「人間関係って何だろ~? ( ̄ー ̄?)」
「会社や職場の人間関係が良いとか悪いとかって、どーゆーことなんだろ~? (´ε`;) 」
「うちの会社って人間関係はそれほど悪い方とは思わないんだけど、何をどう良くすれば、人間関係がもっと良くなるんだろ~? ( ̄‥ ̄;) 」
「何がどう悪かったら、人間関係が悪い会社や職場って評価されちゃうんだろ~? (; ̄ェ ̄)」
「会社や職場の人間関係が良いメリットって何だろ~? (・_・;) 」
「やっぱ人間関係が良い会社や職場の方が優秀な人材を採用しやすいんだろーか?優秀な人材に辞められずに済むんだろーか? (;・∀・)」
「人間関係を良くすることとと、組織力の強化や向上って何か関係するんだろーか? (´-ω-`) 」
「会社や職場の人間関係が良ければ、付加価値が向上して生産性も向上して売上や利益も上がるんだろーか? p(´⌒`q) 」
「会社や職場の人間関係を良くするには、何をどーしたらいいんだろ~? ( ̄∧ ̄ ) 」
「会社や職場の人間関係を良くするいい方法って、何かないものなのかな~? 。゚(゚^o^゚)゚。 」
などなど、このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
「三方よしの経営相談」、「組織人事戦略(戦略的な組織づくり)」、「組織力の強化や向上」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
こーゆー疑問って意外と大事
なのかも~???
(〃⌒∇⌒)ゞ
なーんて感じることもあるのと、それにコレってもしかしたら・・・













などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じることもあるので・・・
そもそもの話、人間関係って何なんだろーか?
会社や職場の人間関係って、いったい何なんだろーか?
いったい何が、会社や職場の人間関係をつくっているんだろーか?
いったい誰が、会社や職場の人間関係をつくっているんだろーか?
何がどう良くなれば、会社や職場の人間関係も良くなるんだろーか?
何がどう悪くなれば、会社や職場の人間関係も悪くなっちゃうんだろーか?
会社や職場の人間関係がいいって、どーゆーことなんだろーか?
会社や職場の人間関係が悪いって、どーゆーことなんだろーか?
会社や職場の人間関係がいいとか悪いとかって、誰がどんな基準でどう判断するんだろーか?
会社や職場の人間関係がいいメリットって、いったい何なんだろーか?
会社や職場の人間関係が悪いデメリットって、いったい何なんだろーか?
それは、誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
会社や職場の人間関係と、組織力の強化や向上とはどう関係するんだろーか?
会社や職場の人間関係と、優秀な人材を採用することとか、優秀な人材が辞めることとはどう関係するんだろーか?
会社や職場の人間関係と、売上や利益の向上とか、生産性の向上とかとはどう関係するんだろーか?
会社や職場の人間関係と、付加価値の向上とはどう関係するんだろーか?
何のために、会社や職場の人間関係を良くしたいんだろーか?
誰のために、会社や職場の人間関係を良くしたいんだろーか?
などなども含めて、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
人間関係とは?会社や職場の人間関係と組織力との関係って?
(パート1)
んーと・・・
まずは、例えばこんなのから考えてみるのはどーでしょう?
( ´ ▽ ` )ノ
人間関係が苦手な人は距離のとり方がわからなくて悩んでいる
■ 「「上から目線」の構造」
人間関係が苦手という人たちは、みんな人との距離のとり方がわからなくて悩んでいる。
相手との関係に応じて、それにふさわしい距離をとるのが人間関係のルールだが、その距離感がうまくつかめないのである。
いわば対人距離失調症である。
これはまさにヤマアラシ・ジレンマ状況といえる。
フロイトによれば、夫婦関係、友情、親子関係など親密な感情を伴う二者関係は、ほとんどすべて拒絶し敵対するような感情的なしこりを含んでいる。
同僚同士で争ったり、部下が幹部に不満を持ったりするのも、関係が近いからだという。
さらに、それは個人間のみならず、結婚によって結ばれた2つの家族、隣接した2つの都市や国家、近縁な民族など、集団間にも当てはまり、近ければ近いほど克服しがたい反感が生じるという。
心理的距離の近い個人や集団同士の間に、なぜこのような葛藤が生じるのか。
フロイトはそれを自己愛で説明する。
身近な人に対するあらわな反感や反発には、自己に対する愛情、つまり自己愛の表れが認められるという。
距離が近くなればなるほど、その相手が自己愛の対象となるため、相手と自分の些細な違いにも敏感になり、感受性の違いや価値観の違い、行動傾向の違いや趣味の違いなど、お互いの違いに対する寛容度が低下し、攻撃性が生じるというわけである。
確かにそうだ。
どうでもよい相手に対しては許せることでも、好きな相手だと許せない。
単なる同僚に無視されてもすぐに気持ちを切り替えられても、恋人に無視されるとどうにも腹が立ってくる。
心理的距離が近いほど、相手が自分の思い通りに動かないとき、こちらの思いをくみ取ってくれないときに、失意の気持ちや攻撃的な感情が湧いてくる。
それは、ヤマアラシが自分のトゲで身近な相手を刺してしまうことを、自己愛のトゲで身近な相手を刺してしまうことをさすものとも言える。
ちょっと親しくなると、他人の自己愛のトゲがこちらに向けて突き出してくる。
うっかりすると傷を負う。
そこらじゅうがハリのむしろだから気をつけないと、そんなふうに感じたら、怖くて外に出られなくなってしまうに違いない。
反対に、ついつい自分の自己愛のトゲで大切な人を刺して傷つけてしまうといった経験を繰り返した人は、自分のトゲで人を刺すのが怖くて、人に近づくことができなくなってしまうだろう。
友達にも気を使うという最近の若者に顕著に見られる傾向には、ヤマアラシ・ジレンマが関係しているのかもしれない。
チンパンジーの鏡像実験は、私たちの自己理解に関して、有益なヒントを与えてくれる。
私たちは、いろんな人とのやりとりを通して、「他の人から見ると、自分はこんなふうに見えるんだ」ということがわかるようになる。
人間関係が希薄化すると、他人を鏡とする機会が少なくなる。
ゆえに、自分がわからなくなるのである。
人間関係の希薄化によって、他人が得たいの知れない存在になり、「他人が怖い、他人がわからない」という心理が広まった。
それと同時に、アイデンティティの拡散、つまり「自分がわからない」という心理が蔓延してきた。
じつは、この「他人が怖い、他人がわからない」心理と「自分がわからない」心理は、表裏一体をなすものなのである。
引きこもりの増加の背景にもこの両者の心理があると考えられる。
人間関係の濃密化という「つながってなくちゃなんない症候群」
■ 「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」
いまの子どもたちは小学校高学年ぐらいから群れていないと不安で、そこにしか生きる世界がないという。
そこでは、お互い縛り縛られあって、やれ携帯だメールだといって「つながってなくちゃなんない症候群」の状態にあるという。
現代のいじめは「優しい関係」の産物であり、子どもたちは自らの存在を安泰にするために、関係性の中ですくみ合い、その反動として集団規範への過剰同調を強いられているという。
つまり「学校では、ほとんど毎日、友だちに気を遣ってなくちゃ生きていけない」という。
「親密圏における人間関係の濃密化」といわれているものが、この「つながってなくちゃなんない症候群」や「優しい関係」である。
よーくみてみると、ここにある人間関係とは、大人の「世間」における人間関係とまったく同じであることがわかる。
すなわち、「世間」には「共通の時間意識」があり、そこでは個人が不在であり、人間平等主義が作動している。
個人がいないために、自他の区別がつきにくく、お互い距離のとれた関係にならず、やたらに「つながってなくちゃなんない」と思う。
人間平等主義があるために、「出る杭は打たれる」ので、でしゃばらないようにつねに他人に「配慮」をしていなければならない。
そのために、人間関係に軋轢や対立があっても、それが表面化しないように「優しい関係」を保っていなければならない。
その背景には、特にここ10年ぐらいの新自由主義の台頭による、「世間」のウチにおけるルール強化と、「世間」のソトへの排除拡大があった。
そしてそれは、大人の「世間」において生まれるようなストレスを、子どもも抱えることになったことを意味する。
だからまわりから「仲がいい」とみなされていたとしても、それは「つながってなくちゃなんない症候群」の中で「優しい関係」を強いられているだけなのかもしれない、と考える必要がある。
つまり「プチ世間」の中では、人間関係における軋轢や対立が表面化することが最も嫌われるから、表面上「仲がいい」ことを装わなければならない。
いつも友だちに気を遣っていなければならないような、ひどく疲れる生活を日常的に強いられてれば、突如関係を全部ぶち壊してやるという気分になるのも、わかるような気がする。
人間関係の希薄さから生じている仮想的有能感
■ 「学ぶ意欲を育てる人間関係づくり ― 動機づけの教育心理学」
好ましくない人間関係とは相互に葛藤が生じやすく、極端な場合は憎しみが生じる人間関係である。
そのような緊張した人間関係が存在するところで正の動機づけが生まれるとは予想できない。
端的に言えば、マイナスの人間関係でストレスを感じる分、学習の動機づけに注がれるエネルギーは減少する。
マイナスの人間関係が発生するのを極端に恐れて表面的に調子をあわせ、いじめの対象にならないように異常に気を遣っている節も見られ、このような場合も学習の動機づけは低減する。
成果が上がらないと劣等感をもつが、それを解消しようとして、先手を打ち他人をバカにすることで仮想的有能感をもとうとするという悪循環を繰り返す。
この仮想的有能感は人間関係の希薄さから生じている場合が多いように思われる。
協働的な人間関係を基盤とした職場風土が形成されるためには、まずは一人ひとりが、管理職も含めた他の同僚と協働的な関係を結ぶことが必要となる。
一人ひとりが協働的な関係を構築できないと感じている場合は、協働的な職場風土は育ちがたい。
協働的効力感は、職場の雰囲気と対人的なサポートから強く影響を受ける。
したがって、協働的効力感を育成するためには、個人の力量を高めていくだけではなく、集団や人間関係のあり方について検討する必要がある。
他者に対する思いやり、協力的なかかわり、困っている他者への支援活動などは、対人的な葛藤関係を低減するだけでなく、お互いの信頼関係を構築していく。
このように対人関係の肯定的な側面、つまり協力しあい、支え合う人間関係は、組織や集団においては格段に必要となる。
人間関係が希薄ななかで成果だけを求められると
■ 「潰れない生き方」
昔は、追い詰められている人がいると、必ず一人くらいは「大丈夫かよ?」と声をかけたり、相談にのる人がいたものです。
ところがいまは、「あいつはもうダメだな」と冷たい目で眺めている人がいたり、自分には関係ない、関わりたくないと遠目で見ている人が数多くいます。
追い詰められている人からすると、周りの人がどう思っているのかわからないという状況もあります。
だから、助けを求めようと思っても、むしろ敵なのではないかと思えてくる。
人間関係が希薄ななかで成果だけを求められるため、周りの人がみんな「仮想敵」に思えてしまうわけです。
「自分のことだけで精いっぱいで、人を救うことなんて土台できない」と思い込んでいる。
自分が周囲に関われないから、自分に問題が起きても、結局自分一人の中で対処するしかないのです。
こうして、一人で抱え込んで潰れていく・・・
こうなると、自分におきた出来事に対しても、うまく処理することができません。
処理するといっても、SOSを発するだけなのですが、それすらもできないのです。
だから、周りの人も気づいてあげられない。
声をかけてあげられないという状況になっています。
結局、いまの時代はみんなが傍観者になってしまったのです。
注意しなければならないのは、傍観者でいることは周囲の人が追い込まれるのに加担し、自らも潰れる危険をさらしているということです。
「傍観者は加担者である」という認識が必要です。
人と人が協力し合うためには、信頼が欠かせない
■ 「ワーク・シフト」
私たちは概して、ほかの人たちやコミュニティを信頼していれば、他人と関わり合おうとするが、信頼していなければ、あまり他人と関わろうとしない。
ここで言う「信頼」とは、単にほかの人や組織が好きかどうかということではない。
もっと行動志向の感情で、たいていは未来に対する期待に基礎を置いている。
私たちがほかの人や組織やブランドを信頼するのは、その対象が将来に約束を守ってくれると思うからだ。
私たちは、誰を、あるいはなにを信頼するかという決断を日々くだしている。
ほかの人や組織を信頼できれば、私たちは不確実な状態を抜け出せる。
未来になにが起きるかがわからないと、なんの計画も立てられないが、強い信頼をいだければ確かな計画を立てられるし、確かな計画が立てれれば強い信頼をいだける。
信頼は未来を予測することを可能にし、それを通じて人間関係を円滑にし、知識や情報のやり取りを促すのである。
人と人が協力し合うためには、信頼が欠かせない。
この点で、コミュニティや組織にとって信頼はきわめて価値のある資源と言えるだろう。
支援とは、人間関係の基本である
■ 「人を助けるとはどういうことか」
支援とは、人間関係の基本である。
支援は物事を推し進めるための基本的な人間関係である。
支援とは複雑な現象だ。
役に立つ支援と、役に立たない支援とがある。
支援とは、かなり広い範囲にわたった概念である。
さらに一歩進めると、支援はあらゆる組織や仕事の形態に本来備わっている。
なぜなら当然だが、すべての仕事を一人でこなすのは無理なため、われわれは組織を創るからである。
支援は一つの人間関係だが、準公式の、あるいは公式の支援を申し出たり、与えたり、受けたりするプロセスは個人の判断から始まる場合が普通だ。
支援を与えようとか、申し出ようとか決めた人がいたなら、その行動が支援関係につながるかもしれない。
または、誰かが支援を求めた場合、それが支援関係という結果になるかもしれないのだ。
人間関係が気まずい企業に愛社心や仲間意識が生まれるはずがない
■ 「経営者の手帳」
企業への愛社心や強い帰属意識は、経営者をはじめとする仲間たちとの強い信頼関係がベースである。
人間関係が気まずく、ギスギスしていたり、風通しが悪く同僚や上司への疑心暗鬼の気持ちがある限り、愛社心や強い仲間意識など生まれるはずがない。
また、近年盛んな、社員同士の過度な競争をあおるような行き過ぎた成果主義や、不況対策としての弱者に対するリストラも同様である。
全社員の愛社心を高めるとともに、よい社風、よい会社をつくりたいなら、喜びも悲しみも苦しみも、社員みながともに分かち合う経営が重要である。
心やさしい社員は、それを望んでいるのだ。
穏やかな人間関係の中で、自由にのびのびと仕事ができる職場
■ 「リストラなしの「年輪経営」」
成果主義や能力給を導入しても、それが良かったと感じる社員は、思いのほか少ないのではないだろうか。
この世の中、給料が抜きん出て高くなったり、地位がポンポンと上げるような人がそうそう出るわけではない。
一時は、いい目をみた人も長くは続かない。
むしろ、ギスギスと管理されて、尻を叩かれている気分に陥る人が多いと思う。
彼らが望んでいるのは、穏やかな人間関係の中で、自由にのびのびと仕事ができる職場である。
社員のモチベーションを上げるのは、お金や地位ではなく、
「働いて、去年より良くなった、去年より幸せだ」
と感じられることだと思う。
去年より今年、今年より来年の方が、幸せ感が増してくるような会社である。
人間関係の悪化も、社員のモチベーションを悪化させる大きな要因
■ 「なぜこの会社はなぜモチベーションが高いのか」
職場の人間関係の悪化も、社員のモチベーションを悪化させる大きな要因です。
事実、調査結果を見ても40.8%の企業が低下させる要因としてあげていました。
内容で最も多いのは、仕事の量や質あるいは会社の将来性などの問題ではなく「職場の人間関係」なのです。
職場の人間関係がギクシャクしていては、社員のモチベーションが高まるなどとは到底思えません。
それもそのはず、職場の人間関係が気まずくなればコミュニケーションの機会は少なくなる上、そればかりか、他の社員を疑心暗鬼で見てしまうことにもなりかねません。
よりひどいケースでは、それが原因で労働災害が発生したり、貴重な社員の離職を増大させてしまうことにもつながりかねません。
人間関係が生産的なものになるとき
■ 「プロフェッショナルの条件」
人間関係に優れた才能をもつからといって、よい人間関係がもてるわけではない。
自らの仕事や人との関係において、貢献に焦点を合わせることにより、初めてよい人間関係がもてる。
こうして、人間関係が生産的なものになる。
まさに生産的であることが、よい人間関係の唯一の定義である。
人間関係を良好に保つためには
■ 「「すみません」の国 」
日本的コミュニケーションでは、意見や感受性の違いが際立たないように、曖昧な部分を残しておく必要がある。
ぼかした表現を用い、意見の異なる人に対しても、正面切って反論したりはしない。
すべては「場」の雰囲気を良好に保つため、そして関係者同士の人間関係を良好に保つためである。
日本の組織には、一見ムダな会議が多いものだ。
ムダにしか思えないコミュニケーションにも、じつはみんなに気持ちを吐き出させ、満足感を与えて一体感を醸し出すという意味があるのだ。
その場に良好な雰囲気が醸し出されると、それを壊さないようにとの意識が働き、波風立てるような自己主張はしにくくなる。
できるかぎりみんなが適度に譲歩し合い、納得できるような落としどころに向かうことになる。
集団主義を支える協調性を土台にした人間関係
■ 「職場いじめ ― あなたの上司はなぜキレる」
日本の企業社会は、一種のセレモニー化した規範を確立して協調性を大切にしてきた。
そして、こうした企業内の協調性を土台にした人間関係が集団主義を支えてきた。
しかし、この一見まさに集団主義的で協調的に見える行動も、その基準は実は自分の打算によっている。
一見企業へのロイヤリティを軸にした統一した行動に見えても、その原理となっているのは、その行動が己の打算にかなうかどうかである。
つまり、個人としては嫌であっても、出世や仕事にいい効果をもたらすということで参加してきた。
自分だけが仲間と違う行動を取るのはまずいという判断で、自分を殺して参加していることが多かった。
逆に言えば、拒否が自らの利益につながらない場合や、そうした利益を無視しても参加したくない譲れない哲学がある場合には、拒否することもあるだろうということである。
日本人の多くは、実は自分自身は集団主義的な人間だなどとは思っていないという不思議な現実がある。
むしろ、個人個人に聞けば、「日本的集団主義には辟易していて、何とかそういう呪縛から自由になりたかった」などと語ることが多い。
それどころか、「日本人全体が集団主義である」ことは認めても、「自分は、そうした生き方に仕方なく従っているが、本当は違う」と感じている人のほうが多いのが現実であろう。
今、職場に起きていることは、集団主義の揺らぎに対しては「以前から望んでいなかったことだから」と肯定しつつも、今度は「そうは言っても個人主義的に飛び出した行動をすることが本当に利益なのかどうか」を見定めている状態なのだと言ってもいい。
まさに、職場は今、集団主義から個人主義、そして年功序列から成果主義を典型とする変化を前に、自らがどのように協調性を発揮すればいいのか分からず、立ちすくんでる状態なのだ。
集団主義や協調性というしがらみを捨てようとしながらも、なお、その一方でしがみつくという混乱と矛盾の中にいるのだと言ってもいい。
日本企業では建前はともかく、本音では企業利益のためにウソをついたり、隠し通すという悪しき集団主義は根強く残っている。
不祥事の対応などでの、こうしたロイヤリティの高さは依然として求められているからである。
まさしく、企業のために自らの良心を殺す場面はあっても、その企業を告発することなどは考えられない風土が依然としてある。
こうした仲間意識が強い集団は、凝集性の高い集団となって、メンバーが互いにその集団に深く関与しすぎることになってしまいがちである。
そのために、メンバーは集団から仲間はずれにされたり、自分への支持を失うことを極端に恐れるようになる。
この時、メンバーの関心は、自分がことを荒立てて騒ぎにするよりも、メンバー同士の関係を重視する方向に目が向けられてしまうのである。
どのような人間関係が常識的か
■ 「ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人」
私たちは、社会生活を送る中で、何が善いことで何が悪いことかを学ぶ。
それは、そもそも人間に備わっているものではなく、その文化で他の人たちとのコミュニケーションをとる中で身につけるものである。
そして、そうした善悪の判断は、文化によって結構違っている。
誰かの家を訪問するときに、お土産を持って行くのは当然と思われている文化があるのに対し、そうしたしきたりを重視しない文化もある。
これとまったく同じように、ある文化では当然と思われている人間関係が、他の文化では失礼に当たることもある。
また、ある文化では非常に重要と思われているものの考え方が、他の文化では、瑣末なことと考えられている場合だってある。
ある文化では、豚は汚らわしいものと思われ、別の文化では牛は神聖な生き物と思われている。
また、片膝を立てて食事するのが正統な行儀作法であったり、お膳からご飯茶碗を手にとって持ち上げて食べるのは品がないと思われている文化もある。
このように、どのような人間関係が常識的かということは、その文化を構成する人たちが共有したルールによって、はじめて決まってくる。
日本のような先輩後輩関係は、軍隊の中にしか存在しない
■ 狭く深くの日本人、浅く広くのイラン人
日本では「話し手」がより多くの責任を負います。
これに対して、イランでは「聞き手」の側が責任を負います。
たった1回しか来日したことのないイラン人でも、「日本人は保守的である」と言うかもしれません。
政治的な言論が自由である一方で、社会的な言論の自由が限れているように見えるからです。
一方、イランは政治的な言論の自由には欠けていますが、日常生活では批判することにタブーはありません。
職場でも学校でも自分の意見を自由に発言する。
年上の人を尊敬する文化はありますが、自分が正しいと思うことはあくまでも主張します。
日本のような先輩後輩関係は、軍隊の中にしか存在しません。
軍隊の中でも、日本ほどに強くはありません。
では、他人の意見を自由に批判したり、自分の意見を強く主張したりすることに、社会的なメリットはあるのでしょうか。
答えは、ノーです。
協力して仕事を進めるポジションに配属されたパートナーを信頼・尊敬しない限り、仕事を進めることはできません。
組織も形骸化してしまいます。
一方、日本式のやり方にも問題があります。
批判が許されなければ、組織が活性化するわけがありません。
イランと日本の中間が望ましいのかもしれません。
事を荒立てないように注意するだけの日本人
■ 自己主張におけるドイツ人と日本人
日本人の間ではドイツ人は自己主張が強いと思われている。
日本人はどういった場面でドイツ人は自己主張が激しいと思うのか。
例えば職場のドイツ人による
「私の仕事は此処まで。だからそれ以上は絶対にしない」
「私は、今日は17時に何が有っても絶対に帰る(緊急な仕事が生じても本当に帰る)」
「私の給料が実際の仕事に比べて少ないから、賃上げしろ」
といった発言に対してだろうか。
だが、これらはドイツでは誰もが当たり前と考えている行為であり、自己主張というよりも、当然の権利要求とも言える。
これら発言は、法や秩序を守るドイツ人的概念を端的に顕している。
責任の明確化、作業分担による効率化、他人の仕事を奪わないとの配慮が窺える。
定時就業も賃上げも、不当な労働環境を生じさせず、しいては職場全体に正当性を生じさせ不平等感を無くす効果を齎す。
ドイツ人は、法や秩序を脅かすものに対しては、激しく抗議する。
例えば、集合住宅内で夜中に騒音が有った場合は、日本人であれば、事を荒立てないように注意するだけだが、ドイツ人は惜しげも無く激しく抗議する。
名ばかりの「権利」で、立場や複雑な人間関係が優先される日本
■ 「生きる力をつける ドイツ流子育てのすすめ」
日本では「責任」という言葉をよく耳にするが、それは、「上」の人が「下」の人に対して(先生が生徒に対してとか上司が部下に対して)のみ使っている言葉に思えてならない。
ドイツの場合、「上」へ行けばいくほど「責任」が問われるという考えが強いため、「下」の人が「上」の人に対して「責任、責任」とうるさく言うことはあっても、逆はあまりない。
日本の場合、自分や組織のやり方を「下」に押しつけるために、「下」の人に「責任をとってくれ」云々と言っているように思えてならない。
ドイツの場合「義務」と「権利」はセットになっていると言っていい。
一方日本の場合は、義務が多く権利主張は立場の上の人や目上の人から「ワガママ」と片付けられてしまうことが多い。
ドイツ的な考えでは、「上」へ行けばいくほど義務も多くなるのは当たり前だが、それに「下」の人を巻き込もうとはしない。
例えば、社長は残業しても部下は17時には帰ってしまう。
ところが日本は「下」の人に「義務」をたくさん押しつけたがる。
(社長が帰るまで部下が帰れないなど)
「義務」や「責任」というのは一応は訳すことはできても、その意味合いは両国でかなり違う。
意味合いというより使われる場面が違う、と言ったほうがいいのかもしれない。
これは教育現場でも明らかだ。
日本人が子どもに言う「責任」とは、イコール「人に迷惑をかけないこと」である。
欧米人には何が迷惑になるのかの幅がものすごく広いように感じられる。
例えば自分一人だけ違うことをするなど、ドイツ人から見たら何でもない行動が、日本人にとっては「わがまま」や「協調性がない」となってしまうのだから、同じ単語でもその違いには驚く。
ドイツ語で言う「権利」は、「あるもの」そして「通すもの」である。
例えば、有給をとる権利が法律上あるならば、必ず有給を全部とる、ということだ。
日本の場合、「権利」とは名ばかりで、立場や複雑な人間関係が優先され、使えない(通せない)ことがよくある。
また、日本では、「権利なんていう言葉は、一人前になってから言え」というお説教もよく聞く。
欧米と日本との「責任」概念の差異と人間関係
■ 「「自己責任」とは何か」
大事なことは、ヨーロッパ諸語での「責任」という言葉の語源が、「ある約束に対する応答、保証」という、人と人との約束事を意味する言葉だということです。
社会の中での人間関係を互いに規定する意味なのです。
漢字文化圏の「権力者から一方的に重荷を背負わされる」という語源である「責任」とは、だいぶ異なった語源であることがわかると思います。
欧米と日本との「責任」概念の差異は、この言葉の語源の差に由来しているのかもしれません。
「責任」という言葉は、明治20年代に法律用語として定着するのに対応して一般に使われるようになったと言えると思います。
それにしても、「責任」ではなく、「償い」「応答」といった言葉が訳語になっていたら、日本人の「責任」イメージも少しは変わっていたかもしれません。
「責」という言葉が、権力者から税金を取られる、しかられる、なじられる、つまり「いじめられる」というイメージであり、「任」も堪え忍ぶというイメージであることが、日本人にとって、「責任」が何やら暗いイメージの言葉になってしまった要因の一つではないでしょうか。
無限責任を追及される閉鎖的なムラ社会の自己防衛策
■ 「(日本人)」
日本では、いったん「責任」を負わされ、スケープゴートにされたときの損害があまりにも大きいので、責任を逃れようとする。
その結果、権限と責任が分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからなくなる。
呪術的な無限責任の国では、自己責任は「ルールのないまま一方的に責任だけを押しつけられる」ことと同じだ。
これでは、人々が自己責任論を忌避するようになるのも当たり前だ。
だが、責任をとれない社会には致命的な弱点がある。
組織のなかに統治(ガバナンス)の構造をつくることができないのだ。
日本の組織では権限と責任は分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからない。
一歩間違えれば無限責任を追及される閉鎖的なムラ社会では当然の自己防衛策でもある。
誰もが責任をとりたくない社会では、全員の総意で、誰も責任をとらなくてもいい組織ができあがるのだ。
このような組織は、「責任」を免れることができない重大なトラブルが起こると機能を停止してしまう。
トラブルを表に出せば”無限の”責任をとらなくてはならないのだから、残る選択肢はトラブルを隠蔽し、外部には知られないように隠密裏に処理することだけだ。
「まわりの人と仲良くすることを重んじる教育」の日本
■ 「生きる力をつける ドイツ流子育てのすすめ」
家庭でも学校でも、ドイツの教育の目標は「大人になったら一人で生きていけること」である。
「自立した大人」になるために、教育をしているといっても過言ではない。
ドイツの教育現場の様子を読んで、疑問をもつ人も多いと思う。
しかし、ドイツのやり方は、将来自力で生きていくための方法・手段だと思っていただければ、ご理解いただけるかもしれない。
ドイツの「自立するための教育」に対して、日本は「まわりの人と仲良くすることを重んじる教育」である。
ドイツの場合は、まずは一人、個人であり、それから人との関係がある。
自立のための勉強をさせるドイツでは、「勉強を教えるのは学校」「子どもの人間形成や礼儀などを教えるのは親」と、役割がかなりはっきりと分かれている。
親は勉強のことはすべて学校に任せ、学校は子どもがプライベートな行動面で問題を起こしても、いっさい責任をとらない。
偏っているという反論もあると思うが、ドイツ人は学校が子どもの人間形成を助ける役割をもつことはできないと考えている。
人間形成はあくまでも親と子どもを囲む社会の責任になるのだ。
ドイツにはいろいろな国の人がいて、文化や宗教もさまざまだ。
イスラム教徒で豚肉の食べられない子どもがいれば、ベジタリアンの 子もいる。
アレルギーの子、宗教上の理由で頭にスカーフを巻かなければならない子など・・・
世の中にはいろいろな考え方があり、生き方がある。
それをまとめる役として学校は適していないのだ。
これを無理やりまとめようとすると、第二次世界大戦前のように、スパルタ式や全体主義的な教育をしなければいけなくなるかもしれない。
それをドイツ人はよしとしないのだ。
ドイツと日本の2つの国を比較して一見目につくのは「文化の違い」だ。
ドイツと日本は、つくられてきた歴史や文化が大きく違う。
だから、人の考えや生き方が違っても当然だ。
そういう意見があるだろう。
それはもっともだ。
ドイツと日本の両方の教育を受けてきた私は、文化の違いという一言では片付けられない何かがあると思ってきた。
そして、ここに来てはっきりしたこと・・・
それは、子どもの頃に学校で受けてきた教育やシステムの違いが、結果として考え方の大きく異なる大人をつくり出しているという事実だ。
大人になってからの考え方や生き方の違いは、親の教育にもよるが、他人との人間関係を築き、深める学校での十数年間の生活に大きく左右される。
日本人は大人になっても自分の好きなことを見つけられない人が多い。
その証拠に、例えば女性向けの雑誌には、「どうしたら好きなことを見つけられるか」「私の自分探し」「このままでいいの?」などといったタイトルの特集や、悩み相談記事が多い。
日本の学校では小中高と、自分の好きなことをするより、みんなとの協調性や、苦手なことをすることが重要視されているのだから、好きなことに打ち込む能力など育つわけがないのだ。
たとえ6、7歳の子に好きなことに打ち込む能力があったとしても、日本の教育を受けているうちに、その能力は見事になくなっていくだろう。
そして、自分の苦手なことに打ち込むことイコールよいことになり、自分の好きなことにエネルギーと時間をつぎ込むことを悪いこと、わがままなこと、みんなと違うことと感じるようになる。
極端な話、ドイツの場合は、幼稚園では子どもが何かをしたければ3時間ずっとそれに打ち込んでいてよいシステムになっている。
また、小学校にあがってからも、授業は午後1時に終わるので、家に帰って宿題を終えたあとは「自分の好きなこと」にずっと打ち込める。
このシステムで育つことが、大人になってからの仕事に役に立つかどうかはわからない。
しかし、少なくとも、「好きなこと」を自分で見つけて、実際に自分でやってみる能力は失われずにすむ。
だったら学校の中で好きなことを見つければいいではないかと言われてしまいそうだが、学校で習うことは子どもにとっては「義務」である。
「義務」であることを好きになれ、と言われても、それは無理というものだ。
さらに、日本の場合、こうして大人になると、自分の好きでもない仕事を選んでしまう危険性が高い。
小中高と、好きなことをやることを抑えられてきたばかりか、嫌いなことをずっとやらされてきたので、本来は嫌いなことでも「仕事だから仕方がない」と、選択してしまうことになんの抵抗も感じなくなる。
そして、そんな日々が続くうちに、
「やっぱり何か違う」
「毎日が楽しくない」
「でも、好きなことに打ち込む勇気も能力もないし」
となってしまう。
最近ではこういった切実な悩みを、大人たちは、「最近の若者はフラフラしてけしからん」と片付けてしまいがちだが、その原因は、教育にあるということを忘れてはいけない。
また、家庭での教育に関しても似たようなことが言える。
ほとんどの親が子どものことを思っていることは間違いないだろうが、彼らが好きなことをやろうとしているのを無視して、何かにつけ「勉強しなさい」と言いすぎてしまうと、後に好きなことがわからない大人、好きなことに打ち込めない大人を生み出してしまう。
みんなと一緒をよしとして教育を施す日本人は、「和」を尊び「恩」を大切にする。
それに対して、自立した大人をつくり出すための教育を受けてきたドイツ人は、「個」の意見を重視する。
そしてその大人の考え方や生き方の違いがまた、子どもへの教育として異なった形になっていく・・・
どちらの国の教育が正しいのかはわからない。
それぞれ短所もあれば長所もある。
ただ、その違いを知ってこそ、現状の教育のあり方の問題点が浮き彫りになってくることもある。
人数が増えれば、人間関係の組み合わせ数も増える
■ 「ビジネスマンのための「行動観察」入門」
人数が増えれば当然、人間関係の組み合わせ数も増える。
たとえば、メンバーが2人であれば人間関係の組み合わせパターンは1通りしかない。
3人であれば3通り、4人であれば6通りである。
しかし、これが50人いると、人間関係の組み合わせは1225通りも存在する。
そうなると、「この人のことはよく知っているけど、あの人はよく知らない」ということがいくらでも起きる。
気心が知れていればコミュニケーションは円滑にいくかもしれないが、あまりよく知らない人とのコミュニケーションはなかなか難しい。
そうなると協調の失敗が起こり、それがパフォーマンスのロスを生む。
うまくいかない人間関係の原因とは
■ 「まず、ルールを破れ」
人間関係がうまく行かなくて苦しんだ経験があるだろうか。
うまくいかない人間関係の原因は、相手が自分のことをよく理解していないからではない。
ほとんどの場合、それは、相手がよく理解するようになって・・・
そして態度を変えて欲しい、と思うからだ。
ただ気が合わず、自分の弱点が互いに気になっているだけかもしれない。
「人間関係の問題」を引き起こしているのは、たった一つの原因
■ 「自分の小さな「箱」から脱出する方法」
我々が「人間関係の問題」と呼んでいる、一見まったくバラバラな症状、リーダーシップから動機付けまでのあらゆる問題を引き起こしているのは、たった一つの原因なんだ。
それさえ知っていれば、人間関係の問題をかつてないほど効率的に解決することができる。
人間関係の最新のテクニックを知らなくても、関係ない。
人とのやりとりや仕事のうえで最新の手法やテクニックを使ってみたところで、そんなことはまるで関係ない。
人が他の人々にどのような影響を及ぼすかは、行動よりも深いところにあるものによって決まる。
箱の中にいるか外にいるかが問題なんだ。
箱の中にいると、現実を見る目が歪んでしまう。
自分自身のことも他の人々のことも、はっきりと見ることができなくなる。
自己欺瞞に陥るわけだ。
そしてそこから、人間関係のあらゆるごたごたが起こってくる。
もう一度考えてみてほしいんだ。
自分の部下についても、それ以外の人についても。
そしてそういった人々に対して、自分が箱の中にいるのか、外にいるのかを問い直してほしい。
ただし、相手をひとつの集団として見てはいけない。
一人ひとりについて考えるんだ。
自己欺瞞、つまり箱は、自分の感情に積極的に背くことによって自身が作り出し、維持しているものなんだ。
箱の中にいる人間がいくら箱から出ようとあがいても、どうにもならないわけだが、その一方で、箱の外に出た形の人間関係がひとつでもあれば、箱の中にいる時間を減らしたり、箱の中に入ったままだった関係を修正したり、いろいろなことができる。
その瞬間に、自分が何をすべきかがわかり、相手を人間として尊重しなくてはならないということがわかる。
相手を自分と同様、希望や心配ごとを持った一人の人間として見始めた瞬間に、箱の外に出るんだ。
いいかい、いったん箱に入ってしまうと、相手をひどい奴だと責めている自分を正当化するためにも、実際に相手がひどい奴であってくれなくては困ることになる。
箱の中にいる限り、問題が必要だからね。
そして、こちらが箱の中に留まり続ける限り、相手はひどい奴であり続ける。
こちらが責めれば責めるほど、相手は責められるようなことをするわけだ。
こっちが箱から出てしまえば、相手がひどい奴である必要はなくなり、相手をひどい奴にする必要もなくなる。
こちらが箱の中にいる限り、仮に周りの人々が君に従ったとしても、それは単に力に屈して、あるいは力を恐れて従っているだけなんだ。
相手が箱に入っていることを責めたりせずに、しかも相手の箱の存在に気づけたなら、そのほうがずっといいと思わないか。
人間関係とは?会社や職場の人間関係と組織力との関係って?
(パート2)
んでもって・・・
例えばこんなのからも、一応念のために考えてみるのはどーでしょう?
(о ̄∇ ̄)/
人間関係とは?
○ goo辞書
集団や組織内における人と人との関係。
特に成員相互の間の心理的関係をいう。
○ Weblio辞書
社会・組織・集団などにおける人と人との関係。
特に、個人と個人との心理面・感情面での関係をいう。
○ コトバンク
人々の間の持続的な社会関係における内面的、現実的な関係をいう。
すなわち、人間関係は人々の間に直接の接触を介して自然発生的に形成され、維持される現実の人間対人間の関係であり、そこに参加する人々のいだく特別の感情、気分、意欲などを含み、それによっていろどられる関係である。
○ ウィキペディア
人間関係は、人間と人間の関係のこと。
社会や集団や組織の場あるいは個人的な場における、感情的な面も含めた、人と人の関係のこと。
人間には共感する能力があり、共感がつみかさねられてゆけばゆくほど人間関係は深くなってゆく。
人間関係はコミュニケーションの累積であり、互いに記号、すなわち非言語的記号や言語的記号(言葉)を交換することで成立している。
ひとりの人は誕生したときに、すでに両親との人間関係を持ち、さらにその後、兄弟(姉妹)、友人、恋人、配偶者などとの関係を通じて、様々な人間関係を営んでゆく。
ひとりの人の人生は、人間関係の歴史そのものである。
その中には、良好な関係もあれば、険悪な関係もある。
また、人間関係は、長期間にわたり継続されることもあるが、せっかく築き上げた関係が、短期間で崩壊してしまうこともある。
人間関係は、大抵の人にとって、悩みのタネであり何らかの「問題」である。
現代人はしばしば、自分と他の人間との関係の調整に神経をすり減らしており、各人それぞれ体験的に人間関係のめんどくささを知っている。
つまり一般論として言えば、人間関係は人にとって最大の悩みとも言える状態なのである。
人間関係というものは、しばしば悩みごとの筆頭に挙げられるものであり、人間関係という問題の歴史の長さは人類の歴史の長さと同じほどだと考えられている。
大昔の人、例えば古代ギリシャ人による人間関係の描写の中には、現代人が読んでも、まるで今日の人間関係のことのように思えるようなものが多々ある。
それはつまり、人間関係の問題というのがある意味、進歩が無い、いわば「永遠の問題」だということを示している。
ただし人間関係は、時代とともに変化している面もある。
人間関係とは?会社や職場の人間関係と組織力との関係って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ナルホド・・・、ちょっぴりわかった気がするかも・・・ ヽ(´ー`)ノ 」
「あ、なーんだー、そーだったんだ~ (〃▽〃) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「わかったよーなわからんよーな・・・ ( ̄д ̄;) 」
「やっぱ、頭がウニ状態じゃー!よくわからーん! \(  ̄曲 ̄)/ 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・












などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?




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