「集団思考って何だろ~? (;゜д゜) 」
「集団心理や群集心理って何だろ~?どんな時に陥っちゃうんだろ~? (ーー;) 」
「会社の意思決定の様子を見ていると、集団思考とか集団心理とか群集心理とかに陥っているように感じちゃう時があるんだよね・・・ ( ̄_ ̄|||) 」
「例えば会議やミーティングなんかで、異なる意見とか反対意見とかをものすごーく言いにくいし、もしも言ったら人在、人罪、人済って評価されちゃうかもしれないし、出る杭は打たれるって感じになっちゃって孤立する羽目に陥ったり、下手したらリストラされちゃったりしちゃうかもしれないからとても言えないし・・・(; ̄ェ ̄)」
「良いように解釈すれば、みんな協調性があるからとも言えるのかもしれないけど、だけど事業継続って観点から考えたらどーなんだろ~?一歩間違えたらヤバイんじゃないかな~?って感じる時もあるんだよね・・・ (;・∀・)」
「そーゆー企業文化と言われればそうなのかもしれないけど、上手く行っているうちはそれでもいいのかもしれないけど、思考停止していて流されているとしたら、疑問を持つことすらできなくなってしまっていて主体的に考えることもできなくなってしまっているとしたら、それってちょっと危険なんじゃーないかな~?って感じちゃう時があるんだけど・・・ (;´゚д゚`) 」
「うちの会社のこーゆー状況って、集団思考とか集団心理とか群集心理とかに陥っているってことなんだろーか?これも一種の兆候なんだろーか? (|||▽ ) 」
「何が原因で集団思考とか集団心理とか群集心理とかに陥っちゃうんだろ~?集団思考とか集団心理とか群集心理とかに陥らないようにするには、何をどーしたらいいんだろ~? ヽ(;▽;)ノ 」
などなど、このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
「経営理念・ビジョン・経営計画等の作成」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「組織力の強化や向上」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
こーゆー疑問って意外と大事
なんじゃーないかな~???
(`・ω・´)
なーんて感じることもあるのと、それにコレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
集団思考、集団心理、群集心理と会社の意思決定との関係って?
(パート1)
んーと・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、例えばこんなのからまずは考えてみるのはどーでしょう?
( っ・ω・)っ
集団思考とは?
○ ウィキペディア
集団思考とは集団で合議を行う場合に、不合理あるいは危険な意思決定が容認されること。
集団浅慮と訳されることもある。
欠陥のある決定の兆候
- 代替案を充分に精査しない
- 目標を充分に精査しない
- 採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない
- いったん否定された代替案は再検討しない
- 情報をよく探さない
- 手元にある情報の取捨選択に偏向がある
- 非常事態に対応する計画を策定できない
集団心理とは?
○ ウィキペディア
集団心理とは、社会心理学の用語で、その社会の構成員である集団が、合理的に是非を判断しないまま、特定の時流に流される事を指す。
時流に乗るよう働きかけても抗う者は排除されるが、冷静になって考えれば、反省する場合が多い。
集団心理の起源は、敵が出現した時の団結の本能だとされる。
一般に、個が確立されていない社会や、精神的に未成熟な子どもにはこの傾向が強い。
アメリカ合衆国で行われた図形の配置など単純明白な事実の記憶に対する質問を行う心理学実験において、被験者はわざと嘘の答えを言うサクラの多数派に同調してしまう傾向が見られた。
たとえ自分の社会的立場を守ろうとする思惑がない状況であっても、自らの記憶自体が多数派に同調して書き換わってしまい、多数派の主張する嘘の事実を本気で信じてしまう現象が起こる。
ましてこれが主観的な問題であったり利害が働いたり心理学における合理化(本来好ましくなかったが成立してしまった現実を肯定するべく自らの価値・思考体系を変更する事を無意識のうちに行う事)が起こった場合には集団心理は容易に発生し社会的影響となる。
集団的浅慮とは?
○ 臨床心理学用語事典
集団的浅慮とは、集団の意識決定の場において、メンバーの個人的決定よりも劣る決定がなされる傾向のことをいいます。
集団的浅慮は集団思考とも呼ばれます。
集団的浅慮は、集団の凝縮性が高く、外部からの情報が得られない状況で起こりやすいとされています。
集団的浅慮が生じやすくなるとき
集団的浅慮は以下の場合に生じやすくなります。
- 他の選択肢を十分に検討していない
- 目標を十分に検討、吟味していない
- 情報収集が乏しい
- 手持ちの情報から都合のいいものだけを取り上げて分析する
- 一度却下された代替案は再考されない
- 選んだ選択肢が抱えるリスクやコストを検討しない
- 非常事態を想定しない(仮に想定しても対応策を考えない)
集団的浅慮が起きる兆候
集団的浅慮が起きる場合、集団内に以下の兆候が現れると言います。
- 自分たちは絶対に大丈夫と言う幻想
- 集団固有の行動規範や倫理に対する過剰な信念
- 外部からの警告を軽視する
- 外集団への偏見や軽視
- 疑問を口にすることへの自己検閲(自粛)
- 見せかけの満場一致
- 反対意見への圧力
- 集団の合意を覆す情報からの自己防衛
群集心理とは?
○ コトバンク
群集の中に生まれる特殊な心理状態。
衝動的で興奮性が高まり、判断力や理性的思考が低下して付和雷同しやすい。
付和雷同とは?
○ Weblio辞書
自分にしっかりした考えがなく、他人の意見にすぐ同調すること。
リスキーシフトとは?
○ ウィキペディア
リスキーシフトは、社会心理学の用語。
「集団思考」として知られている現象のひとつ。
普段は穏健な考え方をし、比較的節度を守って行動することのできる人が、大勢の集団の中では、その成員が極端な言動を行なっても、それを特に気に掛けもせずに同調したり、一緒になってそれを主張したりするようになっていくことをいう。
斉一性の原理とは?
○ ウィキペディア
斉一性の原理(せいいつせいのげんり)とは、社会心理学の用語であり、ある特定の集団が集団の内部において異論や反論などの存在を許容せずにある特定の方向に進んでいく事を示す。
斉一性の原理は、多数決で意思決定を行う場では起こらず、全会一致で意思決定を行う状況で発生する。
陪審制のあるアメリカ合衆国では、有罪か無罪かを、陪審員が決定する。
殺人容疑で起訴された被告人に対し、状況証拠充分、ならず者経歴豊富といった状況で、容疑を固めるような証拠ばかりが提出されていく。
斉一性の原理が起きている。
それに対し、1人の陪審員が、証拠に反論を積み重ね、無罪を勝ち取っていく物語である。
他の陪審員は、証拠に反論が提出されるたびに、苛立ちを覚える。
斉一性の原理を否定され、社会的現実を脅かされるのが、不快なのである。
しかし、多数の確信が誤りであるとの証拠を積み重ね、遂には多数派に誤りを認めさせてしまう。
斉一性の原理が働く場では、必ず「自薦の用心棒」が現れる。
「自薦の用心棒」の活躍を止めるためには、反論の動機も根拠も客観的であるとの姿勢を貫かなければならない。
自薦の用心棒とは?
○ ウィキペディア
自薦の用心棒(じせんのようじんぼう マインドガード)とは、社会心理学の用語で、集団心理や社会的影響の結果得られた規範を、擁護しようとする者を指す。
異論や反対、水を差す行為を封殺するのである。
自薦の用心棒は、発言者のネガティブ・キャンペーン等を行い、異論の影響力を弱めようとする。
集団ヒステリーとは?
○ Weblio辞書
集団が強い不安や恐怖などのストレスに晒されることによって、集団の成員全体にパニックや妄想などが広まることを意味する語。
サイバーカスケードとは?
○ ウィキペディア
サイバーカスケードは、インターネット上における現象のこと。
インターネットには、同じ考えや感想を持つ者同士を結びつけることをきわめて簡易にする特徴がある。
つまり人々は、インターネット上の記事や掲示板等を通じて、特定のニュースや論点に関する考えや、特定の人物・作品等に関する反発や賛美などの感想を同じくする者を発見することができるようになる。
加えて、インターネットは不特定多数の人々が同時的にコミュニケートすることを可能にする媒体でもあるので、きわめて短期間かつ大規模に、同様の意見・感想を持つ者同士が結びつけられることになる。
その一方で、同種の人々ばかり集結する場所においては、異質な者を排除する傾向を持ちやすく、それぞれの場所は排他的な傾向を持つようになる。
そうした環境の下では、議論はしばしばもともとの主義主張から極端に純化・先鋭化した方向に流れ(リスキーシフト)、偏向した方向に意見が集約される。
そして、かような場所では、自分たちと反対側の立場を無視・排除する傾向が強化され、極端な意見が幅を効かせるようになりやすい。
そして、小さな流れも集まれば石橋をも押し流す暴流となる道理で、ささやかな悪意や偏向の集結がえてして看過し得ぬ事態を招来してしまう。
こうしてインターネットは、極端化し閉鎖化してしまったグループが無数に散らばり、相互に不干渉あるいは誹謗中傷を繰り返す、きわめて流動的で不安定な状態となる可能性がある。
サイバーカスケードとは、こうした一連の現象に与えられた比喩的な呼称である。
サイバーカスケードにおいては、特定の個人が不特定かつ非常に多数の者から集中攻撃を受けるという事態(いわゆるブログの「炎上」など)や、完全に誤っている情報であっても瞬時かつ大規模に伝播して受け入れられてしまう事態など、さまざまな危険性が指摘されている。
モラル・パニックとは?
○ ウィキペディア
モラル・パニック(道徳パニック、道徳恐慌)とは、「ある時点の社会秩序への脅威とみなされた特定のグループの人々に対して発せられる、多数の人々により表出される激しい感情」と定義される。
より広い定義では、以前から存在する「出来事、状態、人物や集団」が、最近になってから「社会の価値観や利益に対する脅威として定義されなおされる」ことと言える。
モラル・パニックとは、ある種の文化的行動(多くの場合サブカルチャーに属する)や、ある種の人々(多くの場合、社会的・民族的なマイノリティに属する)に対して、世間一般の間に「彼らは道徳や常識から逸脱し、社会全般の脅威となっている」という誤解や偏見、誇張された認識が広がることによって社会不安が起こり、これら「危険な」文化や人々を排除し社会や道徳を守ろうとして発生する集団パニックや集団行動である。
モラル・パニックは、少数の人々に対する、多数の人々(必ずしも社会の多数派というわけではない)による激しい怒りという形をとる。
集団思考、集団心理、群集心理と会社の意思決定との関係って?
(パート2)
んでー・・・
次に例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?
( ´ ▽ ` )ノ
集団思考と集団的浅慮やリスキーシフト
■ 「ヒューマンエラーの心理学」
人や組織の犯す危険な行為には、「エラー」と「ルール違反」とがあります。
そして、組織の中にあり、事故を起こしたとされる失敗(エラーやルール違反)の背景にある、エラーやルール違反を引き起こす条件を見つけたり改善したりすることが事故予防の要です。
事故を導く危険な行為にはエラーとルール違反によるものがあるので、事故防止のためには、起きた失敗を「○○ミス」とひとくくりにするのではなく、「エラー」と「違反」を区別し、それぞれを引き起こす条件を取り除く対策が必要です。
「なぜこのような(初歩的な)失敗をしたのか、信じられない」
というようなコメントがなされることがあります。
しかし、心理学で明らかにされてきた人間の認知や行動特性、あるいは集団の特性から考えると、そういう状況であればその失敗も起こりうることだと見えてくることが少なくありません。
複数の人、異なる職種の人がチームで仕事をする組織では、心理学が明らかにしてきた、人が集団の中で行動するときのプラス、マイナスの両面が現れるでしょう。
メンバーのモラール(やる気)が低ければ違反を引き起こしやすくなりますが、高すぎても違反を引き起こしやすいことには変わりありません。
集団思考をすれば、一人のときより多彩な見方ができ、思い込みを指摘し合うこともできます。
しかし、一方では集団的浅慮といって、その場の雰囲気や遠慮(誰かが言うだろう)から貧弱な決定がなされてしまうことがあります。
また、リスキーシフトと言って、リスクを低く見積もり高いリスクな行動をしてしまうという失敗を起こし、「皆で渡れば怖くない」とばかりにルール違反をしてしまう傾向が生じます。
集団には「同調行動」(集団の期待や圧力によって、自分の意見や行動を「集団規範」(集団の意見や行動)に一致されてしまうこと)が起こりやすく、集団の多数の意見と違う意見をあえて主張すると集団内で逸脱者となりがちです。
この傾向は、集団の凝集性が高いほど強くなります。
一般に、集団の中で少数の者が誤りに気づくことがあっても、逸脱者になりたくないため、誤りに気づいた人が「止まる」提案をしにくいことが多いのです。
もし集団の中に日頃からルール違反を多めに見るような規範があると、ルール違反を促進するだけでなく、「その違反は危険だ」と思う人がいても違反している人に注意しにくくなります。
事故が起きると、「今後は注意を促し、徹底させる」といった具体性を欠く対策が発表されることが少なくありません。
しかし、事故予防には「エラー」と「違反」を区別し、それぞれを引き起こす条件を取り除く対策が必要です。
「集団のルール」や「規律」と「多様性の尊重」
■ 日本の学校は軍隊か刑務所
日本の旧態依然とした会社の特徴として、とにかく多様性を認めないというものがある。
みんなが残業をしているのであれば、自分も残業をしなければいけない。
みんなが有給をほとんど使わないで仕事をしているのであれば、自分も私用で有給を使うわけにはいかない。
本来であれば人それぞれ価値観や考え方も違うわけだが、そういう事情は一切考慮されない。
たとえ法律で認められている権利を主張したとしても、他人と違う行動を取ろうとする人は協調性がない、自分勝手な人間だとみなされてしまう。
こういう価値観が作られるようになった背景のひとつに日本の学校教育があると考えてもたぶんそれほどおかしくはないと思う。
日本の学校は、正直なところ教育機関よりも刑務所や軍隊に近い。
一度登校したら下校の時間まで敷地の外に出ることは許されないし、先生の言うことには従わなければならない。
軍隊同様、「命令は絶対」なのである。
これらが一体なんのために存在しているのか、昔から疑問で仕方がなかった。
どうやら集団のルールを学ぶとか規律を学ぶとかそういうところに理由があるらしいが、そう言われても未だに納得できないものがある。
たしかに、「集団のルール」や「規律」は重要だ。
自分勝手が許されない場面は当然ある。
しかし、学校の教育ではそういったことを強調するあまり、「多様性の尊重」が蔑ろにされてはいないだろうか。
バランスの問題なので、学校教育で「集団のルールを学ぶ」側面が全否定されるべきだとは思わない。
ただ、「個人の好み」を尊重するようなことはもっとあってもいい。
集団心理による感覚麻痺
■ ブラック企業の組織原理
ブラック企業の組織原理って、まるでカルト教団そっくりじゃないかと。
いくらなんでもそれは言いすぎだと思うかもしれないが実によく似ている。
どんな点が類似しているのか。
1. 経営者または組織に対する絶対的帰依
企業の存在が絶対善。
だから何があっても教団(企業)に逆らってはいけない。
そして教祖(経営者)や教団(企業)のためには、そこに属する人間は自分が死のうが組織に尽くさねばならない。
2. 反社会行為も組織のためなら是認
教団が信者を支配・洗脳するために、時に暴力行為が是認されるように、ブラック企業では社員を従わせるために、パワハラ行為が正当化させる。
人間を人間と思っていない。
そこにあるのは組織の絶対的なヒエラルキーであり、上の命令やノルマや教義はどんなおかしなことでも、そのために盲信してやり遂げなければならない。
それが違法行為だろうが反社会的行為であろうが。
3. 頭をおかしくさせる閉鎖空間での長時間拘束
信者(社員)を組織のために奴隷化させるには、信者(社員)に一般的な常識や価値観を持ってもらっては困る。
「そんなのどう考えてもおかしいだろう?」と思われたまずいからだ。
そこでそういう考えを起こさせないために、組織にいる時間拘束を長くさせる。
長時間拘束することで、一般社会とはできるだけ隔離し、閉鎖された組織での論理が当たり前だと思わせる。
一般感覚をマヒさせ、頭をおかしくさせ、組織に尽くすことを至上命題とさせる。
例えば意味もなく社歌を短期間で暗記しろだとか、「おまえはできないやつだ!」と、信者(社員)の人格を閉鎖空間で否定・罵倒し続け、頭が真っさらになったところで、組織に都合のいいルールを植え付ける。
ブラック企業では新人研修などで洗脳儀式を受ける。
4. 集団心理による感覚麻痺
でもこんなムチャクチャなこと、どう考えてもおかしいよな、とそれなりの大人なら思うわけだが、そこを集団心理を利用して巧みにけん制する。
組織に従わない輩は降格させたり、組織に従う輩を昇格させたりして、わかりやすい賞罰や見せしめによって、疑念の声を出しずらくさせる。
すると「おかしいとは思っているのは自分だけか」との錯覚に捉われ、自分がおかしいと思ってしまう。
5. 不安心理を煽りまくる
組織から離脱させないための最大の洗脳は不安心理を煽ることである。
この教団(ブラック企業)から出て行ったら、他に救いを得られる場所はどこにもないと脅し、ささやかな給料やささやかな昇格で、ささやかな自尊心を満足させることで、組織依存度を高めさせる。
6. 戦いを煽る
カルト教団が「ハルマゲドン」(最終戦争)や、教団弾圧の勢力との聖戦を持ち出し、信者(社員)が気を抜けば戦争(グローバル競争)に負けると、危機意識を煽ることで、組織のために死ぬ気で働かせることを正当化させる。
それによって無茶な重圧を強いるために、なかには死んでしまう人もいる。
7. 信者(社員)は貧乏でも教祖(経営者)は金持ち
信者(社員)から金や時間をさんざんむしりとっているのに、教祖様(経営者様)は金持ちというケースが多い。
ざっと上げただけでもこんなにある。
どうだろう。
そこらのブラック企業と比較してみて。
「モラル・パニック」の扇動に気をつけよう
■ 「排除ありき」の政策押し通す印象操作
「モラル・パニック」の扇動に気をつけよう。
古今東西の政権が幾度となく活用してきたのが、マスメディアを使って人々の感情に訴える手法である。
どのように報道されたのかは、各メディアのニュースの見出しを見れば、一目瞭然である。
マイナスイメージを付与することで、自らが実現したい政策を後押しする方向に世論を誘導するのは、古典的な手法である。
特定のグループの人々を「社会に脅威を与える存在」と見なし、多数の人々が激しい怒りや侮蔑などの負の感情をぶつける現象は、「モラル・パニック」と呼ばれている。
「モラル・パニック」において、攻撃の対象となるグループには「不法」、「犯罪」、「逸脱」といったレッテルが貼られる傾向がある。
「モラル・パニック」のターゲットとなるのは、外国人や民族的なマイノリティだけではない。
生活保護など福祉制度の利用者や障害者、性的なマイノリティ、公務員などもターゲットになることがある。
生活保護の利用者の間に、「不正受給」や「不適切受給」がまん延しているかのような印象操作が行われ、生活保護基準の引き下げと扶養義務者への圧力強化を可能とする法改定がおこなわれた。
この一連の流れも、生活保護費の削減や管理強化という「政策」が先にあり、その「政策」を押し通す「根拠」を作るために、「モラル・パニック」が人為的に引き起こされたと捉えることができる。
バックラッシュをもくろむ人たちによって「モラル・パニック」が意図的に引き起こされるであろう。
バックラッシュは、すでに排外主義の扇動や緊縮路線と自己責任論の復活、ジェンダー規範や「伝統的」家族観の強化など、さまざまな分野で見られている。
「モラル・パニック」を引き起こすきっかけとなる情報は、「就労意欲のない若者が生活保護を受けて、モラルハザードが起こっている」というニュースかもしれないし、「外国人が不正受給をしている」というニュースかもしれない。
マイノリティの人々の人権を守るため(いま以上に人権が侵害されないようにするため)、私たちは「使い古された手法」の手口を学び、警戒する必要がある。
組織が暴走するとき
■ アイヒマン
最後のナチス高官として悪鬼のように語られてきたアイヒマンが法廷に登場すると同時に、テレビを観ていた全世界の人々は息を飲んだ。
その外見が、あまりに普通であったからだ。
中間管理職そのままの雰囲気で被告席に立ったアイヒマンは、ホロコーストにおける自分の責任を問われるたび、「私は指示に従っただけだ」とくりかえすばかりだった。
やがて人々は気づく。
邪悪で狂暴だから殺したのではない。
普通の人間だからこそ、人は人を大量に殺すことがあるのだと。
人は群れる生きものだ。
一人では生きてゆけない。
様々な集団に帰属する。
不安や恐怖が高まるほど、群れは動きが統率される。
同じ動きをするようになる。
要するに同調圧力が強くなる。
同調圧力が強まれば強まるほど、人は指示や命令を求める。
なければ不安になる。
だから無自覚に作りだす。
これが組織内における忖度だ。
こうしてアイヒマンが誕生する。
それは決して特異な現象ではない。
群れる本能を保持してしまった人類は、誰もがアイヒマンになる可能性を持っている。
群れが走り出したとき、なぜ走るのかと声をあげることは難しい。
全体から遅れることは群れから脱落することを意味する。
さらに、もしも声をあげればその瞬間に、群れの中の異物になってしまう。
こうして群れは暴走する。
人は周囲に併せて走り続ける。
全体が右に曲がれば自分も曲がる。
左に曲がれば自分も曲がる。
目的や意味は考えない。
考えていたら取り残される。
こうして群れは徐々に加速する。
内心では「何かがおかしい」とか「誰かが嘘をついている」などと思っていても、群れの中にいるかぎりは声をあげることが難しい。
孤立は怖い。
一人にはなりたくない。
やがて群れは暴走する。
大きな過ちを犯す。
それから人々は言う。
いったい誰が悪いんだ。
でもよくわからない。
だから責任の所在が曖昧になる。
組織はさらに暴走する。
あるいは停滞する。
目を逸らす。
不正義がまかり通る。
弱いものが責任を押しつけられる。
真相を隠したい人たちは胸を撫で下ろす。
今の群れからは孤立するかもしれない。
でも発言すれば、きっと賛同者が現れる。
決して一人にはならない。
顔を上げよう。
声を出そう。
胸を張って内なるアイヒマンを否定してほしい。
もしもこのまま口を噤むのなら、きっと一生後悔する。
「組織のために命を捨てる」ところまで行ってしまうとき
■ もし「半沢直樹」がアメリカで放映されたら
アメリカはもともと「個人主義」の国である。
新大陸を開拓していくには個人が自分でリスクを取り、自分の人生を切り開いていく以外に道はなかった。
会社と従業員の関係は対等な契約であると見る。
その企業が気に入らなければ、とっとと辞めていく。
自分を生かしてくれる企業に転職し、そこで新たな人生を切り開こうとする。
米国では個人の幸福の追求が、集団での成功より上位の価値観に置かれる。
日本には「集団主義」の長い伝統があった。
組織に忠誠を誓い、波風を立てずに秩序だって行動することを求められた。
それが行き過ぎると戦前・戦中のように「組織のために命を捨てる」ところまで行く。
また、家族の犠牲も大きい。
戦後、民主主義国家になって大きく変わったが、我々の意識の中には古い価値観の片鱗が残っている。
日本の今の「閉塞感」はこうした諸要因が重なって起きているように思う。
会社というクローズドなシステムでは社員に逃げ場がない。
柔軟性を取り入れ、個人に選択の幅を認めるシステムに転換する必要があるように思う。
日本人の集団心理と「終身雇用制」
■ 「やっぱり変だよ日本の営業」
早いか、遅いかの違いはありますが、死ぬまで一つの会社にいる人はあまりいません。
しかし、多くの企業は、基本的に社員が会社を辞めないことを前提に行われています。
業種や規模、社風などによっても違いますが、一般的に言えば今の若い日本人は、会社を辞めることに対して何の抵抗もありませんし、辞めることをむしろ前向きにとらえる人が増えました。
これからはこの傾向が加速するでしょう。
戦後、日本企業は長期間にわたって高度成長を謳歌してきました。
人手不足が社会問題になり、「人手不足倒産」まで起きました。
このために社員の確保が企業の経営課題の一つとなり、社員にずっと自社で働くことを期待し、奨励しました。
つまり、「終身雇用制」は企業側の都合だったのです。
日本人の集団心理をうまく利用し、一つの企業に尽くすことを美徳とし、会社を辞めることを裏切り行為と見なすようになりました。
これは、単に長く続くことで習慣化したものにすぎません。
それでも一昔前までは、終身雇用制は日本企業の文化だと言う人がたくさんいました。
しかし、バブル崩壊後やリーマンショックを経て、日本を代表するような企業でさえも大量のリストラを余儀なくされている現状を見た日本人は、自分たちの会社もすでに例外ではないことに気づいてしまいました。
企業のためではなく自分や家族のために働く感覚が、今の若い人たちはもちろん、中年の人たちにも広まっています。
一つの会社にずっといることを前提とせず、もっと自分の生き方に合う企業、もっとやりがいのある企業、もっと条件のよい企業に転職していくことが、自然なことになってきています。
しかし、実際に日本企業は社員が辞める前提で運用されているのか、そのような運用ノウハウと心構えがあるかというと疑わしいのが現状ではないでしょうか。
協調性を土台にした集日本的な集団主義
■ 「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
日本の企業社会は、一種のセレモニー化した規範を確立して協調性を大切にしてきた。
そして、こうした企業内の協調性を土台にした人間関係が集団主義を支えてきた。
しかし、この一見まさに集団主義的で協調的に見える行動も、その基準は実は自分の打算によっている。
一見企業へのロイヤリティを軸にした統一した行動に見えても、その原理となっているのは、その行動が己の打算にかなうかどうかである。
つまり、個人としては嫌であっても、出世や仕事にいい効果をもたらすということで参加してきた。
自分だけが仲間と違う行動を取るのはまずいという判断で、自分を殺して参加していることが多かった。
日本人の多くは、実は自分自身は集団主義的な人間だなどとは思っていないという不思議な現実がある。
むしろ、個人個人に聞けば、「日本的な集団主義には辟易していて、何とかそういう呪縛から自由になりたかった」などと語ることが多い。
それどころか、「日本人全体が集団主義である」ことは認めても、「自分は、そうした生き方に仕方なく従っているが、本当は違う」と感じている人のほうが多いのが現実であろう。
今、職場に起きていることは、集団主義の揺らぎに対しては「以前から望んでいなかったことだから」と肯定しつつも、今度は「そうは言っても個人主義的に飛び出した行動をすることが本当に利益なのかどうか」を見定めている状態なのだと言ってもいい。
まさに、職場は今、集団主義から個人主義、そして年功序列から成果主義を典型とする変化を前に、自らがどのように協調性を発揮すればいいのか分からず、立ちすくんでる状態なのだ。
古い価値観の集団主義や協調性というしがらみを捨てようとしながらも、なお、その一方でしがみつくという混乱と矛盾の中にいるのだと言ってもいい。
終身雇用と年功序列というシステムが確固たるものであった時代には、「就職」ではなく「就社」するものだと言われたように、その会社に一生を捧げるという考え方が当たり前になっていた。
つまり、就職することは、その会社に忠誠をつくすことで、一生安定した生活を保障されるというバーター的な考え方で成立していたのである。
したがって、その反対に会社へのロイヤリティを失い、それが理由で会社から放逐されることにでもなれば、まさに路頭に迷わなければならない。
そうした危機に陥らないために企業と個人の間には、まさに自発的に見えながらも、暗黙に働くいくつもの強制力が働いていたと言える。
その強制力とは、具体的には、上司の言うことは絶対であり、絶えず上司の意向を忖度して行動することや、同僚との協調性を最優先して、出しゃばったり目立ちすぎることは避けるなどといったことである。
更に、集団としてのルールを破らないように気を使い、集団の利益に貢献することで、個人の意思を押し殺す、などである。
日本企業では建前はともかく、本音では企業利益のためにウソをついたり、隠し通すという悪しき集団主義は根強く残っている。
不祥事の対応などでの、こうしたロイヤリティの高さは依然として求められているからである。
まさしく、企業のために自らの良心を殺す場面はあっても、その企業を告発することなどは考えられない風土が依然としてある。
こうした仲間意識が強い集団は、凝集性の高い集団となって、メンバーが互いにその集団に深く関与しすぎることになってしまいがちである。
そのために、メンバーは集団から仲間はずれにされたり、自分への支持を失うことを極端に恐れるようになる。
この時、メンバーの関心は、自分がことを荒立てて騒ぎにするよりも、メンバー同士の関係を重視する方向に目が向けられてしまうのである。
日本人が集団として大きな間違いをするとき
■ 「本質を見抜く「考え方」」
日本人は感覚が鋭敏で、反射や直感で一瞬にして行動を選ぶことができます。
これもまた優れた能力です。
必要にあわせて「やり方」を編み出していくのは、日本のやり方です。
「必要なのはこれだから絶対やれ」「では、何とかやりましょう」ということで、つじつまが合うように反射的に道を選ぶのです。
普通は、直感で決め、どんどんやればいいのです。
しかしリスクが大きくなるときは、必ず「検算」のつまりで論理を用いて、「穴」はないか確かめるのです。
「考え方」においても、直感したものを論理的思考で振り返ってみることで、確認作業として活用するのです。
それだけでもぐっと間違いが少なくなります。
日本人の場合、論理は、「あとでつければいい」のです。
そのとき、とくに気をつけなくてはならないことは、反射的に一つの方向を選んでいると、自分に都合のいい論理ばかりを引っ張ってくることがあるということです。
さらにいうと、日本人には、「論理を思いつく力」まで備わっているのです。
これは、大きな問題です。
一見、論理で検証されているように見えても、その論理自体が「擬似論理」「似非論理」である部分があるのです。
論理というのは、「道具」にすぎません。
ただし、同じ道具でも、ドライバーはドライバーとして、ヤットコはヤットコとして使い、しかも、その道具はしっかりしていなくてはなりません。
道具そのものを作り替えてしまったら、道具ではなくなってしまうのです。
自分に都合のいい、つじつま合わせの「似非論理」は、大切な道具に細工を施して、まったく用をなさない道具にしてしまうようなものです。
あまりにも直感を信じ、それを通したいという衝動にかられるあまり、都合の悪い論理を退けるために無意識に論理を操作し、ねじ曲げようとするということです。
日本人が集団として大きな間違いをするときは、このパターンです。
論理それ自体を尊重する心は、やはり大切なのです。
集団思考、集団心理、群集心理と会社の意思決定との関係って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
コメント
すごく考えさせられるテーマですね。
斉一性の原理の物語で出てくるような陪審員がいるケースの方が少ないと思います。
更に怖さを感じたのが「自薦の用心棒」の存在です。
異論や反対意見って封殺されている事が、特に会社内ではよく起こっていると思います。
それが、冒頭のキーワードの多さにつながっているのでは?
または、関係しているのでは?と思いました。
客観的な姿勢を貫くには、もっと自分が自律しないといけないなとも反省しました。
最近の日本の政治や原発問題に対しても自分で客観的に見て調べ、考えて周りの意見に流されず自分の意見を持てるようにならないと・・
いつもいつも新しい気づきを本当ぉ~にありがとうございます!
はっしー 様
遅くまでお仕事お疲れ様です。
いつもコメントありがとうございます。(^^)/
> 異論や反対意見って封殺されている事が、特に会社内ではよく起こっていると思います。
ううーむ・・・、確かに。
((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
言論の自由がない独裁国家ならいざしらず・・・
日本って言論の自由がある国のハズなのに、なーんでそうなっちゃうんだろーか???
コレって、ちょっと不思議に感じません(汗)?
> それが、冒頭のキーワードの多さにつながっているのでは?
ええーっと・・・
非常に興味のあるお話なので、はっしーさんのお考えをもうちょい詳しく教えてやっていただけると助かります(懇願)。m(_ _)m
> 客観的な姿勢を貫く
> 周りの意見に流されず自分の意見を持てるようにならないと
ううーむ、コレって難しいけど大事なことなのかもしれないですよねー、ホント。
実は・・・
「自分の考えって何?」「自分の考えがわからない」などの検索も結構多いんですが・・・
そうなっちゃう気持ちも、ナントナークわかるかも~?
なーんて、つくづく感じる今日この頃です。o( ̄_ ̄|||)o—
> いつもいつも新しい気づき
とんでもございません。
私の方こそ、はっしーさんのコメントによって、いつもいつもたくさんの新たな気づき & ボログ記事のネタをいただいてます。
海より深ぁぁぁぁーく感謝感謝です。m(_ _)m
こーゆー「共育の場」って、やっぱりいいなーって改めて感じています♪
イェ━━━━━ヽ( ゜Д゜)人(゜Д゜ )ノ━━━━━━イ