「出る杭は打たれるって何だろ~? (;´д`) 」
「出る杭を打つ組織と打たない組織の違いって何だろ~? ( ̄▽ ̄;) 」
「うちの会社って、出る杭は打たれるの典型とも言える組織なんです・・・ (;´д⊂) 」
「出る杭は打たれるのが常識って感じの企業風土になっちゃっているからなのか、協調性はあるものの、主体的に考えて行動しようとしてくれないし、そんな組織の改革をしようとしてもなかなか進まないし・・・ (´;ω;`) 」
「出る杭は打たれる組織の状態から脱却するいい方法ってなーんかないかな~???やっぱもっと教育した方がいいのかな~??? (;´Д`)ノ 」
「出る杭は打たれるじゃなく、出ても打たれない杭や打たれても打たれてもヘコたれない杭がいっぱいある組織にするため、オススメの方法って何かないかな~??? ヽ(;▽;)ノ 」
などなど・・・
「経営理念・ビジョン・経営計画等の作成」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「組織力の強化や向上」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」、「自律型人材育成」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
このような切実な声をお聞きすることもあるんですが・・・
(;´・ω・`)
んでもって・・・
いろんな意味で、考えさせられるコトもあるんですけど・・・
ンーン (( ̄_ ̄*)(* ̄_ ̄)) ンーン
それに一見、全然関係ないように思えるかもしれないけど、コレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので・・・
そもそもの話、「出る杭は打たれる」って、何だろーか?
「出る杭は打たれる」って、どーゆーことなんだろーか?
どんな組織だったら、「出る杭は打たれる」状態になっちゃうんだろーか?
どんな組織なら、「出る杭は打たれる」状態にはならないんだろーか?
何が原因で、「出る杭は打たれる」状態になっちゃうんだろーか?
どーしたら、「出る杭は打たれる」状態にはならないんだろーか?
「出る杭は打たれる」組織のメリットやデメリットって何だろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
誰が杭を打つんだろーか?
誰が杭を打たれるんだろーか?
何のために、杭を打つんだろーか?
誰のために、杭を打つんだろーか?
などなども含めて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
出る杭は打たれるとは?出る杭を打つ組織と打たない組織の違いって何だろう?(パート1)
んーと・・・、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、例えばこんなのからまずは考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
「出る杭は打たれる」とは?
○ 故事ことわざ辞典
出る杭は打たれるとは、頭角を現す人は、とかく人から憎まれたりねたまれたりすることのたとえ。
また、出すぎた振る舞いをすると非難されて制裁を受けることのたとえ。
○ コトバンク
才能・手腕があってぬきんでている人は、とかく人から憎まれる。
さし出たことをする者は、人から非難され、制裁を受ける。
○ アンサイクロペディア
出る杭は打たれるとは、多数派が少数派を迫害するためのスローガンである。
「出る杭は打たれる」は、「目立つ人は憎まれる」「周りに合わせないと嫌われる」と云う意味を持つ諺から派生したものであり、個人を殺して周囲に合わせようとする日本人の性格を一言で表している。
これは、彼らが人生を生きていく上でのスローガンであり、プロパガンダでもある。
「出る杭は打たれる」というスローガンの起源は、日本に稲作が伝来したころにまで遡る。
当時の日本では、集団で稲を作るため「周りに合わせないと嫌われる」風潮があり、田を区切るために使われた馴染み深い「杭」を使ってそれを表現したものと考えられる。
そんなこんなで「出る杭は打たれる」は農民の間に普及し、それと同時に打杭主義も浸透した。
第二次世界大戦真っ只中の大日本帝国では、アメリカとの敗戦が濃厚となると、国民が戦争に対し不安を抱くようになっていた。
そんな国民感情を抑えて、何としてでも国民を戦争に導き、士気を上げようと考えていた首相は、
「ぜいたくは敵だ」
「欲しがりません勝つまでは」
に続く標語として、「出る杭は打たれる」を採用することを決定した。
しかし、日本の敗戦によりそれはなかったことになってしまった。
戦後、GHQに統治された後も、打杭主義は広まっていった。
これは、GHQが「今は平和の時代だ。戦争をしようなんて言う人は、出る杭として打たれる」と逆活用したためである。
「出る杭は打たれる」という言葉は、時を越えて受け継がれている。
また現代でも、中国や北朝鮮などの共産主義から脱出できないでいる国では、よく働く者ほど損をする。
これも一つの「出る杭は打たれる」である。
打杭主義者の特徴は、ごく普通の人々であり、他人から好かれる人などである。
彼らの口癖は、「出る杭は打たれる」以外にも、「KY」「みんなやってます」などがある。
そして、打杭主義者のもうひとつの大きな特徴が、「出る杭は打たれる」と連呼するのに自分は打たずに誰かが打ってくれることを待つだけということである。
出る杭は打たれるとは?出る杭を打つ組織と打たない組織の違いって何だろう?(パート2)
で・・・
次に、例えばこんなのからも考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・。)ノ
「出る杭は打たれる」という集団指向の強い社会
■ 「日本の競争戦略」
日本が根本的な変革を実施できるかどうかについては、疑問を持つ向きが日本の国内外に多数存在する。
日本は伝統を重んじる国であり、安定を尊ぶ国である。
しかし同時に、国家の将来を左右する事態に直面した際には、驚くべき自己変革能力を発揮する国でもある。
今日我々の知る日本は、第二次世界大戦後の荒廃の中から、志を持った人々の努力によって築き上げられてきたものである。
この努力が成功したのは、最善のアイデアがあればその出所を問わずに利用し、自国の独自の長所をそのアイデアに応用する柔軟性にあった。
過去、危機的状況に直面した際、日本には深刻な危機感が存在していた。
今日も危機感は存在するものの、以前のような強いものではないように思われる。
今日の危機を乗り越えるために必要とされるものは、政府の政策における抜本的変更は言うまでもなく、日本企業のビジネスに対する考え方、行動における大幅な変革である。
文化は最も変えることが難しく、日本の変革の障害となるものは文化的要素である。
「出る杭は打たれる」という集団指向の強い社会は、新しい経済モデルとは相容れないというのが、その論拠である。
しかし、日本の多くの経済的文化は、学習されたものである。
それは、現在経済のシステムに組み込まれた、様々なインセンティブや規則から生まれたものである。
今日、日本では、恐怖感からと必要性に迫られた変革が断片的に起こっている。
個々の取り組みは、国際的商習慣を採り入れることや、明らかに支障をきたしている事項に対処することを目的に行われている。
それらは対症療法にすぎない。
いまだに欠けているものは、日本が現在直面している困難の原因を包括的に理解し、日本独自の解決策を打ち出すことである。
その戦略は、競争に対する過去のアプローチの長所と限界に対する深い理解に基づくものでなければならない。
また、その戦略を支えるものとして、グローバル経済における政府と企業の役割について新しく、かつ、より洗練された考え方が必要である。
日本の指導者は、日本の独自の新しい戦略を策定し、それを具現化する責任と同時に好機をその手に握っているのである。
過去の転換点においてそうであったように、いったん日本人の心構えが変われば、日本という国は急速に変貌を遂げる潜在能力を備えた国なのである。
今こそ、新しい戦略に取り組むときである。
日本の組織では、「組織の和を乱すおせっかいな人」は疎まれる
■ 「採用基準」
リーダーシップという概念ほど、欧米と日本での理解のされ方が異なる概念も珍しいでしょう。
そのあまりの違いから、日本には文化的にリーダーシップという概念がそぐわないのではないかと思わされるほどです。
日本では時にビジネスの現場でさえ、成果より組織の和が優先されることがあります。
特に大きな組織には、他部署が決めた方針にむやみに口を出さない、という暗黙のルールがあります。
たとえ失敗してもその部門の人が責任をとるのだから、部外者の自分たちがあれこれ言うのはよくない、と考える人がいるのです。
しかし本来であれば、部署は違っても、その企業全体の売上や利益を最大化するという成果目標は、全社員が共有しているはずです。
みんながその目標を共有しており、何よりもその達成を重要だと考え、そのことにこだわっていれば、たとえ他部署の判断であっても、おかしいと思うことには「考え直したほうがいいのでは?」と主張すべきです。
しかし多くの場合は「そんなことをしたら角が立つ」という理由で、他部署の決定には(陰で不満や不安を口にすることはあっても)表立っては反対意見を言わない人がたくさんいます。
もちろん、”空気を読まず”に他部署の案件に関してもどんどん口出しする人もいます。
他部署の案件だからと黙る人は事なかれ主義であり、後者こそがリーダーシップを発揮しようとする人です。
その理由は唯一
「自分は、この企業の利益の最大化という成果の達成のために、誰に命令されなくても、必要なことをやるべき責務がある」
と理解しているからです。
しかし日本の組織では、こういった人は往々にして「組織の和を乱すおせっかいな人」と見なされ、組織全体から疎まれます。
他部署の判断に口を出さない人たちは、組織の和や組織の秩序を、ビジネス上の利益最大化という成果目標より優先しています。
こういった職場では、リーダーは必要とされません。
全員が空気を読んで、「他部署のことは他部署の人に任せておこう」という思考停止を選択するからです。
問題が起こっていても見て見ないふりをし、衝突が起こりそうになれば全員が少しずつ譲り合って衝突を避けます。
組織の多くの人々は、受身でいるように習慣づけられている
■ 「組織を変える「仕掛け」」
多くの企業は、新人採用時には、主体性の高い人を採ろうとしていると思います。
しかし、「うちの社員は主体性が低くて」という声をよく聞きます。
これは、採用プロセスに問題があるか、入社後にメンバーの主体性を低めてしまっているかのどちらかでしょう。
新入社員は、最初は跳び上がろうと試みますが、出る杭は打たれる経験を繰り返すうちに、跳び上がっても大丈夫な高さを身体で学習してしまうのではないでしょうか。
だから、中堅になって「思い切って跳べ」といわれても、無理なのです。
現在、組織の多くの人々は、受身でいるように習慣づけられていると思います。
学校の教育でも、企業でも「このようにやりなさい」という枠組みがあって、その中で主体性を発揮して頑張れる人がいい成績をとるという図式だからです。
官僚主義や大企業病が蔓延する組織
■ 「なぜ社員はやる気をなくしているのか」
人は、そもそも完全無欠な存在ではない。
誰でも弱みや弱点を持っている。
生身の人間はいかに立派な人間であっても弱点を持っているのだが、それがまた人間らしいと言われる所以でもある。
だが、固定した理想像を前提とした人間観を唱えるようになると、中心になって唱えている人たちは、いつの間にか自分があたかもその理想像の申し子であるかのようにふるまいはじめる。
このような環境のもとでは、中身より形式ばかりを重んじる精神論が横行しやすい。
その結果、権威主義があらゆるところにはびこっていく。
これを温床に、官僚主義や大企業病が組織に蔓延していくのである。
引き算の人間観で人を判断すると、どうしてもまず欠点からその人を見がちである。
そうなると、表向き欠点の少なく見える、組織の論理に過剰適合した無難な人物の評価が、相対的に高まる傾向が強まる。
毒にも薬にもならないような無難な人間、言い換えれば「善意の抵抗勢力」が評価されるから、権威主義だってはびこるのだ。
問題意識が強かったり、事実に対して誠実であったりして、おかしいと思うことはおかしいと言ってしまうような人物は、多くの場合ポテンシャルがある。
ただ、こういう人物はあまり器用でなかったり、自分に正直すぎて「賢さ」がなかったりすることが多く、欠点が目立ちやすい。
賢く立ち回ることが苦手な人が多いのだ。
だから、引き算の人間観から見ると評価は低くなる。
退化を促進する価値観がはびこる組織から、この種の人材が次第にしなくなってしまうのには、このような理由があるのだ。
足し算の人間観を持つ人は、あるがままの人間をまずそのまま認めて、その人の「個性」を見つけ出そうと努力する。
既成概念にとらわれず、持ち味を見つけていこうとする。
足りない点を指摘することからはじめるのではなく、まず受け入れて、受け止めて、優れた特性を引き出そうとするのである。
変革に不可欠な人材は、「足し算の人間観」で高い評価を与えられる人材だ。
誰も出る杭にはなろうとしない組織
■ 「職場は感情で変わる」
一見、お互いに支え合い、認め合っている良い組織に思えます。
日々の仕事を淡々とこなしながらも、お互いによくコミュニケーションはしているし、公私ともにお互いに相談し合える。
ある意味、のんびりとした仲の良い職場というところが多い。
ところが、将来に対する期待感、それに向けて自分から行動を起こしていく、組織全体が同じ目標に向かっている感覚もほとんどない。
競争する必要もないし、退出を迫られることもない。
だから、誰も出る杭にはなろうとしない。
なろうとすると、「まあまあ、そこまでやらなくても」と言われる。
業務内容が大きく変化することなく、日常的な処理業務中心の職場、大企業の管理部門や役所などで手続きを重視している職場、事業が成熟期に入っているが、現状のままでもある程度の利益が確保される職場などで、よく見られるケースです。
こうした職場の問題は何か。
それは、変化に弱いことです。
誰かがやってくれる、待てばどうにかなる。
そういう組織感情が広がっていくと、誰もその変化を捉え、自分から前向きな動きをとろうとしなくなる。
いざという時に、誰も前に出ない、みんなで沈んでいってしまう組織になりかねません。
言わなければならないことを言わない組織には、膿がたまっていく
■ 「「一体感」が会社を潰す」
必要以上に摩擦を回避する組織では、意見が対立しないように運営され、一つの結論を導き出すこともなければ、何が決まったのかもハッキリしません。
「玉虫色の結論」を雰囲気で決めるといったお察しの文化なのです。
都合の悪いことは棚上げ、先送りですから、誰も責任を問われませんし、誰も痛みを感じることはありません。
ある意味、あたたかい組織ですが、いつか必ず、みんなで沈没します。
こういう組織における処世術は、目立ちすぎない、余計なことは言わない、言われたことだけやる、といった「事なかれ主義」です。
会議でも議論はご法度です。
摩擦を避けたことによって失われてしまったことが多数あるのも忘れてはなりません。
何よりも摩擦は組織の問題を明らかにしてくれます。
逆に、摩擦を避けようとすると問題は隠されてしまいます。
言わなければならないことを言わない組織には、結局、膿がたまっていきます。
膿は勝手に消えてくれたりしません。
居心地のよさを優先して、自分たちで膿を取り除かなければ、膿だらけの組織になってしまうのは自明の理です。
なぜ、出る杭は打たれるのか
■ 「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
日本企業では建前はともかく、本音では企業利益のためにウソをついたり、隠し通すという悪しき集団主義は根強く残っている。
不祥事の対応などでの、こうしたロイヤリティの高さは依然として求められているからである。
まさしく、企業のために自らの良心を殺す場面はあっても、その企業を告発することなどは考えられない風土が依然としてある。
こうした仲間意識が強い集団は、凝集性の高い集団となって、メンバーが互いにその集団に深く関与しすぎることになってしまいがちである。
そのために、メンバーは集団から仲間はずれにされたり、自分への支持を失うことを極端に恐れるようになる。
この時、メンバーの関心は、自分がことを荒立てて騒ぎにするよりも、メンバー同士の関係を重視する方向に目が向けられてしまうのである。
逆の言い方をすれば、まさに内部告発者は、こうした集団主義の同調圧力をはねのけて告発を行わなければならないことになる。
そこには、まさに出る杭として打たれるという状況が生まれるのだと言ってもいい。
それでは、なぜ、出る杭は打たれるのか、その理由は、組織を危険にさらす危険性が高まることを恐れる意識があり、内部告発者は組織的なスタンダード(ルール)を破壊すると見なされるからである。
「出る杭は打たれる」は、「同じ」でない人間は「はずされる」こと
■ 「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」
「共通の時間意識」とは、「みんな同じ時間を生きていると考えている」ということである。
ここでいう時間意識とは、他人にも自分と同じ時間が流れていると考えるという、主観的で内的な時間意識のことである。
この場合に大事なのは、そこには「個々の」時間が流れているのではなく、「同じ」時間が流れているということである。
この「共通の時間意識」のもとでは、「個人の時間意識」が存在しない。
つまり、各個人が別々の時間を生きているという時間意識が存在しないのである。
つぎに、「共通の時間意識」のもとでは、個人が存在しないために、「人間平等主義」が派生する。
これは、「世間」のなかでは「みんな同じ」であると考えるために、個々に能力の差があっても、お互いそれを認めようとしないということである。
最近のKYという言葉は「空気読め(ない)」という意味だが、「空気」とは「世間」が流動化したものだという。
「空気」を通じての同調圧力が生じるのは、「世間」にこの「共通の時間意識」というルールがあり、そこに個人が存在せず、「みんな同じ」でなければならないと考えるからである。
また「出る杭は打たれる」という格言があるが、これは「世間」のなかで「目立つ」人間は、つまり他のものと「同じ」でない人間は、 <世間 – 外 – 存在> として「世間」から「はずされる」ということだ。
日本の「共通の時間意識」に対して、西欧社会は、「個人の時間意識」が作動している。
つまり、個人の「自由」が尊重される。
「共通の時間意識」のもっともわかりやすい例は、
「あの時はありがとうございました」(過去)
「お世話になっております」(現在)
「今後ともよろしくお願いします」(未来)
という、「世間」ではごく日常的な挨拶である。
これらは西欧語に訳すことができない。
つまり、西欧社会にはない。
外国人に無理やり訳して使うと、ヘンに思われるはずだ。
これらの挨拶は、 <世間 – 内 – 存在> であることを確認するための、必須の手続きである。
つまり、同じ「世間」を生きているということの相互の確認である。
ありがたく思っていなくても、お世話になっていてもいなくても、よろしくと思っていてもいなくても、これらの挨拶は、過去 – 現在 – 未来にわたって、仕事をする上での枕詞として使われる。
現在の「世間」においても、「共通の時間意識」は、2つ目のルールとしての「身分制」と一見矛盾するように見えながら、両者は併存している。
そして、この矛盾的な構造であるがゆえに、外国にはない、日本独特の「妬み」の意識、「妬み」の構造が生まれるのだ。
「世間」には「身分制」と「共通の時間意識」というルールがあるために、独特の「妬み」の意識が生まれる。
「世間」では、けっして「目立って」はならないのだ。
「世間」には「共通の時間意識」があり、そこでは個人が不在であり、人間平等主義が作動している。
個人がいないために、自他の区別がつきにくく、お互い距離のとれた関係にならず、やたらに「つながってなくちゃなんない」と思う。
人間平等主義があるために、「出る杭は打たれる」ので、でしゃばらないようにつねに他人に「配慮」をしていなければならない。
そのために、人間関係に軋轢や対立があっても、それが表面化しないように「優しい関係」を保っていなければならない。
「世間体」というのは、どこかに実体として存在するわけではなく、各人の頭のなかに存在する共同幻想にすぎない。
「世間」のウチとソトを往還するということは、心のあり方の転換のことなのである。
別の言い方をすれば、それは、「贈与・互酬の関係」も「身分制」も「共通の時間意識」も「呪術性」も対象化し、全部わかった上で、「単独者」「独身者」として生きるということである。
たしかに、「世間」ではつねに「出る杭は打たれる」。
しかし不思議なことに「世間」との「あいだ」では、「出すぎた杭は打たれない」のである。
もちろん「出すぎた」ところにゆきつくまでは、杭は徹底的に「打たれる」。
しかしある瞬間に、 <世間 – 間 – 存在> となりえたときに、「私」になることができる。
出る杭は打たれるとは?出る杭を打つ組織と打たない組織の違いって何だろう?(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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