「ガラパゴス化って何だろ~? (ーー;) 」
「ガラパゴス化している状態って、どーゆー状態なんだろ~? (;´д`) 」
「ガラパゴス化のメリットって何だろ~?ガラパゴス化のデメリットはナントナークわかるんだけど、ガラパゴス化のメリットって何かないのかな~? ( ̄ー ̄?) 」
「ガラパゴス化は問題だって聞くけど、何が問題なんだろ~?ガラパゴス化って悪いことばかりなのかな~?何にでもデメリットだけじゃなくメリットもあるのと同じように、ガラパゴス化にもメリットがあるような気がするんだけど~? (;゜∇゜) 」
「日本がガラパゴス化しているって聞くこともあるけど、実際そう感じるけど、少しぐらいはガラパゴス化の状態から脱却した方がいいだろーし、その方が国際競争力も高まるとは思うけど、そもそも何が原因でガラパゴス化しちゃったんだろ~? (; ̄Д ̄) 」
「日本がガラパゴス化しているとしたら、どんな時に困るんだろ~?今のところそんなに困っていないように感じるんだけど、何がどう問題なんだろ~? ( ̄∧ ̄ ) 」
などなど、このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
「売上や利益の向上」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「人材育成戦略(戦略的な人材育成)」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」、「外国人との日本語コミュニケーション」などなどのお手伝いを行なっているからなのか・・・
日本語教師の経験や海外赴任の経験があるからなのか・・・
こーゆー疑問って意外と大事
なのかも~???
o(*⌒O⌒)b
なーんて感じることもあるし、それにコレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので・・・
そもそもの話、ガラパゴス化って、いったい何なんだろーか?
何がどうだったらガラパゴス化していて、何がどうではなかったらガラパゴス化していないんだろーか?
それは、誰がどんな基準でどう判断するんだろーか?
日本のガラパゴス化の原因って何なんだろーか?
ガラパゴス化すると、どんな問題が生じるんだろーか?
日本がガラパゴス化して困ること、困らないことって何なんだろーか?
ガラパゴス化って、悪いことばかりなんだろーか?
ガラパゴス化のメリットやデメリットって何なんだろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
誰が何をどーしたら、ガラパゴス化の状態から脱却できるんだろーか?
何のために、ガラパゴス化している状態から脱却したいんだろーか?
誰のために、ガラパゴス化している状態から脱却したいんだろーか?
などなども含めて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
ガラパゴス化とは?メリットやデメリット、原因って?
(パート1)
んーと・・・
まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?
d(⌒ー⌒)
ガラパゴス化とは?
○ はてなキーワード
ガラパゴス諸島における独自の進化をとげた生体のように、技術やサービスなどが日本市場で独自の方向性へ進化し、世界標準から掛け離れてしまう現象。
ビジネスの場でしばしば使われる「パラダイス鎖国」の意味と似ている。
○ コトバンク
独自の方向で多機能・高機能化した製品やサービス、海外進出やM&Aに消極的な企業、排他的で規制の多いマーケットなど、国際標準からかけ離れている日本の産業の現状を批判的に表した新語。
大陸から隔絶された環境下で、生物が独自の進化を遂げたガラパゴス諸島(エクアドル)の生態系に重ね、2007年ごろから広く使われるようになった。
○ ニコニコ大百科
ガラパゴス化とは、閉鎖された環境で特殊進化することである。
海外でも同様の問題のある市場があるものの、多くは日本での問題として扱われる。
ガラパゴス諸島における生物世界のように、技術やサービスなどが世界標準からかけ離れて、その環境下で独自の進化を遂げるビジネスモデルのことである。
高い技術を元に作った製品であっても、それを享受するのは間近で望む国内のみで、海外で標準となっている規格から離れているために売ることができず、海外市場で海外企業にシェアで負け、国内市場という狭い範囲でしか売れない、収益性にも限界が生じる問題が大きい。
平安時代における遣唐使の廃止、江戸時代の鎖国などと同様に、国内独自の文化が醸成され、海外にはない新しい思想、デザインなどが生まれやすくなる。
短期的にはメリットは薄いものの、海外の大市場においてアイデアの行き詰まりが起きた際に、全く違う提案、情報提供をすることで、新たな大市場の活性化につながる期待もできる。
○ Weblio辞書
ガラパゴス化とは、市場が外界から隔絶された環境下で独自の発展を遂げ、その結果として世界標準の流れからかけ離れていく状態を揶揄する表現である。
ガラパゴス化、という表現の土台となっているのは、南米大陸から1000km離れた赤道直下の孤島、ガラパゴス諸島の生物である。長い間、孤島には外敵が侵入してこない状態が続いたため、多くの生物種が淘汰されずに独自の進化を遂げ、固有種となっていることが知られている。
ガラパゴス諸島の固有種は生存競争力に乏しく、19世紀になって人間とともに外来種が侵入し始めて以降、種の存続が危ぶまれている。
ガラパゴス化という言葉には、世界的な競争力を失うだけでなく、将来的には国内の市場も世界標準に取って代わられるのではないか、という含みを持っている。
携帯電話だけでなく、非接触式ICカードや地上デジタル放送なども、世界標準と日本標準との間に乖離が存在しており、ガラパゴス化していると指摘されている。
パラダイス鎖国とは?
○ はてなキーワード
自分が住んでる国や地域が住みやすくなりすぎ、外国(または他の地域)のことに興味を持つ必要がなくなってしまった状態のことである。
○ ウィキペディア
パラダイス鎖国は、「独立性の高いエリアで「快適化」が著しく進行すると、エリア外への関心を失い『鎖国』状態となって取り残される」、という警句である。
もとは携帯電話の開発競争を評してうまれた言葉であり、鎖国状態に陥るエリアとして国や地域を想定したが、組織や部署にも適用されている。
日本における生活の便利さや市場にあふれる製品の豊富さに加え、日本独特の文化や考え方を理解し提供できるのは日本であることに国民は気づいており、多くの日本人は諸外国へのあこがれも昔ほどは持たなくなってきている。
また、日本市場が規模としては世界でトップではないもののそこそこの規模を持ち、企業も日本国内をマーケットにした製品開発や新製品の提供に満足してしまい、諸外国との競争力を無視した価格が高いままの製品を送り出している。
日本国民もそれを受け入れている状況があり、外の世界に目を向けない日本人はそのようなビジネスモデルに疑問も呈さない。
これら、日本における日本人の国内向きの性向を批判的に表す言葉として、パラダイス鎖国という語が使われた。
ガラパゴス化とは?メリットやデメリット、原因って?
(パート2)
んでー・・・
次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?
( っ・ω・)っ
「ガラパゴス化」の問題
■ 「ヒーローを待っていても世界は変わらない」
外の人たちには当たり前と思っていた前提が全然通じない場合があります。
狭い世界の仲間内でたくさんのことを前提として共有した頭で外の世界へ働きかけても、なかなか外の人たちに通じる言葉が見つからず、空回りしてしまう。
その場合、得てして「外の世界は無理解だ。ひどい」となるのですが、原因はこちら側にあることも少なくない。
自分たちが前提としているものを共有していない人たちと話し合うための言葉を見つけられない、という問題です。
いわゆる「蛸壺化」、今風に言えば「ガラパゴス化」の問題です。
それは、仲間内だけでやっているときには、あまりぶつからない問いです。
みんなすぐに分かり合ってしまうから。
たまにぶつかっても「こんな無理解な人がいた。まったくまいっちゃうよね」と仲間内で癒しあって終わりです。
「問い」として成立せず、流すことができてしまう。
組織に見られる、個人や集団の行動を縛る「思い込み」
■ 「現場の「知恵」が働く チームイノベーション」
組織のなかには、個人や集団の行動を縛る「思い込み」が至るところに見られる。
外部の人間からは「思い込み」にしか見えなくても、なかにいる人たちは気づかない。
疑うことすら思いつかないほど当たり前になっている場合が多い。
もしくは、気づいていたとしても、「変えられない」という思い込みによって思考にフタをしている。
「自由に発想してみよう」といっても、こうした思い込みは随所に現れて思考の壁になっていく。
このような思い込みが強すぎると、新しいチャレンジを避ける、見通しが立たないことはせずに確実なことだけを実行する、上司からの指示だけをこなす、というふうに行動が限定的になる。
「パラダイス鎖国」に直面した日本人の姿
■ 「パラダイス鎖国」
国際競争力の低下という危機がひたひたと迫っているのに、清潔で安全な社会に住み慣れた日本人は海外に対する興味を失っているように見える。
中からも外からも、つながろうとする力が弱まり、日本は孤立しつつあるのではないか?
日本は、誰も強制していないけれど、住み心地のいい自国に自発的に閉じこもる「パラダイス鎖国」になってしまったのではないか?
かつてアメリカやヨーロッパは、日本人にとってあこがれの地であった。
海外に行く機会のある仕事は、あこがれの仕事だった。
海外旅行とは一生に一度の「夢」であった。
しかし、いまや日本人が海外に行く必要などすでにない。
アメリカでもヨーロッパでも、日本ではしなくてよいスリや置き引きの心配をさせられる。
関税が下がったり円が高くなったりして、輸入品はすっかり安くなり、わざわざ海外まで行かなくとも欲しいものには手が届く。
海外の情報はインターネットで簡単に入手できる。
それになんといっても日本はどこに言っても清潔だ。
欧米諸国ですら、清潔さでは日本にかなわないのだから、途上国に行くには相当の覚悟がいる。
その上、これまで国際テロがなかった国ですらその標的となり、海外旅行にはテロや戦争の心配まで加わってしまった。
一方、「格差社会」でお金がなくて苦しくて、どこがパラダイスだ、と異議を唱える人もいる。
「就職氷河期」で苦しんだ人たちや、それを間近で見ている人たちには閉塞感があるように思う。
「日本が住みやすくて不便を感じない」という生活感覚と、「お金がなくて苦しい」という生活実感の間に、奇妙な乖離がある。
これが「パラダイス鎖国」に直面した日本人の姿だ。
海外への憧れがなくなったのは、抗しがたい時代の流れである。
また、日本を代表する企業が新しいグローバル化の公式を見つけられないというのも、時代の流れである。
こうした状況のために企業のインセンティブ・システムが混乱をきたし、「リスクや苦労を負ってでも海外で仕事をしたい」と思う若い人が減っているとしたら、若い人たち自身を責めることはできない。
産業のコスト構造と、産業のコスト構造と、海外事業のビジネスモデルは、ガッツや根性だけで変えられるものではない。
日本は多くの外国よりもずっと、便利で清潔で暮らしやすい国になった。
商売として、海外に出るリスクと期待できる成果を評価する場合、あるいは個人としてどういう生き方をするかという場合も、「日本にいたほうがいい」となったり、あるいは最初から「海外に出る」という考えすら浮かばなかったりしたとしても、不思議ではない。
上の世代が、
「ジャパン・ブランドを守らなければならない」
「新しいグローバル化の公式を見つけなければならない」
「若者よ、海外を目指せ!」
と言いたくなるのもわかるが、叱咤激励されても当の若者は、
「なぜ、そんなことをする必要があるの?」
と答えるだろう。
それだけではインセンティブにはならない。
パラダイス鎖国状態にあると、長い目で見て問題があったとしても、いまそこそこ幸せなのだから、苦しい思いをしてまで現状を変えようと思えないものである。
誰かが危機感を訴えることに成功し、痛みを伴う改革に着手したとしても、長年にわたる体質に起因した問題がそう簡単に解決するはずがない。
現在の状況は、それなりに意味や経緯があって成立しているわけだから、変えようとすればどこかにしわ寄せがくる。
変化によって損する人が騒ぎ出し、反動による逆行が始まる。
新年にダイエットを決意するようなもので、そう簡単に生活習慣は変わらず、すぐに息切れして、下手をすれば反動で食べ過ぎてかえって太ってしまう。
かといって、現状維持を続けていれば、いずれはひずみが大きくなり、時代に遅れて恐竜化し、とりかえしがつかなくなってしまう。
日本の就職活動は、日本独特で「ガラパゴス化」している
■ ここがヘンだよ日本のシューカツ
いかに日本の就職活動が日本独特で「ガラパゴス化」しているかを再認識することになった。
まず不透明で移ろいやすい選考過程だ。
外国人留学生の多くは「そもそも日本の就活の仕組みが理解できない」と不満を漏らしている。
そもそも、大学在学中の少なくない期間を就活のためだけに振り向け、大手企業がこぞって採用活動し、学生は数十社も受ける。
企業側はキャリアや実務能力に関係なく新卒学生を大量に採用するという大きな仕組みこそ日本独自のものだ。
留学生の中には「皆が一斉にリクルートスーツを着て就活をする姿が気味が悪い」との指摘もある。
入社後のキャリアや処遇についての考え方についても日本企業と外国人留学生の食い違いが目立つ。
これは長い期間をかけて様々な職種を経験しながら育成するという日本ならではの考えの裏返しでもある。
優秀な留学生が日本の「シューカツ」に愛想をつかし、帰国してしまえば、日本企業にとっての損失にもなる。
外国人採用が増えれば増えるほど、日本企業の採用活動も変化を迫られることになる。
それこそが本当の意味での「黒船」かもしれない。
ガラパゴスの最後の宴に咲いたアダ花
■ 人手不足と騒ぐITベンダー、もういい加減にしなさい!
今、ITベンダーの経営幹部の誰に聞いても「技術者不足だ」と言う。
しかし、調査で「不足している」と答えているITベンダーは“わずか”6割にすぎない。
つまり、残りの4割のITベンダーは少なくとも「足りている」ということになる。
実は、「足りている」とするITベンダーの多くは、元請けとなるSIerなど大手ITベンダーで、「不足している」と回答したITベンダーのほとんどは下請けベンダーのはずだ。
IT業界の人なら、もうピンと来たであろう。
実は、これこそが多重下請け構造の為せるワザなのだ。
一方、多重下請け構造の中にいるITベンダーは、元請けやその下請けのITベンダーから「もっと人を出せ」と言われて人材採用に駆けずり回っている。
なんせ、無理を聞けば人月単価を上げてもらえるから、頭数を増やせば増やすほど儲かる。
だから懸命に技術者を採用しようとする。
だが、それは容易ではないから、需要に対して「正社員が不足」となるわけだ。
SIerが多重下請け構造を使って技術者不足を補おうとするのは今に始まったことではない。
好況時にはいつも「技術者が足りなくて大変だ。このままではユーザー企業や日本の競争力に悪影響が及ぶ」などと騒ぎ、外部の技術者をかき集める。
こうして技術者不足の折も供給責任を果たしたSIerは、不況になると「内製化によるコスト削減の推進」といった名目で、下請けベンダーへ発注する仕事を絞り始める。
かくしてSIerなど大手ITベンダーは、よほどのことが無い限り、不況の時期でも自社の技術者を減らすことなく耐え忍ぶことができた。
そして、下請けベンダーがそのしわ寄せを受ける。
当然、下請けのベンダーもSIerと同じようなやり方で孫請けのベンダーに押しつける。
結局のところ多重下請け構造では、リストラはSIerなどピラミッドの上部にいるベンダーではなく、その下部にいるベンダーの役割になるわけだ。
一緒に仕事をする彼らの“仲間”には、酷い状況に置かれた技術者が多数いる。
これ以上、そんな酷い状況にある技術者を増やしてどうするのか。
技術者不足は、ガラパゴスの最後の宴に咲いたアダ花である。
ガラパゴス的な終身雇用―年功序列の体制
■ 長い日本の労働時間は何が原因か
わが国の労働慣行のほとんどが、実は、1940年体制とも呼ばれる戦後の高度成長期に確立されたものである。
そして、このガラパゴス的な終身雇用―年功序列の体制の下では、ともすれば軍隊的な上意下達のシステムが出来上がり、ひたすら部下の忠誠心が試されることになりやすい。
いわば上司より先に帰ることが憚られるような空気が、自然に醸成されてしまうのである。
(いわゆる「つきあい残業」)
例えば会議から戻ってきた上司が、先に帰宅した部下に「あいつはどこへ行ったんだ?」と訝ったり、残っている部下に「遅くまでご苦労さん」と労ったりするだけで、その組織ではつきあい残業が「評価されてしまう」のである。
こういった、遅くまで残っている社員をともすれば愛でてしまう誤った不毛の精神論の罪は、極めて深いものがある。
加えて、現行の法体系の下では、法定労働時間を超えた残業には割り増し賃金が支払われるので、「つきあい残業」には、インセンティブもまた働くことになってしまう。
これでは残業時間が長くなることは当然ではないか。
そこには生産性の向上という視点の入り込む余地が、そもそもないのだ。
海外の日系企業に優秀な人材が集まらない理由
■ 海外の日系企業に優秀な人材が集まらない理由
海外の日系企業での就職活動を行ってみた。
欧州で暮らしながら、世界を股にかける大手企業で働くチャンスに期待を募らせていたのだが、面接の前に届いた質問項目を見て、気を落とすこととなった。
- 日本企業の規律を学び、実践してみたいですか?
- 顧客からのメールや電話には可能な限り早く対応しますか?
- 休暇中も仕事に責任を持てますか?
- 仕事に関連した書類を読むことに、進んで自分の時間を費やしますか?
- 顧客を楽しませるため、時々プライベートな時間を費やせますか?
「日本企業の規律」とは結局のところ、残業や休日出勤の言い換えに過ぎなかったのである。
こうした「日本企業の規律」について、現地の友人に話しを聞くと、
「休日に仕事をしたら、それ休日じゃないじゃん」
という正論が返ってきた。
身も蓋もない言い方だが、たしかに言うとおり・・・
そんな仕事に対しての考え方の違いは、面接でも感じられた。
「日本企業の規律」について、面接担当者は「こちらの人たちは終業時間になると、残務があっても帰ってしまうんです」と説明していたが、それは日本が特殊なだけであって、世界では当たり前のことだ。
怠け者であるかのようなニュアンスが含まれていたが、ビジネスにおけるルールに則って働いているにすぎない。
また、現地の人々への敬意が欠けているようにも感じられた。
もちろん、諸外国にも残業や休日出勤がないわけではないが、できるだけそれを避け、仮にどうしてもやらなければいけないのであれば、正当な対価が支払われてしかるべきだ。
それを「日本企業の規律」という言葉でコーティングし、あたかも素晴らしい文化であるかのように「学ぶつもりはありますか?」と上から目線で問われたことに、強い違和感を覚えてしまった。
労働生産性は先進国中最下位、経済成長率は30年近く低迷、そして「Karoshi」という言葉が世界で悪名を轟かせている日本が、ドヤ顔で「日本企業の規律」を押しつける根拠はいったい何なのだろうか?
決して日本経済はかつてのように優れているわけではない。
また、世界経済を席巻していたときも、それを支えていたのは急成長した人口と時間外労働だ。
「日本企業の規律」というと柔よく剛を制すような日本人の琴線に触れるイメージが湧いてしまうが、実際は労働者たちの力でゴリ押ししていたにすぎない。
まるで世界には知られていないビジネスメソッドであるかのように使われている「日本企業の規律」。
日本国内では、同じく過剰労働や人権侵害が大きな問題となっている技能実習生たちにも、似たような謳い文句が使われているが、こうした言葉遊びをやめない限りは、日本経済が再興する日は遠いだろう。
このままでは日系企業の元には優秀な人材など集まるはずもないだろう。
日本企業はその規律を誇り輸出する前に、労働者に対する正しい敬意と対価を払うべきはずだ。
「日本スゴイ」と国内だけで盛り上がっていてもしょうがない
■ 「日本スゴイ番組」にドイツから見える違和感
数年前から、やたらと「日本スゴイ」という内容のテレビ番組を見かけるようになりました。
あまり「海外でも人気!」と言いすぎると、現実と差ができてしまうんじゃないか、と心配になってきます。
観光地としての日本には高いポテンシャルがあると思います。
しかし、日本の観光地としての魅力を伝えるためには、もっと「外からの目」を客観的に認識することが必要なのではないでしょうか。
改めて外からの目で日本を見ると、日本のルールを外国人に理解してもらうための工夫が少なすぎる、日本の魅力が伝えきれていない、と思いませんか?
日本にはユニークな生活習慣やシステムがあるのに、それを楽しむ方法が外国人にちゃんと伝わっていない。
それはもったいないです。
「日本スゴイ」と国内だけで盛り上がっていてもしょうがない。
「日本を見直そう」「日本のいいところを理解しよう」という考えは理解できます。
自分の国に自信を持つことは悪いことではありません。
でもせっかくなら、それが「世界に通用するものだったらいいのにな」と思うのです。
特殊な外国人ばかり取り上げて「日本大好き」と言わせて自己満足するのではなく、
「外から日本はどう見えているのか」
「どこに需要があるのか」
を冷静に考えたほうが、日本にメリットがあるのではないでしょうか。
ドイツで日本出身者のわたしは賞賛されたか?
「日本スゴイ」と言ってもらえたか?
正直、そんなことは全然ありませんでした。
日本人だからチヤホヤしてくれる人も、日本を褒めちぎってくれる人もいません。
むしろ
「原発は大丈夫か」
「君の家族も朝から晩まで働いているのか」
と聞かれたりする。
ドイツ人からすれば、日本は極東にある遠い国、アジアの割に頑張っている国にすぎなかったのです。
この国はやはり普通で、なかなか快適な国
■ 「サービスできないドイツ人、主張できない日本人」
ドイツには、サービスという観念がない。
店員は、店の側に立った言動を為すべきだということさえ、教えられていない。
ドイツでは、一歩外を出ると、不愉快なことが山のようにある。
この国には、サービスという観念が希薄なばかりでなく、他人の気持ちを慮ろうという習慣もない。
サービス精神の基本は、他人に喜んでもらおうとすることだから、他人の気持ちを慮る習慣のないところにサービスが根づかないのは、当たり前かもしれない。
彼らは、店員が客に対して、おかしくもないのにニコニコするのは、欺瞞だと信じている。
それどころか、イライラを客にぶつけるのは、それは人間なのだから当然許されるとも思っている。
ドイツでサービス業が発達しない理由の一つは、サービス業の位置づけの低さだと思う。
伝統的にサービス業は尊敬されない職業で、サービスを受ける人は、サービスを施す人をバカにしており、サービスを施す人はバカにされているのでふて腐れている。
そして、チャンスがあれば、こんな職業から足を洗いたいと思っている。
ただ、矛盾するようだが、ドイツ人が不親切な人たちというわけでは決してない。
たとえば、道で困っている人や、気分が悪くなった人などを見ると、助けてあげようとする気持ちは日本人よりも格段に強い。
だから、ドイツと同じくらいサービスの悪い国や、さらにサービスの悪い国、あるいは、町のあちこちでしょっちゅう喧嘩の絶えない国などからやってきた人にとっては、この国はやはり普通で、それどころか、なかなか快適な国であると思う。
日本人は働くために生きているように見える
■ 「びっくり先進国ドイツ」
日本の多くの企業では、大学や高校を卒業した若者が入社するのは、ほとんど4月1日と相場が決まっている。
だがドイツには、このような特別な日はなく、入社式も存在しない。
この国では全員が日本で言う「中途採用者」だからである。
1年中常に社員が採用されたり辞めたりしているので、「××年入社の同期社員」という概念は、ほとんど存在しない。
同じ年に入社した社員が同期会を開いて、結束を確認したり、情報を交換したりするということもない。
したがって、日本のように一律の「初任給」というものもはっきり決まっていない。
ドイツでは、給料も一人ひとりばらばらである。
昇給のスピードも、社員一人ひとり異なる。
就職の細部を見ると、ドイツが契約社会であることがよくわかる。
この国ではすべての社員が、会社と労働契約を結んでおり、給与や条件などは、会社と社員が交渉で決定する。
彼らは、会社と社員が相互の権利と義務を明確にするには、契約書が不可欠と考えているのだ。
何事においても、白黒をはっきりさせたがるドイツ人らしい発想である。
社員の間で、有給休暇の日数などは同じだが、契約内容は各自の交渉に基づいて決められるので、待遇の違いは、日本よりもはるかに大きい。
すべては交渉から始まるのが、ドイツの会社生活なのである。
ドイツでは他の企業に移る人は、日本よりも多い。
とりわけ特殊な技能を持った人は、給料を引き上げるために、他の企業へ移ってより高い役職につくというケースが多く見られる。
同じ会社に勤めていては、給料が頭打ちになってしまうので、給料の額を大幅に引き上げるために他社へ移るという人は少なくない。
日本では企業を辞めると、感情的なしこりが残ることがあるが、ドイツでは問題でも起こさない限りは、はるかにドライである。
一度会社を辞めて別の企業に移ったけれども、その企業も気に入らなくて、元の企業に戻ってくるというケースも珍しくない。
失業してもただちに路頭に迷うことなく、国からの給付金で食いつないでいくことができる。
ドイツ人は世間体を気にしないので、失業者は日本ほど肩身の狭い思いをしているようには見えない。
一般的にドイツでは、不快な思いをしてまで、仕事につこうという考え方を持っている人は少ないようだ。
企業や役所に勤める人には、法律や労働協約で30日間の有給休暇が保証されている。
会社員や公務員は、ふつう週末には働かないので、丸々6週間の休みである。
残業時間を消化するための代休や、前の年に消化し切れなかった休暇まで考慮に入れると、1年の有給休暇が50日、つまり10週間近くになることも珍しくない。
課長などの管理職の場合、平社員よりもはるかに高い給料をもらっているので、6週間の休暇をすべて消化しない人が多いが、2週間の休暇を年に2回くらい取るのは当たり前である。
ドイツでは上司も含めて全員が交代で休むので、気兼ねもなく、長期休暇は当たり前になっている。
6週間は、働かなくても自動的に給料が出るのだから、休まないのは損なのである。
しかも、上司の顔色をうかがいながら休暇を申請する人は誰もいない。
30日間の休暇は、すべて取るのが当然の権利と見られており、みな堂々と休みを取る。
むしろ従業員が30日間の休暇を全て消化しないと、管理職は事務所委員会(組合に似た労働組織)から「なぜ社員を休ませないのか」とにらまれる恐れがあるので、むしろ上司は社員がきちんと休暇を取るように奨励する。
休みを取らないで働いても、「やる気がある」とか「忠誠心がある」と思ってくれる上司はいないので、意味がないのだ。
仕事だけではなく個人の生活を大事にするドイツ人にとっては、休暇はかけがえのないものなのだ。
あるドイツ人がこんなことを言った。
「あなたたち日本人は働くために生きているように見えますが、我々ドイツ人は休暇を楽しむために働いているのです」
日本に来て驚いたのは、電車で眠っている人が多いこと
■ 「生きる力をつける ドイツ流子育てのすすめ」
私は日本に来て、睡眠に関する考えの違いに驚いたものだ。
それは、「3日間続けて徹夜した」と当たり前のように言っている日本人に会ったからだ。
日本人は「睡眠なんてとらなくても、気合いで乗り越えれば大丈夫」と考えている人が多い気がする。
とくに睡眠をとれない理由が仕事だとすると、その考えはさらに強まる。
ドイツでは「徹夜した」と言うと、必ず、「どこのクラブで踊っていたんだ?」ということになる。
仕事で徹夜するという考え方がないから、そう言おうものなら、だらしない生活をしている人だと思われ、まちがっても偉いとか大変だとかは言われないのだ。
どんなに忙しい人でも、自分の部下に睡眠時間を削ってまで仕事をしろとは言わない。
人間は睡眠時間が減って疲れてくると仕事上のミスを犯しやすくなると思っているのだ。
日本のタクシーに乗って運転手さんの話を聞いたときは、いきなり車を降りたくなった。
時間シフト制で仕事をしていて、21時間続けて運転しているという。
21時間の勤務のあとは何日か休めるということだが、なぜ、毎日8時間労働にしないのだろうか。
徹夜明けで20何時間目の運転手さんの運転するタクシーで、高速を走ることを想像すると、怖くて体が震えてくる。
タクシーだけでなく、徹夜明けの医者、看護師、パイロットも怖い。
人の命を預かっている仕事は、絶対に徹夜禁止にすべきだ。
居眠りといえば、日本に来て驚いたのは、電車で眠っている人が多いことだ。
ドイツでは電車に乗りながら寝る人はまずいない。
みんな家で十分に寝ているからだ。
それと、治安の面でも、万が一スリなどがいたら危険だということで、人前では寝ないのだ。
そこも日本人とは大きく違うところだろう。
1人だけ違う意見を持つことを許さない日本の企業文化
■ なぜ日本人は世界で通用しないのか
日本の入試は中学から大学まで、答えは1つであるという前提でつくられています。
それに合わせて学校でも、答えがある問題を出して、その解き方を教えています。
そういった教育を通して「答えは1つ」と植えつけられているから、答えが出ない現実の問題に対応できない面があるのではないかと。
フランスの高校卒業試験であるバカロレアでは去年、「あなたは自由と平等、どちらが大切だと思いますか」という問題が出ました。
これはどちらを選んでもよくて、なぜ自分はそう考えたのかを論理的に説明することが求められるわけです。
日本人とフランス人のハーフの友人がフランスに転校になり、日本で解いたことのある問題がテストで出たそうです。
彼女は日本で習った通りの答えを書いたのですが、結果は0点。
彼女の母親が「うちの娘は正しいことを書いている」と抗議にいくと、先生は
「この解答には彼女の考え方がまったく入っていない」
「これでは世界に対する彼女の付加価値がゼロだ」
と説明しました。
残念ながら日本の場合は、先生が1番偉くて、生徒は知識を一方的に与えられる人になっています。
先進国に追いつく過程においてはそうした教育も効果的でしたが、日本は1990年代前半にアメリカに追いついてしまった。
知識を与えられるだけの教育では、その瞬間に、誰も絵を描けなくなってしまう。
それが「失われた20年間」につながったのかなと。
背景には1人だけ違う意見を持つことを許さない日本の企業文化があると思います。
上の意見に逆らうことができない状態じゃいい発想も出てこないし、仕事へのモチベーションも上がらないでしょう。
アメリカでは、自分の考え方と合わないと思えば転職します。
日本のように我慢しない。
ということは、日本では多くの人が自分の考えを諦めているわけです。
採用にも問題があると思います。
企業は、上の意見に服従してくれる人のほうが都合がいい。
だから「答えはいくつもある」なんて難しいことを言う人より、自分たちのカルチャーに染められるように、「とにかく頑張ります」と言う人を積極的に採ってきました。
小中学校のときから「答えはいくつもある」という教育をしていって、彼らが社会に出たときに化学反応が起きれば、新しい日本というものが見えてくるはずです。
日本はベースの教育はいいのだから、うまく組み合わせれば、ふたたび世界に羽ばたけるのではないかと思います。
タコツボ化した組織で純粋培養されれば、誰もが金太郎飴になる
■ タコツボ化した組織で純粋培養されれば当然、誰もが金太郎飴になる
日本企業のタコツボ化、「井の中の蛙」化は恐ろしいほどだ。
転職の少ない日本企業は今でもほぼ純粋培養。
タコツボ化した組織で純粋培養されれば当然、誰もが金太郎飴になる。
しかも井の中の蛙。
“外の世界”に関心が持てるはずがない。
新しい組織を設けたなら、経営者は次にタコツボを外に放り出すか(フルアウトソーシング)、中の蛙もろとも井戸を埋めてしまうか、そのどちらかに乗り出す可能性がある。
「そんなバカな」と言うあなたは、経営者の問題意識の変化を知らないだけだ。
取り得る方策は二つ。
自ら変革するか、外へ飛び出すかだ。
優秀な人材に悪い評価をつけた理由
■ 「「一体感」が会社を潰す」
ある会社に、実績、経験ともに申し分なく、即戦力として期待されていた人が中途入社してきました。
「よい人が入ってくれた」と、とても歓迎しておりました。
ところが、数ヵ月後、この優秀な社員は辞めていきました。
即戦力として期待され、その期待に応える活躍を始めたのに、なぜこの優秀な人材に悪い評価をつけたのでしょうか?
理由は簡単です。
これまで自分が築き上げてきた方法が否定され、自分の立場がなくなり、近い将来にポジションをとられると感じたのです。
実績をあげて覚えがめでたくなる前に、早々に潰しておこうと思ったというわけです。
中途入社の社員が少なく、新卒入社のプロパー社員がほとんどといった組織では、こうしたことがたびたび起こります。
中途採用だと、アカの他人です。
たとえ会社に貢献してくれそうであっても、自分の立場を脅かす可能性がある者ならば、素性と能力が多くの人に知られる前に、有無を言わさず排除してしまうのです。
これまでの自分たちのやり方とは違ったやり方を中途採用者から学んで、みんなで共有して活用していけば、組織の力が底上げされます。
もし自信があれば、それぐらいのことはできると思うのですが、「井の中の蛙」にはその自信がなかったようです。
誰かの地位を安泰にするために優秀な社員が排除され、会社は現在もリスクにさらされ続けているというわけです。
多くのヒット商品はガラパゴス的な土壌から生まれた
■ ガラパゴス日本の文化や技術が世界標準を目指すべきでない理由
「ガラパゴス」という比喩は、生物学者のダーウィンが『種の起源』を著すための調査地となったガラパゴス諸島から来ている。
ここは他の陸地からかけ離れた場所にあり、生物はここ特有の環境に適応するために、世界の他の場所とは異なった進化過程を経てきたというのがダーウィンの主張だった。
日本の産業が快進撃を続けていた頃、多くのヒット商品はガラパゴス的な土壌から生まれた。
コンパクトで故障が少なく、細かいところにまで手が届く、そういった商品は基本的に国際的なデマンドではなく、日本の国内的デマンドから開発された。
ウォークマンや小型車はその典型だ。
それは、米国をはじめとする世界から認められ、日本製品のステイタス向上に役立った。
ここで重要なのは、製品開発は「ガラパゴス的土壌」で行われ、それが「世界で認められる」ことで、初めて(世界的な)マーケティング価値を見出していたことだ。
日本製品のガラパゴス化は問題視されることが多い。
だが、技術の研鑽と革新はむしろガラパゴス的環境から生まれる。
日本のガラパゴス的土壌から生まれる技術には、まだまだ有望なものが多い。
問題はマーケティングのほうにある。
世界的なマーケティングは日本人にとって苦手分野だ。
日本のガラパゴスから出た素晴らしい技術や製品を、適切に「評価」し、世界市場の可能性を示すのは日本人ではない。
いつでも外国人だった。
今、日本人は自らの「ガラパゴス化」を修正して、世界に通用する製品を作ろうとしている。
そのときに「世界でウケる要素は何か」を考えすぎるあまり、失敗しているケースが多いのではないだろうか。
もともと、日本人は評価が苦手だ。
それは文化的、心理的、教育環境的な背景が複合的に作用して引き起こされている。
端的に言えば、自己を定義するときに、他者との比較と差異化に焦点を当てる文化的土壌がない。
さらに、そのような文化的背景のため、自己肯定を含む「適切な自己評価」の訓練を受ける教育環境があまりにも少ない。
したがって「他者評価」もうまくできない。
その結果、評価することそのものを好まないようになってしまうのだ。
評価しなくてはならない場合には、いきすぎた批判や単なる賞賛に終始しがちになる。
批判を受け取る方も、人格攻撃とみなして、落ち込んだり逆切れしたりと、感情的反応になることが多い。
製品についても同様の傾向がある。
マーケティングの観点から、建設的に製品評価するケースが非常に少ないように思う。
この状態から脱してうまく「評価」を機能させることが、これからの日本には必要となるだろう。
しかし、だからといって製品開発やアイディアの環境を無理に「脱ガラパゴス」しなくてもよいのではないだろうか。
「桃源郷」に甘い期待を寄せる前に、現実を見つめなおしてみませんか
■ 「どうする? 日本企業」
このままでは日本人の数が減っていくことは間違いありません。
このような認識が広まるにつれで、一種のグローバル信仰が急速な広がりを見せています。
「国内の市場は縮む一方だから、事業をグローバルに展開しない限り、日本企業に明日はない」というわけです。
この手の議論に理はあるのでしょうか。
もちろん、主力事業を海外に展開する国際化は経営戦略の有力な選択肢ですから、私もそれを頭から否定するつもりはありません。
問題としているのは、「何のために?」という動機の部分です。
「国内は成長余力がない。ゆえに新興国に打って出る」という立論は、理に適っているように見えますが、実は日本企業の自己都合に過ぎません。
「侵攻」される側の視点が入っていないため、どう見ても動機が正しくないのです。
新興国の側から事態を眺めてみるとどう映るのでしょうか。
日本は外国企業に門戸を開く一方で、あの手この手を繰り出して自国企業の防衛に努めました。
そして、望外の成功を収めています。
実際に調べてみると、日本に来て期待どおりの成果をあげた外国企業など、数えるほどもないのです。
自らが新興国であったときには外国企業の「侵攻」を見事に阻止して自国企業を守り抜いた国が、次は外国に「侵攻」して成長を続けようと目論むのは、いくら何でも身勝手過ぎると思いませんか。
そもそも、そこまで虫がいい目論見を新興国がすんなり許してくれるのでしょうか。
海の向こうの「桃源郷」に甘い期待を寄せる前に、現実を見つめなおしてみませんか。
自由化は、新興国にとって諸刃の剣です。
競争力のない自国企業を保護して時間を稼ぐには、自由化を遅らせるに限ります。
しかし、自由化を進めない限り、競争力のある自国企業に海外進出のチャンスを与えることができません。
だから、新興国はオモテとウラを使い分けて、少しでも有利にコトを運ぼうと画策するわけです。
そのやり方を教えたのが他ならぬ日本である以上、私たちは後続の新興国に対して文句を言える立場にありません。
日本が直面している問題の本質
■ 「日本の競争戦略」
日本が直面している問題の本質は、日本に浸透した、競争に対する考え方にある。
競争に対する日本型アプローチは、市場シェアの消失だけでなく、慢性的に低い収益性を生んだ。
端的に言ってしまえば、オペレーション効率のみによる競争の犠牲となったのである。
競争に対する日本型アプローチには、より深刻な問題が内在する。
ベスト・プラクティスを脇目もふらず徹底的に追求することによって、産業内のすべての競争業者が同じ次元で競い合うという、競争の収斂という現象を生み出すのである。
ベスト・プラクティスは、早晩ライバルによって模倣されてしまうものである。
最も一般的なオペレーションのカイゼン、たとえば汎用性の高い経営手法、プロセス技術や投入資源の改善等は、最も早く他社に普及する。
日本企業は、品質とコストを同時に改善するというオペレーション効率の視点からのみ競争をとらえているため、競争において持続的な成功を収めることを自ら極めて難しいものにしてしまっている。
ベンチマーキングを実施すればするほど、企業は似通ってくるのだ。
もしも、すべての企業が似たり寄ったりの価値しか提供しなかったとすれば、顧客は価格に基づいた選択をせざるを得なくなる。
これは必然的に価格水準を引き下げ、利益を消し去ってしまう。
日本企業は独自の戦略を持っていない。
戦略を持っている日本企業は稀である。
日本政府は、競争原理の果たす役割を疑い、国家の生産性と繁栄を妨げるような干渉をする傾向にある。
日本企業が抱える問題も、競争に対する彼らのアプローチの仕方に深く根ざしている。
日本企業は間違ったモデルを手本にしているために、自らの利益を損なうような競争に従事してしまっている。
これまでの場当たり的な応急処置は、今後も効果を上げないことは明白である。
日本企業は、何よりもまず従来の考え方や自らの行動を大きく転換する必要がある。
数多くの日本企業が、自己再生のために積極的な努力を払い始めたことはよい兆候である。
しかし、今のところ日本企業の自己変革努力の焦点は、コスト削減や製品ラインの絞り込み、インセンティブの修正、ガバナンスの拡大等にあてられている。
日本企業の競争方法や経営手法は、多くの点で転換が必要である。
コスト削減だけでは、成功はおぼつかない。
経営目標を再定義した上で、競争優位をどのように創造し、それを維持するのかについて、認識を新たにすることが必要なのである。
日本に欠けているものは意欲ではなく、ビジョンと方向性である。
日本は競争していける。
しかし、真の問題はむしろ、日本が競争する道を選択するのかどうかということである。
ガラパゴス化とは?メリットやデメリット、原因って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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