり知っていること。
無意識とは?
○ goo辞書
自分のしていることに気づいていないこと。
また、そのさま。
○ Weblio辞書
「意識がない」という場合は、「気づかない」という意味でもある。
例えば、音楽を聞きながら本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、音楽の両方が意識される。
しかし、読書に集中していて、ふと何かで中断されると、「音楽が急に聞こえて来る」ということがある。
音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。
日常的に流れて行く意識のなかでは、様々な「意識の対象」が存在している。
この現在の意識の対象は、現前している感覚・意味・感情等のパターンであるが、また、滞りのない自然な、「気づくことなく」想起されている記憶の内容が、その対象である。
○ 脳科学辞典
無意識とは、志向的な表現が可能であるにも関わらず一人称的主観として体験されない事態のことを指す。
すなわち、失神のような心身状態の喪失ではなく、心的(あるいは脳内)で志向性のある何らかの過程があると想定できるにも関わらず、その一部あるいは全部が意識の流れとして体験されない事態を意味する。
意思や知識によるトップダウン的コントロールの困難さは、感情や情動の自己操作、錯覚などの知覚現象、ステレオタイプや社会的偏見などにも広く見られ、コントロール可能性と無意識の概念は分けて考えることはできない。
意識にのぼらなかったコンテンツ(内容)の影響が、行動や他の判断などに現れることがある。
多くの場合、気づかれなかった内容が行動に判断に影響を与えているという関係性にも、またそれが「なぜ/どのように」影響を与えているのかというプロセス(過程)も意識されず、主に判断や行動の結果のみが意識上に現れる事態も多い。
知覚とは?
○ goo辞書
- 思慮分別をもって知ること
- 感覚器官を通して外界の事物や身体内部の状態を知る働き
○ ウィキペディア
知覚とは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。
自覚とは?
○ コトバンク
自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。
○ Weblio辞書
自分自身の立場・状態・能力などをよく知ること。わきまえること。
○ ウィキペディア
自覚は単に意識の有る無しを意味するほかに、文字通り自ら覚ることを指す。
「覚る」とは気付くとこであり、気がつかないことを反対語として不覚という。
気づくとは?
○ goo辞書
それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を知る。
気がつく。
気づきとは?
○ 心理学用語集
気づきとは、固定概念や先入観に捕らわれていた為に、直接感じることができなかった、「いま・ここ」で自分が感じている心や身体の状態を、ありのままに知覚すること。
○ goo辞書
それまで見落としていたことや問題点に気づくこと。
○ はてなキーワード
人間が、自分や自分の会社を改善するためには、この気づきが必要とされている。
問題点に気づかないと反省も、対処もできないから。
問題点に気づくことによって、ものごとを見える化する努力を始めたり、品質や、生産性や、組織の改善をしようとする原動力となる。
意識を変えるとは?気づきとは?誰が何をどう変えたら変わる?
(パート4)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識を変えるとか気づくとかって、口で言うのは簡単だけど、実は意外とムズくて高度なものだったのかも・・・ ( ̄▽ ̄;) 」
「自分では結構意識しているつもりだったけど、無意識に習慣的にやっちゃってるコトって、結構あったりなんかするのかも・・・ (|||▽ ) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ってコトは、経営者の立場だと気づかないコトであっても、従業員の立場だからこそ意識できるコトとか気づけるコトとかもあるのかも・・・、逆に、従業員の立場だから気づけないコトとか意識できないコトとかもあって、経営者の立場だからこそ気づけるコトとか意識できるコトとかもあるのかも・・・ ( ̄◇ ̄;) 」
「管理職の立場だからこそ意識できるコトとかって何だろーか???どんなコトだったら気づけるんだろ~??? ( ̄∧ ̄ ) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「社内の人間だから気づけるコトもあれば、社内の人間であるが故に気づけないコトもあるのかも・・・ (´ε`;) 」
「中小零細企業だからこそ意識できるコトもあれば、意識できないコトもあって、大企業だからこそ意識できるコトもあれば、意識できないコトもあるのかも・・・ ( ̄‥ ̄;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「見方を変えてみたら、もしかしたらコレって日本ならではの強みや弱みとも、ある意味関係している面もあるのかも~!? (o*゜∇゜)o 」
「最強の強みのはずがサイアクの弱みにもなり得て、だけど視点を変えて見てみたら、弱みが最強の強みにも実はなり得る時って、もしかしたらこーゆーコトだったのかも・・・!? ( ̄・・ ̄)」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識とか気づきとかって、自律性とか自発性とかにももしかしたら関係している面もあるのかも~!? w( ̄o ̄)w 」
「自分にコントロールできることとできないこととかとも、意識とか気づきとかって関係している面もひょっとしたらあるのかも~!? (*´∀`) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識を変えるとか気づきを得るとかって、何か特別な人材育成が必要なのかと思ってたけど、必ずしもそーゆーワケでもないのかも~ (* ̄。 ̄*) 」
「お金をかけなくても時間をかけなくても、身近なところでできそうなコトって意外とあるのかも~、題材っていっぱい転がっているのかも~ d(⌒ー⌒) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ってコトはだよー、アレをこーして、コレをこーしたら、少しは意識が変わるのかも~?気づくコトもあるのかも~? ((φ( ̄Д ̄ ) 」
「なーんだ、意識を変えるとか気づきを得るとかって、もっとムズイ話かと思っていたら、こーゆーコトだったんだ~っっ♪ ヽ(´ー`)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「えーと・・・、意識してもらったら困るコトとか、気づかれると困るコトとかって、実はあったりなんかするのかも・・・ (;゜д゜) 」
「ヤベぇー・・・、意識を変えろとか気づけとかって言っていたけど、意識を変えろとか気づけとかって言うのやめておこーっかな・・・ 。゚(゚^o^゚)゚。 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識を変えろとか気づけとかって部下に言うけど、部下に要求する前に上司が意識を変えろっつーの!気づけっつーの!! ( ̄ヘ ̄)凸 」
「そーだそーだ!!自分自身の意識すら変えられないくせに、こんな高度な要求するなっつーの!!無茶な要求するなっつーの!! (# ̄3 ̄) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「意識なんてわざわざ変えなくたって、別に誰も困らないしさぁ~ ( ̄▽+ ̄*) 」
「気づきがどーのこーのなんて必要ないしさぁ~、気づきなんてなくたって仕事できるしさぁ~、気づいたところで何も変わらないしさぁ~、給料が上がるワケでもないしさぁ~ q( ̄3 ̄)p 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「気づいているコトはいっぱいあるんだけど、リストラされたら困るから誰にも言えないんだよね・・・ 。。。(〃_ _)σ∥ 」
「気づいているコトはいっぱいあるんだけど、優秀な人材に辞められると困るから言えないんだよね・・・、ただでさえ人手不足なんだしさ・・・ o( ̄_ ̄|||)o— 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「だからさー!!どーやったら意識を変えてくれるんだよー!!気づいてくれるんだよー!!マニュアル人間や指示待ち人間ばっかじゃー困るんだってばさー!! o゚p(∴´⌒`∴)q゚o。 」
「意識を変えさせる方法とか、気づかせる方法とかをちゃんと教えてくれよー!!マニュアルとか手順とかさー!! ヽ(;▽;)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、気づきってこーゆーコトだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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