「常識って何だろ~???常識ってどーゆーことなんだろ~??? ( ゜Д゜) 」
「コレが社内の常識って言われても、どーしてコレが常識なのかよくわからないんだけど・・・??? (・_・;) 」
「この会社ではコレが常識だからって言われることもあるんだけど、なーんか違和感があるんだけど・・・、日本社会の常識とも世界の常識ともちょっとズレているように感じることがあるんですよね・・・ o( ̄_ ̄|||)o— 」
「会社が言うところの常識を、本当に常識にしちゃっていいものなんだろーか???って疑問を感じるんですけど、でも質問したところで、コレが会社の常識なんだからって言われて終わっちゃいそうな気がしちゃうから、質問したくてもできないんですよね・・・ (|||▽ ) 」
「ってゆーか、社内ではコレが常識って言っているけど、誰がコレを常識って決めたんだろ~??? (;´д`) 」
「いつからコレが常識になっちゃっているんだろ~???何のための常識なんだろ~???誰のための常識なんだろ~??? (;・∀・) 」
などなど、このような素朴な疑問をお聞きすることもあるんですが・・・
(`・ω・´)
「三方よしの経営相談」、「自律型人材育成」、「組織力の強化や向上」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「外国人との日本語コミュニケーション」のお手伝いを行なっているからなのか・・・
日本語教師の経験や海外赴任の経験があるからなのか・・・
こーゆー素朴な疑問って意外と大事
なのかも~???
ヾ( ̄ω ̄〃)ノ
んでもって、もしかしたら・・・
一種の「兆候」と言える場合もある
のかも~???
なーんて感じるコトもあるし・・・
( ・ _ ・ )
それに、コレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので・・・
そもそもの話、常識って何なんだろーか?
会社の常識って、いったい何なんだろーか?
社内の常識って、いったい何なんだろーか?
社会の常識って、いったい何なんだろーか?
一般常識って、いったい何なんだろーか?
日本の常識って、いったい何なんだろーか?
世界の常識って、いったい何なんだろーか?
何がどうだったら、常識があるってことなんだろーか?
何がどうじゃなかったら、常識がないってことになっちゃうんだろーか?
それは誰がどんな基準で判断するんだろーか?
常識があることによって、得したり損したりすることって何なんだろーか?
常識がないことによって、得したり損したりすることって何なんだろーか?
それは、誰にとっての得だったり損だったりするんだろーか?
会社の常識、業界の常識、社会の常識、一般常識、日本の常識、世界の常識って、同じなんだろーか?違うんだろーか?
同じだとしたら、どこがどう同じなんだろーか?
違うとしたら、どこがどう違うんだろーか?
日本の常識とか会社の常識とかって、国際社会から見たらどんな風に見えるんだろーか?
日本の常識とか会社の常識とかって、グローバル化や国際化、ガラパゴス化などとは何がどう関係しているんだろーか?
その常識は、いつから常識になったんだろーか?
その常識は、誰が何のためにつくったんだろーか?
常識って、何のためにあるんだろーか?
常識って、誰のためにあるんだろーか?
常識を疑うことができる組織って、どんな組織なんだろーか?
常識を疑うことができなくなってしまう組織って、どんな組織なんだろーか?
常識を疑って考えることができる人材が育つ教育(共育って、どんな教育(共育)なんだろーか?
どんな教育(共育)だったら、常識を疑って考えることができる人材が育たなくなっちゃうんだろーか?
などなども含めて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
常識とは?会社の常識、日本社会の常識、世界の常識って?
(パート1)
んーと・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので・・・
例えばこんなのから、まずは考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
新しい発見は、常識を疑うことから生まれる
■ 「疑う力」
「疑う力」をつけるというと、あまりよくない印象を持つ人もいるかもしれません。
しかし、「疑う力」を持つことは、おそらく多くの人が思う以上に、さまざまなメリットがあります。
一つは、騙されないことです。
これは「疑う力」と聞いて、まず多くの人が最初に思い浮かべるものでしょう。
詐欺などにも引っかかりにくくなりますし、消費者として、どのように行動すべきかも見えてきます。
また、政治家の発言や政策に対しても、一度、裏があるのでは、と疑ってみることは大切です。
研究やビジネスなどでは、「疑うこと」が発明や発見につながります。
新しい発見は、常識を疑うことから生まれます。
ビジネスチャンスも、常識を疑うところから、たくさん生まれています。
また、健康維持に役立つというメリットもあります。
ふだんと違う自分に気づきやすくなります。
「たいしたことないだろう」などと放っておく人と、「もしかしたら深刻な病気かもしれない」と疑って医者にかかる人では、場合によっては寿命すら違ってきます。
「疑う力」を持つというと、権威に逆らうアウトロー的なものをイメージする人もいるかもしれませんが、両者はイコールではありません。
いまの自分の考えの土台をつねに疑う。
これもまた大事な「疑う力」です。
じつは「自分自身を疑う」というのは、一番難しいことです。
多くの人は、自分自身は、信じられると思っています。
多くの場合、自分自身を疑うのは困難です。
誰しも自己否定したくない思いがあり、自分に対するチェックは甘くなりがちだからです。
日本人の常識とドイツ人の常識の大きな開き
■ 「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」
ドイツ人と日本人に限って言うなら、金銭感覚にはかなり大きな開きがある。
ひとことで言うなら、ドイツ人は後に残るもの、また、減価償却期間の長いものには、それがかなり高価であってもお金を出すが、サービスや、すぐに消えてなくなるものには、たとえ安価であっても出し渋るという傾向がある。
だから、駐車場の料金は出したくないし、食事も押し並べて質素だ。
どうせ食べればなくなるのだから、お腹がいっぱいになるなら別に安いものでもいいと考える。
食にはもともとそれほど興味もない。
ただし、これはと思ったものには、ドーンと大金を払う。
そして、その用途が、日本人にはとても理解できない代物だ。
たとえばドイツ人は、少しだけ煤けた家の外壁を全部塗り替えたり、まだ新しい居間を、壁から家具まで一気にリニューアルしたりする。
ドイツでは人件費が高いうえ、消費税が高いので、外壁を塗り替えれば、もちろん大変な出費だ。
フランスやイタリアは日本と似ていて、家の外観にはあまりこだわっている様子がない。
つまり、そういう意味では、ドイツ人はケチではない。
何をもったいないと思うかというところが、日本人と完璧に食い違っているのだろう。
だから、当然のことながら、日本人は概して、ドイツ人が無駄だと思うところにばかり重点的にお金を使うことになる。
たとえば、お中元やお歳暮をはじめ各種進物、冠婚葬祭の出費は大きいし、食べ歩きも大好き。
ブランド物に惜しげもなく手を出すし、ひとたび旅行に出れば、「何かおみやげが必要」という理由だけで、精力的に無駄なものを買い漁る。
ドイツ人の持ってくるプレゼントは、お金があってもなくても、日本人から見ると極端に安価なものが多い。
ドイツ人は、たとえば日本のお香典も、それに付随する半返しの習慣も、一生かかっても理解できないと思う。
ドイツ人と日本人のあいだの感覚の違いというのは、結構多い。
プレゼントもそうだが、食べることにかける情熱も違うし、自然に対する接し方も違う。
日本の常識は通用しない、お客様は神様ではない
■ 「お客様は神様」がドイツ人にはありえない理由
ドイツへ転勤してきた日本人の多くは、小売店や飲食店の顧客サービスの悪さにショックを受ける。
日本に比べるとドイツはサービス砂漠である。
おもてなしという観念はほぼゼロの国だ。
日本では「お客様」としてまるで真綿にくるまれるように店員から優しく接してもらえるが、ドイツでは「客扱い」されないことがしばしばある。
最も目につくのは、商店やレストランでの店員の態度の悪さだ。
大半の日本人は、度肝を抜かれるだろう。
ドイツでは、客が店員から待ちぼうけを食わされるのは日常茶飯事だ。
手を挙げて店員の注意をひかなくては、いつまでも注文を取ってもらえない。
客が自分でメニューを取りに行くことも珍しくない。
しかもドイツでは、サービスはタダではなく有料である。
店員やタクシー運転手、理髪店、ホテルの部屋の掃除人、購入した家具を自宅まで運んでくれた運送業者などにはチップを払わなくてはならない。
ドイツの商店では、それぞれの店員の仕事が厳密に決まっており、与えられた仕事以外はやらない。
日本の常識は、ドイツでは通用しない。
この国の店や企業では、職務分掌が厳しく決められており、いくら忙しいときでも、ほかの人の仕事を取ることは許されない。
たとえ客から頼まれても、順番を待つ客が長蛇の列を作っていても、店の内部の決まりを破ってはならない。
つまり日本に比べると融通が利かず、柔軟性に欠けるのだ。
お客様は神様ではない。
ドイツには「閉店法」という法律があり、店を開ける時間が規制されている。
この法律によると日曜日と祝日の店の営業は原則として禁止されている。
午後8時から翌朝6時までは店を開いてはならない。
例外はガソリンスタンド、薬局、空港、大きな駅の売店などだ。
ドイツには24時間営業のコンビニエンスストアや、夜中まで開いているスーパーマーケットはない。
2003年の法改正によって、ようやく平日、土曜日ともに閉店時間が20時まで延長されたので、市民はそれまでのように時間に追われて買い物をする必要はなくなった。
会社で18時まで仕事をしても、買い物ができるようになった。
それでも、コンビニエンスストアに慣れた日本人は、ドイツの営業時間規制を窮屈に感じることだろう。
日本での常識は、多くの国では通用しない
■ 「「すみません」の国 」
欧米に限らず、海外勤務をした人たちがよく言うのは、日本と違って個人主義が徹底している国では、自分のノルマとして決められた仕事はするけれど、それ以上のことはしてくれないから戸惑うということだ。
日本であれば、自分の仕事が終わって手が空いているときに、「ちょっとこの仕事を手伝ってくれないか」と上司から言われれば手伝うだろう。
そうした日本での常識は、どうも多くの国では通用しないらしい。
組織よりも個人を拠り所とする場合は、自分のノルマ以外の仕事を手伝うには相当の理由が必要になる。
多くの場合、手伝うことで本人にとってどんなメリットがあるかが説明され、納得すれば動くようだ。
個人主義の文化的伝統のもと、「雇用契約に則って動くべきである」という心の構えをもっていれば、何の抵抗もないのだろう。
考えてみれば、日本では仕事の境界も曖昧で、どこまでが自分の仕事で、どこからが他の人の仕事かということが明確に区別しがたく、曖昧領域というようなものがあるように思われる。
それでもトラブルが生じない文化だということなのだろう。
そのいい加減さが、利他的行動をとりやすくする要因ともなっているのだ。
自分や身内について謙遜する日本の常識
■ 「新・日本の経営」
日本は、そう簡単には理解できない矛盾した性格をもっている。
一方では、日本はきわめて豊かで、類をみないほど社会が健全な国である。
社会がこれほど洗練されている国は珍しい。
人々は誰にも強制されることもなく、礼儀正しくふるまっている。
国際政治の舞台でも、他国の政治に干渉しようとせず、武器を輸出せず、軍事力を行使すると脅すこともなく、経済支援と人道支援を世界各国に提供している。
だが他方で、日本はつねに自国を卑下している。
自国にほとんど誇りをもてないようにみえるし、世界のなかでの自国の地位に確信がもてず、自国について語るときは控えめな言葉を使い、海外では否定的に描かれることが多い。
世界には誇張のタネがきわめて多いが、日本社会には民族、宗教、階級の違いで社会対立の大きな源泉になるものはとくにない。
波風がたたないわけではなく、見方や考え方の違いはあり、対立が爆発する場合もある。
だが、社会が混乱することは少なく、抗議行動やデモは規模が小さいし、激しいものにならない。
ほぼどの指標でみても、経済と社会は異例なほど健全だ。
したがって、日本人が自国にそれほど誇りをもっていない点が、ますます不思議に思えてくる。
日本が直面している問題のうちもっとも深刻な点は、この自信のなさ、とくに若者の無気力だともいえる。
日本人はいつも将来を悲観的に、現状を否定的にみており、事実を客観的に分析すれば根拠がないことがはっきりしていても、こうした見方が根強いのがたしかな現実である。
その一因は、自分や身内について謙遜する日本の常識にあるのかもしれない。
日本語で夫か妻、子ども、自宅、仕事、国を自慢するのはむずかしく、自慢すれば奇異な印象をもたれる。
他国の人たちは逆に、外国人の前で自国を批判したり、他人の前で身内を批判したりするのをためらうのがふつうであり、たいていは自慢したがるものだ。
日本人はこうした自慢が不得意だ。
日本人が自国を否定的にみる理由がどこにあるにせよ、もっと肯定的な見方を示し、それによって日本の実情をもっと正確に描いて政策を決定していけば、誰にとっても利益になるだろう。
当然と思われている人間関係が、他の文化では失礼に当たることもある
■ 「ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人」
たとえば、私たちは、社会生活を送る中で、何が善いことで何が悪いことかを学ぶ。
それは、そもそも人間に備わっているものではなく、その文化で他の人たちとのコミュニケーションをとる中で身につけるものである。
そして、そうした善悪の判断は、文化によって結構違っていることは理解していただけるだろう。
ある文化では、豚は汚らわしいものと思われ、別の文化では牛は神聖な生き物と思われている。
また、片膝を立てて食事するのが正統な行儀作法であったり、お膳からご飯茶碗を手にとって持ち上げて食べるのは品がないと思われている文化もある。
さらに、誰かの家を訪問するときに、お土産を持って行くのは当然と思われている文化があるのに対し、そうしたしきたりを重視しない文化もある。
これとまったく同じように、ある文化では当然と思われている人間関係が、他の文化では失礼に当たることもある。
また、ある文化では非常に重要と思われているものの考え方が、他の文化では、瑣末なことと考えられている場合だってある。
このように、どのような人間関係が常識的かということは、その文化を構成する人たちが共有したルールによって、はじめて決まってくる。
以上のように、私たちの前に立ち現れてくる現実の見え方は、個人の生理状態や精神状態を超えて、もっと社会的な要因によって決まってくることがあるのだ。
そして、その文化にできあがった常識的なものを見る際の構えが、時として曖昧な現実にわかりやすい意味を与える道具となっているということがわかってくるだろう。
「常識」をとらえなおすことが異文化理解の第一歩
■ 「日本語教師のための異文化理解とコミュニケーションスキル」
それぞれの文化で何が常識と考えられているかということにはかなりの隔たりがあります。
自分にとっての常識とはどんなことでしょうか。
私たちは普段、自文化のルールに従って生活していて、他の文化には異なるルールがあるのだろうと漠然と想像しながらも、それはあまり実感を伴うものでありません。
また、自文化のルールも長年の間に深く浸透し、無意識化してしまっていることが多く、異なる文化の異なるルールに直面すると戸惑ってしまい、それを「非常識!」と認定しがちです。
しかし、その異なる文化ではそれは「常識」であったりするのです。
あなたにとっての「常識」と異なる他人の「常識」を、「非常識」ではなく、「新常識」というふうにとらえなおすことが異文化理解の第一歩です。
常識とはある文化集団が大切にしているルールです。
人間は集団をつくり、互いに助け合って生活しています。
その集団を維持し、まとめていくには成員が守らなければならない規則があり、長い歴史の中でそれらのルールは複雑化し、そのルールに基づいた行動は、習慣や豊かな文化を築きあげてきたといえます。
常識とは言葉を変えれば、その文化集団が大切にしている価値観で最も共有されている部分です。
しかし、どの文化集団でも価値観には幅があります。
「常識」といわれるものは共有度の高いものですが、たとえば「礼儀正しい」という価値観は人によってかなり幅があります。
非常に礼儀正しい人から、かなりアバウトな人までいます。
どの文化集団においてもこれは見られる現象で、個人差があることを忘れてはなりません。
欧米諸国の学校では生徒に掃除をさせる習慣はほとんどない
■ 日本の学校掃除は教育か、それとも児童労働か
日本の小学生が、学校で掃除(及び給食の配膳)を行っている動画が話題を呼んでいる。
日本においては一見日常的な風景であるが、欧米諸国の学校では生徒に掃除をさせる習慣はほとんどなく、雇った清掃員に全ての掃除を任せている。
それゆえ、多くの反響を呼んだのである。
主に以下のような反応に分類される。
素晴らしい取り組みと賞賛する人、児童労働・虐待になりかねないと懸念する人、学校は掃除よりも勉強の場所であると主張する人、である。
児童労働・虐待ではないかと懸念する人に関しては、学校が生徒に掃除をさせることで清掃員雇用のコストカットをしようとしていると誤解していることが多い。
日本の小学校の掃除に関する取り組みを賞賛する人たちは主に、ものを大切に扱い敬意を払うこと、自分の始末は自分でつけることを子供に覚えさせる機会として賞賛していた。
中には、家事を覚える良い機会だと捉える人もいたが、これは家で教えるべきことだという反対の意見もあった。
効果に対して懐疑的な意見もあった。
掃除教育は「立つ鳥跡を濁さず」のことわざが表すような日本の精神性を体現している習慣の一つに過ぎず、掃除教育だけではいわゆる日本的精神性の良い面もすぐには身につかないのかもしれない。
日本的精神性の悪い面と関連づけて掃除教育を批判する人もいる。
「掃除教育が教えようとしているエッセンスを否定するわけではないが、行き過ぎた責任感や義務感の教育はよくない」など、加減に対する指摘も見受けられた。
日本の掃除教育に関する動画及び関連記事からは様々な反応が伺える。
同時に、動画はシンプルなメッセージを発信する手段として便利だが、細かな部分の理解を促すには向かず、誤解も生み易いように感じられる。
動画ニュースを見てメッセージを受け取るだけでなく、動画をきっかけにトピックを深掘りした上で多様な考えや視点を知ることも大切ではなかろうか。
海外の日系企業に優秀な人材が集まらない理由
■ 海外の日系企業に優秀な人材が集まらない理由
海外の日系企業での就職活動を行ってみた。
欧州で暮らしながら、世界を股にかける大手企業で働くチャンスに期待を募らせていたのだが、面接の前に届いた質問項目を見て、気を落とすこととなった。
- 日本企業の規律を学び、実践してみたいですか?
- 顧客からのメールや電話には可能な限り早く対応しますか?
- 休暇中も仕事に責任を持てますか?
- 仕事に関連した書類を読むことに、進んで自分の時間を費やしますか?
- 顧客を楽しませるため、時々プライベートな時間を費やせますか?
「日本企業の規律」とは結局のところ、残業や休日出勤の言い換えに過ぎなかったのである。
こうした「日本企業の規律」について、現地の友人に話しを聞くと、
「休日に仕事をしたら、それ休日じゃないじゃん」
という正論が返ってきた。
身も蓋もない言い方だが、たしかに言うとおり・・・
そんな仕事に対しての考え方の違いは、面接でも感じられた。
「日本企業の規律」について、面接担当者は「こちらの人たちは終業時間になると、残務があっても帰ってしまうんです」と説明していたが、それは日本が特殊なだけであって、世界では当たり前のことだ。
怠け者であるかのようなニュアンスが含まれていたが、ビジネスにおけるルールに則って働いているにすぎない。
また、現地の人々への敬意が欠けているようにも感じられた。
もちろん、諸外国にも残業や休日出勤がないわけではないが、できるだけそれを避け、仮にどうしてもやらなければいけないのであれば、正当な対価が支払われてしかるべきだ。
それを「日本企業の規律」という言葉でコーティングし、あたかも素晴らしい文化であるかのように「学ぶつもりはありますか?」と上から目線で問われたことに、強い違和感を覚えてしまった。
労働生産性は先進国中最下位、経済成長率は30年近く低迷、そして「Karoshi」という言葉が世界で悪名を轟かせている日本が、ドヤ顔で「日本企業の規律」を押しつける根拠はいったい何なのだろうか?
決して日本経済はかつてのように優れているわけではない。
また、世界経済を席巻していたときも、それを支えていたのは急成長した人口と時間外労働だ。
「日本企業の規律」というと柔よく剛を制すような日本人の琴線に触れるイメージが湧いてしまうが、実際は労働者たちの力でゴリ押ししていたにすぎない。
まるで世界には知られていないビジネスメソッドであるかのように使われている「日本企業の規律」。
日本国内では、同じく過剰労働や人権侵害が大きな問題となっている技能実習生たちにも、似たような謳い文句が使われているが、こうした言葉遊びをやめない限りは、日本経済が再興する日は遠いだろう。
このままでは日系企業の元には優秀な人材など集まるはずもないだろう。
日本企業はその規律を誇り輸出する前に、労働者に対する正しい敬意と対価を払うべきはずだ。
わが社の常識は世間の非常識
■ 「やらせメール」が教えてくれたこと
「わが社の常識は世間の非常識」
ということがよくある。
変わらぬ企業体質は、会社を潰すことにもつながりかねない。
組織の常識は世間の非常識
■ 不祥事を繰り返す企業を本当に笑えますか?
果たして、不祥事を繰り返す企業を笑い飛ばすことのできる人間は、どれだけいるのだろうか。
最初の不正発覚前に転職した人は冷笑的にこう言った。
「そう簡単にあの会社は変わらないよ」
ドイツ人からはこんな話を聞いた。
「日本人は一人ひとりの能力は高そうに見えないが、チームになると高い能力を発揮する」
この2つの話の話は、組織文化という切り口でつながる。
コンプライアンスの分野でよくいわれる「組織の常識は世間の非常識」といったときの常識とは、組織文化を指している。
組織の常識に従っていれば、いちいち行動の意味を検討したり、価値基準を考えなくて済む。
それがメンバーの阿吽の呼吸を生み、効率化を促進する。
共有された価値観の体系はチームのまとまりも高めていく。
だが、自組織特有の規範である組織文化は、内向きになり、見直す機会をもたなければそのズレが許容範囲を超え、一般社会の道徳・倫理・法規等の規範から逸脱していく。
その気になれば、外の目で組織の常識を顧みる機会はそこここに存在している。
私たちは、謙虚に自分たちの常識 = 組織文化を見直す感受性・寛容性をもっているだろうか。
もし、自らを省みることがなければ、知らず知らずのうちに、「世間の非常識」と見られる振舞いをしている可能性が高いだろう。
社内の「常識」が、世間の「非常識」になるとき
■ 社内の「常識」が、世間の「非常識」になるとき
やはり会社が謙虚さを失うと、それが社員に伝播していくのではないでしょうか。
自分たちが未来永劫いまのやり方で通用すると考えるようになってしまう。
特に大企業になると、大きな船の中にいるようなもので、外の波が高くなっていることにも気づかなくなる。
タイタニック号がまさに沈もうとしているのに、ひたすら食堂の椅子を並べ替えているというイメージです。
どこの会社にもエネルギーを内に秘めている若い社員たちがいて、正しいことをやりたいと思い続けているものです。
そういう社員たちの軸足をきちんとお客様のほうに向けて、「正しいことは正しい」と言えるような環境をつくれば、出口は自ずと見えてくると思っていました。
グローバル化と言うのであれば、世界の常識に日本も倣うべき
■ 「正社員になれなかった人?!」 増幅する非正規社員への偏見
そもそも一体なぜ、「非正規社員の賃金は正社員よりも低くて当たり前」などという常識が、日本ではまかり通るようになってしまったのだろう。
欧州諸国では、「非正規社員の賃金は正社員よりも高くて当たり前」が常識なのだ。
フランスでは派遣労働者や有期労働者は、「企業が必要な時だけ雇用できる」というメリットを企業に与えているとの認識から、非正規雇用には不安定雇用手当があり、正社員より1割程度高い賃金が支払われている。
イタリア、デンマーク、オーストラリア、ニュージーランド、カナダなどでも、非正規労働者の賃金の方が正社員よりも高い。
これだけグローバル化だの何だのと言うのであれば、「非正規社員の賃金は正社員よりも高くて当たり前」という世界の常識に、日本も倣うべきなんじゃないだろうか。
企業の社会的責任の国際的な基準と常識
■ 企業の社会的責任の国際的な基準とは?
まず、企業の社会的責任の国際的な基準について見ていこう。
企業活動におけるSDGsの重要な指標として、「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、「ビジネスと人権原則」)が2011年に国連人権理事会で採択されている。
この原則は、次の3点から成っている。
- 人権及び基本的自由を尊重、保護及び実現するという国家の既存の義務
- 特定の機能を果たす特定の社会組織として、適用されるべきすべての法令を遵守し人権を尊重するよう求められる、企業の役割
- 権利及び義務が侵されるときに、それ相応の適切で実効的な救済をする必要性
2. の規定では、企業が、世界人権宣言、国際人権規約、ILO中核的労働基準などの国際人権基準を尊重する責任を負うことを明記している。
これまでの国際的な人権基準は主に国家に対してその責任があることを示していたが、その対象はすでに「企業」に拡張されているのである。
人権に関して企業の責任を問う背景には、グローバリゼーションが進展する中で、国家の枠組みを超えて生産活動を行うグローバル企業が増え、個別の国家だけでは労働者の人権侵害に対応できないという実情がある。
そして、この原則がでとりわけ重要なのは、この原則が、直接雇用する労働者の人権だけでなく、取引先企業の労働者の人権にもコミットするように求めている点だ。
「ビジネスと人権原則」13では、次のように明記している。
自らの活動を通じて人権に負の影響を引き起こしたり、助長することを回避し、そのような影響が生じた場合にはこれに対処する。
たとえその影響を助長していない場合であっても、取引関係によって企業の事業、製品またはサービスと直接的につながっている人権への負の影響を防止または軽減するように努める。
このように、サプライチェーンの中で起きた人権侵害については、下請に委託をしている企業も責任を負うと言うことが、もはや国際的には「常識」なのである。
この人権に対する新しい常識は、これまで多くの大企業が下請企業の「人権侵害」によって利益を上げている事実が何度も告発されることで形作られてきた。
大手企業はがいくら「SDGs」や「人権遵守」を表明しても、そこに製品を供給する企業が児童労働や労働法違反を繰り返しているのは、明らかな矛盾だったからである。
企業に存在する多くの「ストーン・キャット」
■ 「やっぱり変だよ日本の営業」
今の常識では考えられないことですが、数百年前は、天動説が常識でした。
時代が進化するにつれ、表面現象ではなく、本質が理解できるようになり、常識だと思われていたことが180度引っ繰り返ることがあります。
水は100度で蒸気になります。
しかし、これは地球上のどこでも通用する常識というわけではありません。
チベットに行けば90度で沸くのが常識になります。
環境と条件が変われば、常識は変わります。
確かに一般的には100度で沸くのが常識ですが、海抜が高いという条件の下ではその常識さえも変わるのです。
ビジネス環境と社会条件は変わりました。
しかし、相変わらずこれまでの常識で行動している人は意外に多いのではないでしょうか。
早いか、遅いかの違いはありますが、死ぬまで一つの会社にいる人はあまりいません。
しかし、多くの企業は、基本的に社員が会社を辞めないことを前提に行われています。
業種や規模、社風などによっても違いますが、一般的に言えば今の若い日本人は、会社を辞めることに対して何の抵抗もありませんし、辞めることをむしろ前向きにとらえる人が増えました。
これからはこの傾向が加速するでしょう。
戦後、日本企業は長期間にわたって高度成長を謳歌してきました。
人手不足が社会問題になり、「人手不足倒産」まで起きました。
このために社員の確保が企業の経営課題の一つとなり、社員にずっと自社で働くことを期待し、奨励しました。
つまり、「終身雇用制」は企業側の都合だったのです。
日本人の集団心理をうまく利用し、一つの企業に尽くすことを美徳とし、会社を辞めることを裏切り行為と見なすようになりました。
これは、単に長く続くことで習慣化したものにすぎません。
それでも一昔前までは、終身雇用制は日本企業の文化だと言う人がたくさんいました。
しかし、バブル崩壊後やリーマンショックを経て、日本を代表するような企業でさえも大量のリストラを余儀なくされている現状を見た日本人は、自分たちの会社もすでに例外ではないことに気づいてしまいました。
企業のためではなく自分や家族のために働く感覚が、今の若い人たちはもちろん、中年の人たちにも広まっています。
一つの会社にずっといることを前提とせず、もっと自分の生き方に合う企業、もっとやりがいのある企業、もっと条件のよい企業に転職していくことが、自然なことになってきています。
しかし、実際に日本企業は社員が辞める前提で運用されているのか、そのような運用ノウハウと心構えがあるかというと疑わしいのが現状ではないでしょうか。
欧州のある古い教会での話です。
昔、教会の神父が野良猫を飼い始めました。
彼が祭壇の前でお祈りするとき猫が彼に悪戯したりするため、お祈り中には猫を紐で祭壇の脚につなげるようにしました。
やがてこの神父が亡くなり、二代目の神父がその猫を世話して、同じようにお祈り中に祭壇の脚に猫をつなげるようにしていました。
三代目の神父はいつも猫を祭壇の脚につなげる先輩神父のことを思い出し、自分も猫を飼って同じようにお祈り中に猫を祭壇の脚につなげていました。
四代目の神父は面倒くさがり屋で、生きた猫ではなく石の猫を作り、祭壇の脚の横に置くようにしました。
そして、五代目の神父は、床に置かれている石の猫を邪魔だと思い、祭壇の上に置きました。
そして六代目以降の神父たちは、常に石の猫に向かってお祈りするようになり、いつのまにかこの教会では、その石の猫は祭壇上の神聖なる存在になっていたのです。
今では誰もその経緯を知りませんし、その存在意義を問おうともしません。
これが「ストーン・キャット」の話です。
我々人間は、いつもやっていることを必要以上に神聖化する癖があります。
長く続けてきたことに対しては、必ず意味があると思い込んでしまいます。
つまり、その時代や状況に応じてたまたまできた制度や仕組み、方法などをしばらく続けると、まるで神聖なルールのように思い込み、誰もその存在理由と合理性の是非を問わなくなります。
企業には多くの「ストーン・キャット」が存在します。
長い間、我々はそれが必要だと信じ込んできたところに大きな問題があります。
今の時代に特に必要のないものや代用できものであっても、いざ変えるとなると怖くなってしまうのです。
前例が生まれた環境が変わっても、前例を重んずる習慣
■ 「コア・コンピタンス経営」
4匹の猿が部屋の中に入れられた。
部屋の中央には高い支柱が置かれ、その先から沢山のバナナがぶら下がっていた。
1匹のおなかをすかせた猿がバナナを取ろうとして支柱に登った。
やっとバナナに手が届いたそのとき、突然天井から冷たいシャワーが降ってきた。
猿は悲鳴を上げ、バナナを取らないまま支柱を降りた。
次々に他の猿もバナナを取ろうとして支柱に登った。
そしてそのたびに冷たいシャワーを浴び、バナナを取らずに降りた。
猿たちは何度か同じことを繰り返したが、結局バナナを取るのをあきらめてしまった。
ここで、4匹の猿のうち1匹を部屋から出して、代わりに新しい猿を1匹入れた。
この何も知らない猿がバナナを取ろうと支柱に登った瞬間、残りの3匹の猿が一斉に新入り猿に飛びついて引き下ろそうとした。
「支柱に登るな」と忠告したわけである。
新入り猿は支柱に登るたびに仲間に引き止められて一度も冷たいシャワーを浴びなかったが、とうとうバナナをあきらめてしまった。
その後、1匹ずつ初めの猿を外に出し、何も知らない新しい猿と入れ替えた。
そのたびに、新入りの猿は「支柱に登るな」という忠告を受けた。
新入りの猿は1匹も支柱の頂点まで登らず、冷たいシャワーを浴びなかった。
支柱に登ってはいけない本当の理由を知っている猿は1匹もいなかった。
仲間が引き継いだ前例を忠実に守ろうとしただけなのである。
天井のシャワーが取り外されても、1匹も支柱には登ろうとしなかった。
我々は管理職が猿だと言っているのではない。
前例が生まれた環境が変わっても、前例を重んずる習慣は会社の経営方針、経営プロセス、社員教育プログラムなどの中で生き続ける場合があると指摘したいのである。
もう一つはもっと危険である。
自分が何を知らないのかをわかっていないのである。
最悪なのは、自分が知らないことに気づいていない時である。
どうしたら自分が何を知らないかがわかるだろうか。
どうしたら自分の狭い視野を打ち破ることができるだろうか。
会社はこの問題に真剣に取り組まなければならないのである。
よく言われる「汝の知らざることが汝を苦しめる」という格言は、まったくその通りだ。
慣習を重んずる会社の栄光はなぜ崩れてしまうのか。
それは、必要な情報を入手する手段がなかったからではない。
知るべき情報が自分の経営の枠組みの外にあったからなのである。
恐怖心によって培われた習慣
■ 「こうすれば組織は変えられる!」
恐怖心に支配された人は、突然間違っていもいいと言われても、当然ながら疑心暗鬼で、なかなか古い習慣を捨てようとはしない。
恐怖心によって培われた習慣は、たとえ本人がそれを望んだとしても、打ち壊すのが非常に難しい。
飢餓状態からの回復が慎重な食事療法を必要とするように、長い間虐げられてきたと感じている人が方向転換するようになるには、長い時間がかかるのだ。
悪しき慣習を、次の世代に決して引き継いではならない
■ 「経営者の手帳」
世のなかには、明らかに使命を終えたと思われる制度や慣習がまだ存在している。
その制度や慣習のせいで、誠実に生きている人々が不便・不幸・苦痛を強いられているようなケースが意外と多い。
しかし経営者を含めたリーダーの多くは、
「自分たちも若い頃、そういう慣習や制度のもとでやってきたのだから」
「良い悪いではない。それがわが社のルールだから」
「数年辛抱すれば通り過ぎてしまうから」
と考えて、なかなかそれを変えようとせず放置してしまっている。
こうした対処は、正しいリーダーの姿勢とはほど遠い。
そればかりか、フェロー(メンバー、仲間)からの信頼を得ることはむずかしいだろう。
仲間の幸せのため、
「悪しき制度、慣習に悩まされるのは自分を最後に」
という姿勢で行動すべきである。
それを、次の世代に決して引き継いではならない。
常識とは?会社の常識、日本社会の常識、世界の常識って?
(パート2)
んでもって・・・
、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、こんなのからも念のために一応考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・。)ノ
常識(一般常識)とは?
○ Weblio辞書
- ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。
- 「共通感覚」に同じ。
常識(一般常識)とは、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。
その社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。
これは文化摩擦などとして表面化することもある。
社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。
○ コトバンク
ある社会の共同の知識と経験の総合的集積で、その社会の構成員はだれでも受け入れざるを得ないような自明性をもっている。
その意味では、知識の一つであるが、直接的に与えられ、一般の人びとに受け入れられている意見の総体でもある。
慣習とは?
○ Weblio辞書
- ある社会で、長い間にみんなに認められるようになったならわし。世間のしきたり。
- なれること。習慣となること。
習慣とは?
○ Weblio辞書
- 長い間繰り返し行われていて、そうすることが決まりのようになっている事柄。また、繰り返し行うこと。
- ならわし。しきたり。風習。慣習。
- 学習により後天的に獲得され、繰り返し行われた結果、比較的固定化するに至った反応様式。
その人の習慣は、後天的な行動様式であり、反復して行われる事で固定化される。
身体的な振る舞いの他に、考え方など精神的、心理的な傾向をも含む。
人の性行に影響する所が大きいため、「習慣は第二の天性なり」とも言われる。
一般的に、成人後、高齢になればなるほど習慣で行動する傾向が強くなり、その矯正も難しくなってくる。
○ コトバンク
- 長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと。
- その国やその地方の人々のあいだで、普通に行われる物事のやり方。社会的なしきたり。ならわし。慣習。
- 心理学で、学習によって後天的に獲得され、反復によって固定化された個人の行動様式。
慣習と習慣の違いとは?
○ Weblio辞書
習慣は基本的には個人の行動様式を指すが、
ある集団に共有される様になった場合は、「慣習」と呼ばれる。
個人的な習慣と異なり、共同体的な慣習は集団の内部の方向性と均質性を保つため、成員に対し慣習の遵守を求めるとともに、違反者に対し一種の制裁(嘲笑・非難など)が加えられることもある。
「所変われば品変わる」とは?
○ コトバンク
土地が違えば、風俗・習慣なども違う。
「社内(会社・わが社)の常識は世間の非常識」とは?
○ あなたの会社の非常識、教えてください
会社の中だけで通用する、人物・習慣・制度 など。
常識とは?会社の常識、日本社会の常識、世界の常識って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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