「自己責任や自業自得って何だろ~? ( ゜Д゜) 」
「自助・共助・公助との関係って何だろ~? (;゜д゜) 」
「まず自助努力って言うけど、それは理解できる面もあるんだけど、そうは言ってもたった一人で解決できることってそんなにたくさんないだろーし、一人ではできないことがあるからこそ組織をつくるんだろーし、それなのに会社組織とかでもそーなんだろーけど、例えば必要最低限の人材育成すらやらずに自助努力に期待して丸投げばっかしておいて、それで失敗やミスをやらかしちゃったら、自己責任や自業自得って言うのもどーかと思うし、リストラなんかされちゃったらシャレにならないと思うんだけど・・・??? o( ̄_ ̄|||)o 」
「まず自助だから自助努力してみて、それでも解決できなければ共助に頼れってコトなんだろーけど、共助にだって限界があるだろーし、いろんな事情から家族にも友達にも誰にも頼れない場合だってあるだろーし、共助が当たり前って考え方のせいで追い詰められちゃって、本人だけじゃーなくて家族全員で共倒れになっちゃう危険もあると思うんだけど・・・??? (;゚;Д;゚;;) 」
「本当に困った時にこそ、公助ってものが必要になると思うんだけど・・・??? (´・ω・`) 」
「何でもかんでも公助に頼るってのはどーかと思うけど、だけどどんなに貧乏でも消費税だのなんだのって税金をいっぱい払っているんだし、国民負担率も上がる一方なんだし、いざ何かあった時のための公助なんだから、どーしても公助に頼らないと問題が解決できない時には、頼ったっていいと思うんだけど・・・??? (;´д`) 」
「とは言えども、そーゆー自分も共助や公助に頼るのにはどーもハードルが高いと感じちゃうし、心理的に抵抗があるんだよねー、まずは自助なんだから自助努力しなきゃってつい思っちゃうこともあるし・・・ (´Д`lll)」
「自分が悪いんだから自分一人で解決しなきゃってどーも思っちゃうし、自助努力ばっかやりがちだから誰にも相談できないし、公助どころか共助にも頼れないって感じちゃうし、コレってもしかして自己責任とか自業自得とかって教育に、いつの間にか洗脳されちゃっているってコトなんだろーか・・・??? (|||▽ ) 」
「そーいやー特に最近、自己責任や自業自得って言葉をやたらと耳にするようになった気がしなくもないんだけど、どーしてなんだろ~? ( ̄∧ ̄ ) 」
「自分に対しても自己責任や自業自得って思っちゃうし、実は他者に対しても自分が悪いんだろ!自己責任!だろ自業自得だろ!とかってつい思っちゃう時があるんだけど、それって何が原因なんだろ~?自分でもよくわからないんだけど根本的な原因って何なんだろ~? (ーー;) 」
「自分はいつも正しいとか何でもかんでも他者が悪いって責任転嫁し過ぎるのもどーかとは思うけど、よくよく考えてみたら、何でもかんでも自己責任や自業自得って言っちゃうのもどーかとは思うよなー・・・ (・_・;) 」
「極論を言えば自分自身に対して自己責任や自業自得と思うのはその人の勝手なのかもしれないけど、何でもかんでも自己責任とか自業自得とかって他者に対して思っちゃうのって、もしかしたらヤバイのかも~?ヽ(;▽;)ノ」
「どーして自己責任とか自業自得とかって他者に要求しちゃうんだろ~? ((((_ _|||)))) 」
「自分自身にも他者に対しても自己責任や自業自得を要求しちゃうのって、自分も含めてそーゆー人が増えているとしたら、コレってもしかして何かの兆候なのかな~? (; ̄Д ̄) 」
「人様に迷惑をかけたらダメとかって考え方は、日本人の強みでもあり美徳でもあるかもしれないんだけど、過度な自己責任にはさすがに疑問や違和感を感じちゃうよなー・・・ σ( ̄∇ ̄;) 」
「自分にもそーゆー傾向があるんだけど、誰にも迷惑をかけたくなくて過度な自己責任を背負い込んだり、他者にも要求することによって、結局のところ自分で自分のクビを絞めちゃうことだってあるんじゃーないのかな~?誰にも相談できなくなっちゃったり、誰にも頼れなくなっちゃったりすることだってあるんじゃーないのかな~? ( ̄‥ ̄;) 」
「例えば人権問題とかもそうなんだろーけど、それぞれの人が抱えている問題がブラックボックス化してしまうことによって、他者からは見えなくなっちゃって、無関心につながっちゃうことだってあるんじゃーないのかな~? p(´⌒`q) 」
「結果として、それぞれの当事者の状況が悪化してしまうのはもちろんのこと、当事者以外の人も関係する社会的な構造とかシステムとかの状況もさらに悪化しちゃうことだってあるんじゃーないのかな~? (; ̄ェ ̄)」
「こんな風に考えて行くと、自己責任や自業自得ってとらえちゃうメリットやデメリットって何だろ~?誰にとってのメリットやデメリットなんだろ~?ってな疑問もわいてきちゃうんだけど・・・ (´ε`;) 」
「自助・共助・公助って考え方は何のためにあるんだろ~?誰のための自助・共助・公助なんだろ~?って疑問も浮かんで来ちゃうんだよねー・・・ (;・∀・)」
「自己責任や自業自得とか、自助・共助・公助とかの考え方って、日本でしか通用しないガラパゴスな考え方なのかな~? ( ̄◇ ̄;) 」
「海外の国にも自己責任や自業自得とか自助・共助・公助とかの考え方が一応あるものの、日本とは考え方が全然違うってどこかで聞いたことがあるんだけど、何がどう違うんだろ~?違うとしたらどーして日本だけ違うんだろ~?それだけ日本の考え方が井の中の蛙だったり、特別で特殊だったりするってことなんだろーか?日本の常識が世界の常識とかけ離れているってコトなんだろーか? ( ̄▽ ̄|||)」
「日本で自己責任や自業自得とかって言葉を耳にすることが結構あるのって、日本ではデモとかストライキとかが少ないこととか、協調性とか同調圧力なんかとかとももしかして関係しているんだろーか? ( ´△`;) 」
「自助・共助・公助とかの考え方って集団主義とか全体主義とか、他にも精神論や根性論とかとも関係しているんだろーか?教育も関係しているような気がしなくもないんだけど、日本の教育と海外の教育って何がどう違うんだろ~? (´._.`) 」
などなど、このような疑問の声をお聞きすることもあるんですが・・・
( ´・ω・`)
「三方よしの経営相談」、「自律型人材育成」、「組織力の強化や向上」、「経営に役立つ情報活用(IT活用・ICT活用)」などのお手伝いを行なっているからなのか・・・
「爆発・炎上・崩壊組織」で消防のお手伝いを行なうこともあるからなのか・・・
こーゆー疑問とか違和感とかって意外と大事
なんじゃーないかな~???
(`・ω・´)
なーんて感じることもあるのと、それにコレってもしかしたら・・・
などなどにも、ある意味関係するっちゃーする面もあるのかも~???
なーんて感じるコトもあるので、一緒に考えてみません? (^^)
あ、モチロン、「自律的に」という意味で。
ちょっと興味あるかも~?
って言ってくださる方は、お付き合いいただけると嬉しいです。
(^^)/
自己責任や自業自得とは?自助・共助・公助との関係って?
(パート1)
んーと、もしかしたら・・・
なんかにも、ある意味関係するかもしれないので、まずは例えばこんなのから・・・
自己責任や自業自得って、何なんだろーか?
自己責任の「責任」って、何なんだろーか?
誰に対する「責任」なんだろーか?
誰が誰に対して要求する「責任」なんだろーか?
何をしていたら、「責任」をとったことになるんだろーか?
何をしていなかったら、「責任」をとったことにはならないんだろーか?
自業自得って、どーゆーことなんだろーか?
自業自得と言い切れる根拠はなんだろーか?
自己責任や自業自得なのかそうでないのかって、何を基準に誰が判断するんだろーか?
何をしていたら自助努力をしていて、何をしていなかったら自助努力をしていないって評価されちゃうんだろーか?
自助努力の「努力」って、何なんだろーか?
何をしていたら「努力」をしていることになって、何をしていなかったら「努力」をしたことにはならないんだろーか?
自己責任や自業自得を他者に要求するメリットやデメリットって何なんだろーか?
それは誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
自助・共助・公助って、何なんだろーか?
自己責任や自助努力と、自助・共助・公助との関係って何なんだろーか?
どんな状況だったら自助が適していて、どんな状況だったら自助が適していないんだろーか?
どんな状況だったら共助が適していて、どんな状況だったら共助が適していないんだろーか?
公助が必要になる時って、どんな時なんだろーか?
それは誰がどんな基準で判断するんだろーか?
何のための自助・共助・公助なんだろーか?
誰のための自助・共助・公助なんだろーか?
などなども含めて、考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・)b
「自己責任」という言葉は、責任概念を曖昧化する
■ 「「自己責任」とは何か」
大事なことは、ヨーロッパ諸語での「責任」という言葉の語源が、「ある約束に対する応答、保証」という、人と人との約束事を意味する言葉だということです。
社会の中での人間関係を互いに規定する意味なのです。
漢字文化圏の「権力者から一方的に重荷を背負わされる」という語源である「責任」とは、だいぶ異なった語源であることがわかると思います。
欧米と日本との「責任」概念の差異は、この言葉の語源の差に由来しているのかもしれません。
「責任」という言葉は、明治20年代に法律用語として定着するのに対応して一般に使われるようになったと言えると思います。
それにしても、「責任」ではなく、「償い」「応答」といった言葉が訳語になっていたら、日本人の「責任」イメージも少しは変わっていたかもしれません。
「責」という言葉が、権力者から税金を取られる、しかられる、なじられる、つまり「いじめられる」というイメージであり、「任」も堪え忍ぶというイメージであることが、日本人にとって、「責任」が何やら暗いイメージの言葉になってしまった要因の一つではないでしょうか。
どのような場合も、必ず出来事の原因はあります。
その出来事のルーツにさかのぼって、失敗を検証し、そのつどの責任者の存在を明確にしてゆくことが必要です。
直接責任のない者に対して共同責任や連帯責任をとらせるのは、失敗をごまかす権力者の常套手段なのです。
「自己責任」という言葉も、責任概念を曖昧化する方向でしかないことは明らかだと言えます。
責任とは、「ある約束に対する応答」であることを忘れてはなりません。
「自己責任」など社会で流行する言葉はリアルな現実を覆い隠すためにある
■ 「逃げる中高年、欲望のない若者たち」
少子化で子どもや若者の数が減っているのに、どうして就職できない若者が大勢存在するのか。
20歳になっても、30歳になっても、家からほとんど出ない社会的引きこもりという人々がいるのか。
海外のメディアのインタビューを受けて、困る質問の典型は、
「どうして日本人は無理をして死ぬまで働くのですか、どうして過労死という奇妙なことが起こるのですか」
「家族のために働くのが常識なのに、どうして単身赴任という制度があるのですか」
だった。
他にもいろいろある。
なぜ中高年の自殺者がこれほど多いのか。
少子化で労働力が足りないといいながら、どうして保育所が足りないのを放置しているのか。
わたしたちの社会で流行する言葉は、ある事実や状況を正確に表現するというものではなく、ミもフタもないリアルな現実を覆い隠すためにある場合が多い。
これから何をどうすればいいのかわからない、という社会・個人にとって、とても使い心地のいい言葉なのである。
リスクの個人化の進行は、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体
■ 「希望格差社会」
自分自身のことに対しては、自分が決定する。
これが自己決定の原則である。
そして、自分で選択したことの結果に対して、自分で責任をとる、これが「自己責任」の原則である。
リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。
リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められているのだ。
失業したり、フリーターになるのは、自分の能力の問題である。
離婚したのは、離婚するような相手と結婚したからである。
そして、保険会社が倒産して保険金がもらえないのは、危ない会社を選んだ個人の責任であるというように、保険というリスクヘッジに伴うリスクの責任までもとらされるのである。
現在日本では、リスクの普遍化が進行し、「意志によっては」避け得ないものとなっている。
そして、リスクが避け得ないものとなると同時に、個人は、そのリスクをヘッジすること、そして、生じたリスクに対処することを、個人で行わなければならない時代になっている。
そのリスクに対処しなくてはいけない個人の間に差がついているのが、近年の傾向なのだ。
状態が悪くなったとしても、誰のせいにもできない。
つまり、「自己責任」概念が発生する。
自己責任は、個人の感情状態に相当の負荷をもたらす。
日本で職業が不安定化しているのは、一時的な不況のせいではなく、産業のシステムの構造変動にその理由を求めなくてはならない。
また、選ぶ自由があるからといって、望む選択肢が実現するとは限らない。
若者に関しては、不安定な職を「選ばざるを得ない」状況に追い込まれている。
若者の意識変化は、そのような状況に適応した結果生じたのであって、その逆ではないことを強調しておきたい。
ニューエコノミーの推進論者は、「自己責任」と答えるだろう。
ニューエコノミーの「負け組」とは、単に生活ができなくて、住居がなくなったり飢えに苦しむ人ではない。
「生活に希望がもてなくなっている人」である。
相対的に豊かな社会では、人間はパンのみで生きているわけではない。
希望でもって生きるのである。
ニューエコノミーが生み出す格差は、希望の格差なのである。
一部の人は、努力がオールドエコノミーの時代以上に報われるが、その反対側では、努力が報われないと感じる人を産むのである。
ニューエコノミーが、平凡な能力の持ち主から奪っているのは、「希望」なのである。
「できないのは本人の責任」という自己責任論
■ 「ヒーローを待っていても世界は変わらない」
多様な人々が遍なく活用できるというニュアンスを超えて、多様な人々の多様性を積極的に生かすという意味で「ダイバシティ」という言葉も使われ始めています。
日本人男性とは違う、女性や外国籍の方たちの、その人たちならではの視点を生かして行う経営のことを「ダイバシティ経営」と言ったりしますが、最近ではそちらのほうが、日本人男性のみで会社を運営するよりも生産性が高まるとも言われています。
多様な人たちの多様性が積極的に生かされる社会は、当然、多様な人たちの多様な参加形態が多様な形で保障される社会である必要があります。
望んでも社会参加がかなわず、他人と十分に刺激し合うこともできなければ、その人の力が十分に開花する条件は整わないからです。
ところがこの問題は、しばしば意識の問題とした語られてきました。
「条件が整わないとできない、なんて言わずに、がんばってやればいいじゃないか」
「その気になれば、なんだってできるよ」
という理屈です。
日本人は、この発想が大好きです。
「だから、できないのは本人の責任」という、いわゆる自己責任論もここから出てきます。
「困難があってもくじけない、強い気持ちが大事」という意味では、私も賛成します。
ただ、そのことがあまり強調されすぎると「すべては本人の気持ち次第」ということになって、社会は何もしなくてもいいことになってしまう。
どんなに悲惨な貧困家庭で育った子どもでも、将来大成して大成功をおさめた人はいるでしょう。
しかし、だからといって、貧困家庭の子どもたちに何もしないで放置しておいていいのかと言えば、それは違うと思います。
10人に1人か2人はそういう人がいたとしても、残りの8人9人のことも考えないと、社会は全体としてはうまく回らないだろう、と思います。
誰かの責任にして話を終わらせてしまっています。
それを別々の人たちが、ときに正反対の方向から言っています。
お互いが言い放つだけでは現状は変わりません。
なぜなら、現状とはその結果だからです。
「自己責任」は最強の言い訳ワードで、その一言で見ないようにできる
■ 「自己責任だ」と説教しても、問題は解決しない
やっぱり、相談されると立場が上になってしまいますよね。
会社やめても「なんでやめたの」「我慢できなかったの?」「そんな上司文句言えばいいじゃん」とか。
でもそれは上からの指導なんですよね。
それって対等じゃない。
何かの理由があって、仕事が出来ないから困窮している。
それなのに出来ないことだけを見て責めても問題は解決しません。
みんなに責められている人をこれ以上、責めても仕方ない。
結果をみて判断して説教するのは簡単です。
なぜそうなったのか。
過程を丁寧にみていかないといけない。
説教をして自己満足しても、その人の問題解決につながらない。
自業自得じゃない要素を持っていない人って少ないと思うんですよ。
誰だって、「もっと勉強していればよかった」とか「あの時、就活頑張っていたらもっといい企業に入れたかも」「あの人と結婚しておけば……」って人生の選択に失敗はつきものです。
助けを求める人に対しては、粗さがしをしてしまう。
でも、そうやって粗さがしをすることで、自分は不正をただした気持ちになるかもしれないけれど、問題は解決しないんですよね。
「自己責任」って言うのは、最強の言い訳ワードなんです。
その一言で見ないようにできる。
自己責任って言いだしはじめたら、誰も反論できません。
「自己責任」と言われて言い返せる人なんてほとんどいません。
自分自身の生活が100%高潔な人はいないと思うので。
自己責任論は自分に返ってくる
■ 自己責任論は自分に返ってくる。日本だけのおかしな考え方
日本って何かあるごとに自己責任論が浮上しますよね。
全ては自分の人生だから自己責任であり、助ける義理はないと。
自己責任論ってある程度までは正しくて、そうやって生きなければならないように思います。
しかし、日本ではどんなことにでも自己責任を押し付けているように思います。
自己責任論って、言った本人にも返ってくるんですよね。
それを身を持って知ってしまったら、そんな冷たいことは言えないはずです。
自分が安全な場所にいるときは上から目線で好き勝手言えますが、どんな人でも窮地に陥ることはあるし、助けが必要になる場面は必ずあります。
もし自分が被害にあったとき助けを求めても、返ってくる言葉が「自己責任でしょ」なんて言われたんじゃ、泣きっ面に蜂です。
全てを自己責任だと跳ね除ける社会じゃあ、みんなが不幸になる結果しか見えません。
まさに明日は我が身ってやつですよね。
不況な社会では度々貧困が取り沙汰されますが、自己責任論者は「貧困なのは自己責任」と言うでしょう。
しかし、貧困者には貧困にならざるを得なかった理由が存在し、それはどうしようにも埋められないものだったりもします。
例えば貧困家庭に生まれると経済的理由で教育の機会が奪われ、そこから抜け出すチャンスを手にすることが難しくなります。
逆に恵まれた家庭に生まれたなら教育の機会もたくさんあるし、上流階級のコミュニティーとも繋がれるので人生を発展させていくことが簡単になるということです。
そんなフェアじゃない2つを対等に見て自己責任論を振り飾るのはいかがなものかと思います。
自己責任論者になりやすく、自己責任論に違和感を抱かないという人は、つまり恵まれている人なんでしょうね。
自分が自己責任論で傷つく余地がないからです。
あくまで他人事だと思っているから、そんなことを言えるんです。
連帯責任とは一人がへましたらみんなも責任を負うというやつですが、社会にはどうしようもなく連帯責任というものがあるんです。
自己責任=自分だけで完結することなんてありえないんです。
『自己責任論を振りかざしても結局は連帯責任になる』ってことなんです。
思えば、『自己責任論はいずれ自分に返ってくる』というのと同義ですね。
もっと成熟した社会を目指すのなら、自己責任論社会からは脱しなければならないのです。
「自己責任」で片付けても自助努力のみで抜け出すことはなかなか出来ない
■ なぜ、「働けない若者」が増えたのか
自己責任の文脈で医療、介護、年金、生活保護、労働政策等々が語られる。
甘えないでください、頼らないでください。
経済的にも不安な世の中である。
不安だと人は余裕をなくす。
人のことまで構っていられない。
ですから皆さん自己責任でお願いします。
というスパイラルだ。
社会のセーフティーネットは高度経済成長時代のままで、支援は主に高齢者に振り向けられている。
右肩上がりで成長することが見込まれている時代においては、若いうちの貧困も「明日はおのずと解決するもの」であり、ならば若いうちに苦労しておくのはよい経験とも言え、美徳ですらあると思われていた。
だが、こうした前提はとっくに崩れている。
「どんな仕事でもいいではないか、文句を言わずに働け」というが、キャリアを積んでいく機会を奪われたものたちが、意欲を維持するのは大変につらいことだろう。
それでも、と頑張って頑張って、ついに心や体を壊してしまうこともある。
しかも一度無業状態になると人間関係や社会関係資本も途切れてしまい、一気に孤立してしまうのだ。
こうして履歴書に空白が出来ると、さらに厳しい状態に陥る。
これを「自己責任」で片付けても、現実には自助努力のみで抜け出すことはなかなか出来ない。
若者の雇用を取り巻くシステムの問題と、経済成長が以前のようには見込めないという社会背景は、個人のみの力ではね返せるものではない。
かくも多く無業者になってしまう状況は、彼ら自身のみならず、社会全体の大きな影響があるのは自明だろう。
「人生のボタンの掛け違い」は誰の身にも起こりうることにもかかわらず、やり直すチャンスが極端に少ないことが問題なのだ。
模範像から一歩でも外れたら自己責任として叩かれるような日本社会
■ 「自己責任論」と生活保護バッシングの共通点
日本は「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が38%と、世界でもっとも多く存在する国だ(第2位はアメリカで28%)。
生活保護バッシングもそうだが、村の仕事をしない、出来ない人間に対して、村人は容赦ないのだ。
ある経営者は、かねてから「終身雇用、年功序列こそ日本型経営の宝」が持論だったが、よくよく話を聞くと、妊娠したり病気で有給を使い切ったりした従業員には退職勧奨するというゴリゴリのスパルタ人事であり、労組も事実上黙認していると聞いて驚いた記憶がある。
社会の真ん中に「日本国民はかくかくしかじかであるべし」みたいな模範像があって、そこから一歩でも外れたら自己責任として叩かれるような社会は御免こうむりたい。
自己責任論とは強者の論理、強者が弱者に手を貸さない理由
■ いつから何故、日本は「自己責任の国」になったのか
自己責任という言葉はもともと新自由主義的な市場用語でした。
「自己責任原則」という投資家がみずからのリスク判断で行った投資の損失は自身で被るべきという原則です。
そんな「自己責任」という言葉が最初に一般に普及したのは1990年代後半のことでした。
この時には阪神淡路大震災被災者の生活再建や不良債権問題を抱える銀行などについて政府やマスメディアが「自己責任」をかざしたのでした。
このころ世間を騒がしていたのは、銀行やノンバンクの不良債権問題でした。その経営責任を問う文脈で「自己責任」「自助努力」という言葉が多用され、それが被災者の生活再建をめぐる議論の中でも使われたのです。
自己責任論者たちは自分の信念を強化していき、弱者を叩くことを正当化しています。
例えば、シングルマザーや生活保護に関する投稿には必ず、「お前が悪い」という書き込みがあります。
女性が社会での辛さを愚痴っている投稿でも、同様の非難をされています。
現在、それが最も顕在化しているのはコロナウイルスによる数々の被害者に対してです。
コロナウイルスに感染した方、コロナ不況で職を失いそうな方、最前線で戦っているのに報われない看護師の方。
こうした弱者に対して、言葉の暴力が散見されます。
「自己責任」という言葉はいまや中高生のツイートでもよく見かけます。
弱者を助けることへの意識を持つうえで大切な役割を担っているのが宗教です。
キリスト教では「隣人愛」、イスラム教では「喜捨」(本来は仏教用語)、仏教では「因果応報」などで、弱者を助けることは強者がすべきことであるとどの宗教でも定めています。
だからこそ、西欧諸国やイスラム教国家では、寄付やボランティアが自然なものとして根付いています。
これに対して、儒教は「自己責任論」の色が強い”宗教”であると。
日本における「受験戦争」教育も自己責任論を強めていると考えています。
見せかけの平等を謳っているからこそ、受験戦争は自己責任論をかなり強化していると思います。
「勉強の機会が平等だ」という論調はいまだに見かけますが、親の経済格差や学力格差がそのまま子供の偏差値に影響するというのは統計的に明らかです。
なんで私たちはこんなに自己責任論から抜け出せないのだろう?
自己責任論とは強者の論理です。
なぜならば、強者が弱者に手を貸さない理由としてつくられているからです。
「お前が弱く苦しんでいるのはおまえ自身のせいだから、お前がどうにかしろ。私は手を貸したくない。」と、弱い者いじめを正当化しているのです。
日本は外国に比べて自己責任論者が多い
■ 「自己責任論」はアジア的?西洋的倫理観と自業自得
「自力で生活できない人を政府が支援する必要性がない」と考えている人の割合が、断トツに高い国が日本であるという結果があるそうです。
日本は外国に比べて自己責任論者が多いようです。
日本では貧困だけではなく、病気や事故でさえも、「自業自得だ!」とはき捨てられる場合が多くあります。
では、考えてもらいたいのですが、「マジメに頑張っている」人は必ず成功するのかというと・・・、どうでしょう?
誰もが練習さえすれば、ボクシングのチャンピオンになれる!!なんて事は無いのです。
お笑いの世界でも同じですし、ビジネスの世界でもそうなのです。
マジメに頑張った人が必ず成功するとは限らないのです。
自分たちが正しいから、間違った方は『餓死』してもかまわないというのは、現代の倫理観からすれば、野蛮なのです。
弱肉強食が進み「間違ったヤツは餓死してもかまわない!」という考えの人もいるかもしれません。
ただ、私たちの住む日本には「明日はわが身」という訓戒が、昔から残っています。
「自己責任」という言葉は、もちろん英語にも存在はします。
「You are on your own」とか「on one’s own responsibility」みたいな言い方をします。
欧米のお金持ちはよく、チャリティーパーティーをやったり、何トカ基金とか作ったり、社会に貢献しようとする人が多いように感じます。
また、施しを受ける人も、あまり躊躇せず受け入れているように思いますね。
当たり前のように。
遊んでいる(ように見える?)人が、突然お金持ちになって、そんな人たちから施しを受けなければならないような立場になるかもしれないのです。
そんな場合になっても、気持ちよく助けを受けられるように「貧困は自業自得だ!」なんて言わず、心に余裕を持つのが良いでしょうね。
日本に沸き返る「自己責任論」を海外は異常な状況だと見ている
■ 海外メディアは、“自己責任”バッシングを「異常」と批判
日本に沸き返る「自己責任論」を、海外のメディアは“日本の異常な状況”だと見ている。
フランスの高級紙ル・モンドは、日本に広がっていた自己責任論について、「人道的価値観に駆り立てられた若者たちが、死刑制度や厳しい難民認定など(国際社会で)決して良くない日本のイメージを高めたことを誇るべきなのに、政治家や保守系メディアは逆にこきおろしている」と強く批判している。
さらに、「社会秩序を乱した者は後悔の念を示さなければならないのが日本の習慣」と、その特異性をも伝えていた。
アメリカのニューヨーク・タイムズも同様だ。
日本国内の異常さを表現し、自己責任だと追い詰める日本政府の態度を「凶暴な反応を示した」と非難。
アメリカのワシントン・ポストも、自己責任論に言及している。
政治家たちの新自由主義的な自己責任の大合唱が国民に浸透し、いまではすっかり根付いてしまった。
「国が助ける必要はない」などという意見が、さも当然のようにまかり通る国になった結果、いまや保育園に入れないと現状の不備を訴えただけでも「子どもをつくった人の自己責任」と跳ね返す者が現れるような、冷淡な社会になってしまっているということを、よく考えるべきだろう。
「自助・共助・公助」という呪い
■ 「自助・共助・公助」という呪い
貧困の現場で活動している私なりに「自助・共助・公助」の言葉を通訳すると、
「自助」とは
「自助」とは「自己責任で自分でなんとかしろ」
「共助」とは
「共助」とは、
「一家心中するまで家族で助け合え」
「共倒れするまで地域で助け合え」
「公助」とは
「公助」は、「何もかも失わないと公的福祉は機能しないからやっぱり自己責任でなんとかしろ」
という意味である。
公助ということで言えば、以前から社会保障費は削減され、年金、医療、介護、生活保護などが引き下げられたり自己負担が増やされたりしてきた。
そのような社会保障費削減は、長い時間をかけてまずは共助を支える「家族」を痛めつけてきた。
一億総中流と言われた時代は多くの家族がセーフティネットの役割を果たせたが、「家族」「親」「実家」がセーフティネットになり得なくなったのだ。
だからこそ、2007年頃から「ネットカフェ難民」という形で比較的若い世代のホームレス化が始まったのだろう。
さて、それでは「共助」を支える「地域」はどうか。
「地方創生」などとブチ上げているが、規制緩和によって地方の衰退を進めてきた当人たちが今、「地方創生」とか言っていること自体が大いなる茶番にしか思えないのは私だけではないはずだ。
ちなみに政府は地方のシャッター通り対策として、空き店舗への課税強化という方針を打ち出してもいた。
なんだか年貢に苦しむ農民にさらに重い年貢を課す悪い殿様みたいな話ではないか。
このように、家族や地域の余力を奪ってきたのがこの「失われた30年」の政治だと思う。
それを奪う政治を先頭で進めてきた政党の人間が今、堂々と「共助」を持ち出すことに対して「いや、それ脆弱化させたの誰?」と突っ込みたくなるのだ。
そもそもこの国の「公助」がマトモに機能していれば、失業し、ホームレス化に晒される人々からのSOSが民間の支援団体にひっきりなしに届くはずなどないのだ。
本来であれば公助がフル稼働すべき時に自助ばかりが強調され、共助に対してなんの支援もなく「勝手に頑張れ」と放置されている。
そのような状況を知るからこそ、私にとっての共助は「一家心中するまで助け合え」「共倒れするまで助け合え」に思えてしまうのだ。
ここまで「自助・共助・公助」について書いてきたが、そんな私自身も「国に頼る」ことにはどこかで強い抵抗があるし、自分でできることはなんとかしたいと思っている。
だけど、コロナが予期できなかったように、人生、いつ何が起こるかなんて誰にもわからない。
そんな時に「公助」が機能していてほしいと思うのは、不確定要素が多い時代であればあるほど当然のことだと思うのだ。
私たちは税金を払っている。
だから行政にちゃんと仕事をしてほしい、というだけのことなのだ。
自助、共助、公助…、そして「自己責任論」の台頭
■ 自助、共助、公助…
「日本では2000年代ごろから、特に経済的な困窮にある貧困層に対して「自業自得である」という風に、窮地に立たされている人々の責任をいち個人のものに落とし込もうとする「自己責任論」が台頭しはじめた。
いま大きな問題となっているのは、このような風潮によって国民が「生活保護を受給することは悪いこと、貧困は恥ずかしいことだ」という認識を共有していて、本当に金銭的に困窮している人々でさえ生活保護の受給や公的支援にたどり着けないばかりか、助けを求めることすらできなくなっている社会の構造だ。
たとえ本人が生活保護を申請することを決意しても、行政の相談窓口で申請を違法に拒否される「水際作戦」により追い返され、公的支援を受けられず、必要な福祉に繋げられることもなく、路上生活を余儀なくされたり、孤独死するケースは跡を絶たない。
支援が行き届いていない状況や、「自己責任論」のもたらした悪影響がどれほど深刻なものかを知っていれば、「まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う」という言葉がはじめに出るはずもなかっただろうと思う。
ましてや、昨今では自己責任論が疑問視されはじめ、メディアやSNSなどで怒りの声が噴出しているなかでの発言は、弱者を切り捨ててきた政府の姿勢に対し、国民の反発がかつてないほどに高まっていることにも気が付いていないのかもしれない。
これでは、支援が必要なのにもかかわらず届いていない人に対し、行政などが積極的に働きかけて情報や支援を届ける「アウトリーチ」やセーフティネットの強化・拡充はしばらく見込めそうにもない。
既存の社会構造のなかで自分でやれることをすべてやりきってもなお、孤立し、公的支援にたどり着けずに死んでいく者たちから目を逸らしている政権が、「絆」などという美辞麗句を掲げ、これ以上国民にどんな「努力」や「助け合い」を求めるのだろう。
多くの人が経済的危機にさらされている状況下において、総理大臣が「自助」発言をしたことで、政権の関心がいかに貧困問題に向いていないのか、早くも露呈する事態となった。
そういう意味では、「私が目指す社会像。それは自助、共助、公助、そして『絆』であります」発言は、もっとも衝撃的で最悪なものだったように思える。
「自己責任論」が与える私たちの暮らしへの影響
■ 「自己責任論」が与える私たちの暮らしへの影響
実は、戦後間もない頃の旧生活保護法には、「自己責任論」が含まれていた。
受給要件を満たさない「欠格条項」があり、貧困に至った理由によっては救済がされなかった。
要するに、素行不良で怠惰な者は救わないというものだ。
しかし、何をもって素行不良とするのか、恣意的な判断がされるのではないか、などいくつも疑義が指摘された。
結局、生活保護における「欠格条項」は完全廃止され、現行生活保護法が1950年に誕生する。
とにかく、貧困事由を問わず、困っていたら保護をしたのちに、自立支援をおこない、自立を助長して行くというものだ。
いわゆる無差別平等の原理で保護を行うというものである。
現生活保護法の根幹理念のひとつといってもいいだろう。
なぜこの理念が重要なのかといえば、誰でも生活に困窮した場合に、保護の請求ができる権利を確立したということ。
要するに、誰でも困ることがあり、その際は権利があるのだから、保護を請求することができることを明確化した。
『誰でも』ということがとても重要だ。
皆さんも困ったときに、必要にもかかわらず、ああだこうだと言われ、救済されなかったら死んでしまうかもしれない。
実際には、「親族を頼れ」、「仕事を探せ」など状況を把握しないまま、福祉事務所が対応を誤り、餓死や孤立死に至った事例がいくつもある。
このような事態を防ぐために無差別平等の原理を掲げた。
だから、社会保障や生活保護は、「誰でも困る可能性がある」という事態を事前に想定した先人の知恵である。
しかし、この確立した国民の権利を自分たちから放棄しようとするのが「自己責任論」である。
困った時に救われなくてもいい。
自分はそのようなことにならない。
そんな風に思っているのだったら、大きな間違いである。
多くの生活保護受給者は「生活保護になるとは思わなかった。生活保護があって本当によかった」と口にする。
次はあなたの番かもしれない。
自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面がある
■ 貧しいのは本人のせい?エリートに広がる「自己責任論」、越えるには
生活が苦しい人のための政策を考えるとき、必ずと言っていいほどネックになるのが「自己責任論」です。
“貧しいのは本人の責任”、“努力しなかった本人が悪い”。
ものごとを選択する余地がある場合に限り、人びとは責任を問われるべきです。
パート主婦や専門・管理職をのぞいた非正規労働者はアンダークラスと呼んでいます。
収入が低く、雇用が不安定な人たちです。
アンダークラスの人びとに自己責任論は成立しません。
低賃金で不安定な仕事を社会的に強制されているのです。
自己責任論には表と裏、プラスとマイナスのふたつの側面があります。
プラスは「自分が恵まれているのは自分のおかげだ」、「自分が努力し、能力があったからだ」という側面です。
これがマイナスにはたらくと、「自分が貧乏なのは自分のせいだ」となります。
これは表裏一体の関係です。
新中間階級はこれまで勉強や仕事で成功してきた人たちです。
この人たちはまず、自身の成功をプラスの側面で考える。
「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という見方です。
そしてこの層の人々は、必然的に「貧しいのは本人の責任だ」となる。
そうしておかないと論理整合性がとれないのです。
こうして、強固な自己責任論が成り立ちます。
いまは恵まれた新中間階級でも、子どもがアンダークラスに入る可能性は十分あります。
大学を出てもいい仕事に就けるとは限りません。
また、子どもだけでなく、いま新中間階級の人たち自身が老後に転落する可能性もあります。
退職金は減っているし、年金の水準も下がっていきます。
いくらか貯金があっても大きな病気をしたら1千万円くらい簡単になくなります。
自己責任論は政治の世界ではいつから広がったか?
たとえば1990年代の末に内閣のもとで開かれた「経済戦略会議」の答申です。
この答申は「今まで日本は平等すぎて活力がなくなった。だから自己責任の社会にしよう」と宣言したものです。
本当はまさしくこの時期に、すごい速度で格差が拡大していたのですが、この傾向が今でも続いています。
格差対策を進めたいなら、まずは自己責任論を頭から追い出さないとダメです。
自己責任論の呪縛
■ 自己責任論の呪縛 「相談=負け組」発想の諸形式
男性は、精密機器メーカーの非正規労働者だったが、リストラで仕事を失ってホームレスになり、2日間に100円のパン1個という暮らしをしていると紹介された。
その中で彼が
「自分が悪い。それ以外の言葉はない」
と言ったところ、共鳴する書き込みが3日で2000件以上あったという。
「今の自分は努力しなかった結果だ。つい自分を責めてしまう」
「相談すれば負け組になる」
「1度でも助けを求めたらそこで終わり」……。
「自己責任論」のオンパレードである。
37才の女性。就職氷河期の1995年、化粧品会社の正社員として採用される。
が、成果主義の下、結果を出さないと「代わりはいくらでもいる」と罵倒される。
そのうちに母親が体調を崩し、世話をする必要に迫られる。
会社に迷惑をかけると介護休職もとらなかったが、結局、仕事を続けられなくなり会社を辞める。
女性は「助けてもらうという発想がなくて必死で走っていた」と話す。
北九州市の男性に支援の手を差しのべようとする、ホームレス支援NPOの代表は、
「リーマンショック以降、まだ家族との関係が身近にあると思われる若者たちが、家族の所に帰れないで自分が頑張るしかないと路上で佇む姿が見受けられた」
とし、その背景を
「彼らの中学生くらいからが自己責任論の時代で、責任を果たせない人間は人前にも、親の前にも立てないと、彼ら自身も呪縛された」
と見る。
「自己責任論は、社会の側や周りの人たちが助けないための論理」
だとし、
「生活保護とかハローワークとかの受け皿も大事だが、それをつないでいく人の役割がもっと大事。伴走的に支援して行くコーディネートの役割が社会的に保障されなければいけない」
と語る。
「迷惑かけるな。自己責任だ」という寛容のなさ
■ 何が餓死した女性の生活保護を遠ざけたのか
日本人って、誰かから相談をされたり、誰かの困りごとが自分に寄りかかってきたりすると、家族でも『迷惑をかけるな』っていう風潮がありますよね。
「迷惑」という言葉のもつ響きには、日本独特の文化や美徳に根ざした意識が影響しているのだろう。
しかし、そのことがかえって、コミュニケーションの大きな阻害要因になっている。
何か世間の常識とか漠然とした社会の正しさを疑わせる“迷い惑わし” に対して、いまの日本人は、異様な被害者意識を持ち過ぎだと思います。
“迷惑かけるな。自己責任だ”みたいな、寛容のなさがあるように思います。
家族でも学校でも社会でも、言いたい事が言えない。
人と違ったことや、ネガティブなことを言うと、すぐに否定され、排除される雰囲気がある。
力のある人に都合がいい、弱い人には厳しい社会。
確かに日本では、自分が傷つけられた当事者の立場であったとしても、つらかった体験や困っていること、悩んでいることなど、そのままの思いを口にしようするだけで、周囲から「迷惑をかけるから」という口実のもと、言葉を封じ込められる風潮がある。
こうして当事者が声を上げられないまま、その場を「なかったことにされる」ことによって、解決されない事態は長期化、複雑化し、そのことが結果的に当事者や社会を不幸なものにしているのではないだろうか。
傷つけられ、封じ込められて、声を発することのできなくなった当事者たちは、世の中の空気に敏感だ。
一旦、失われた言葉を再びどうやって紡ぎ出し、弱き者の声が届く社会の仕組みをどのように構築していけばいいのか、いま改めて私たちは問われている。
「人様に迷惑をかけるな」という日本的な美徳は、度が過ぎれば他人に冷酷
■ なぜ日本人の3人に1人は「自力で生活できない人を政府が助ける責任はない」と考えるのか
「日本の貧困対策がどれほど貧困かよく分かる数字」
自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人が日本では三人に一人以上もいることがアンケートでわかりました。
- 日本 38%
- アメリカ 28%
- イギリス 8%
- フランス 8%
- 中国 9%
- インド 8%
日本はなんという生きにくい国なのでしょうか。
「人様に迷惑をかけるな」という日本的な美徳は、度が過ぎれば他人に冷酷であることの裏返しでもあります。
日米以外の国におけるこの値は、どこも8%~10%くらいである。
イギリスでもフランスでもドイツでも、中国でもインドでもブラジルでも同様で、洋の東西、南北を問わない。
経済水準が高かろうが低かろうが、文化や宗教や政治体制がいかようであろうが、大きな差はない。
つまり“人”が社会を営む中で、自分の力だけでは生活することすらできない人を見捨てるべきではない、助けてあげなければならないと感じる人が9割くらいいるのが“人間社会の相場”なのである。
にもかかわらず日本では、助けてあげる必要はないと判断する人の割合が約4割にも達している。
日本は、“人の心”か“社会の仕組み”かのどちらかが明らかに健全/正常ではないと言わざるを得ない。
「コロナ感染は自業自得」政治家が自らの責任から逃げる手法
■ 「コロナ感染は自業自得」世界で最も他人に冷たい日本人の異様さ
日本では他の国よりも「新型コロナウイルスに感染するのは自己責任」と考える人が多いことが分かりました。
「感染する人は自業自得だと思うか」と質問をしたところ、「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」のうちのいずれかを選んだのは、アメリカで1%、イギリスで1.49%、イタリアで2.51%、中国で4.83%でしたが、日本ではこれをかなり上回る11.5%でした。
コロナウイルスへの感染について「自業自得だとは全く思わない」と答えた人は上記の4カ国では60~70%台だったのに対し、日本では29.25%にとどまっています。
日本で被害者が「トラブルを起こした人」という扱われ方をされてしまうことは珍しくありません。
事件や事故に巻き込まれた人が「自己責任」と叩かれることは日本では珍しくありません。
その根底には「普通の日本人はしないことをあなたはしたのだから、不幸に見舞われても自己責任」という考えがあります。
「自分の体は自分でコントロールできるものだ」という日本人の信念にはすごいものがあります。
これが宗教なのではないかと思うほどです。
風邪をひくことや病気をすることを日本では「周囲への迷惑」と考えがちです。
そのため日本では仕事の場などで「私が風邪をひくと皆さんに迷惑がかかりますから」だとか「私が倒れたりすると周りに迷惑がかかりますから」という旨の発言を聞くことがあります。
ドイツの学校では、授業中に具合が悪くなる生徒がいても、本人の責任を問うような発言は先生からも生徒からもありません。
「自己責任」が問われないのは学校に限った話ではなく、首相がクリスマス休暇中にクロスカントリーで転倒し骨折をした際は、その後3週間公務を控え、外国訪問や外国の首相との会談が延期になりましたが、ドイツで首相を非難する声は皆無でした。
「自己責任論」が強い日本の場合、マジョリティーの側にいる人間は「自分たちとは違う行動をするから、彼らは感染した」と考える傾向があり、日本の「自己責任」の風潮にますます拍車をかけています。
自分が元気なうちは、コロナに感染した人を「自己責任」と切り捨てることを当たり前だと思ってしまいがちです。
しかし、いつ自分が感染するかもわかりません。
他人に厳しくしていると、まわりまわって自分の首を絞めることになるので、「自己責任」という言葉の使用もほどほどにしておきたいものです。
世間に「責任は彼らにあるのだな」と印象づけることは、政治家が自らの責任から逃げる手法としては実に有効です。
自己責任論は責任転嫁論であり、責任転嫁論は自己責任論と同じ
■ 自己責任論と責任転嫁論て同じじゃないか
他人に責任を押し付けるのは簡単だ。
誰かの責任だと他人を責め立てて何が成し遂げられるのか。
自己責任論は責任転嫁論であり、責任転嫁論は自己責任論と同じでないか。
自己責任論ってどんどん拡大してない?
■ 自己責任論ってどんどん拡大してない?
主に批判派の手によって勝手に拡大されてる感がある。
そもそもの自己責任論って、「赤信号でわたって事故ったとか自己責任だろ」というような意味でしか使われてなかったじゃん。
それがいつのまにか「交通事故にあうのは自己責任って自己責任論者は言ってる」ぐらいになってる。
「自助」「共助」「公助」の本当の意味
■ 「自助」「共助」「公助」の本当の意味
実は多くの人が「自助・共助・公助」の意味を正しく理解していないのではないかという気がする。
「自助・共助・公助」、実はこの言葉はずいぶん以前から使われており、特に社会保障分野においては「自助・互助・共助・公助」として4つに分けるのが一般的だ。
戦後、高度成長時代となり、地方から大都市へ働きに行く若者が増えたことで核家族化し、大家族制を維持し、子供が親の面倒を見るというのは実質的にできなくなった。
そこで老後の面倒は社会全体で見るべきであるということで誕生したのが「共助」である公的年金制度なのだ。
公的年金が「公助」だと勘違いしている人もいるが、それは少し違う。
「公助」というのは、そういった助け合いの仕組みからも漏れてしまった人たちを最後に救うための手段であり、言わばセーフティーネットの役割である。
1つの例を挙げれば「生活保護制度」などがこれにあたる。
「共助」である公的年金制度は、そのメリットを享受する人たちが互いにその費用を負担し合うのが基本である。
すなわち公的年金の本質は「保険」であるから、保険料を払った人だけが年金を受給する権利があるのが当然なのだ。
よく言われるのは「公的年金」の役割は“防貧”、すなわち年をとって働けなくなった時に収入がなくなって貧困に陥ることを防ぐのが最大の目的であるとされる。
これに対して生活保護などの「公助」は言わば最後の砦であり、その重要な役割は“救貧”すなわち貧困に陥ってしまった人たちを救うことにある。
最初から生活保護を受けることを目的にしている人などいないわけであるから、保険料などというものが存在しないのは当然だ。
何らかの理由で保険料も払えず、公的年金が支給されなくなってしまった人を救うには当然、国民全体で負担している税でまかなうのが自然な姿であろう。
したがって、「老後の生活を支える」という目的を考えると、現在の社会において、一番の基本は「共助」ということになる。
昔、「共助」が無かった時代は「互助」(子供や家族、親族が支える)が中心だったが、社会構造の変化と共に「共助」がその役割の中心を担うことになったと言えるだろう。
これは年金だけでは無い。
介護も昔は家族の経済的負担が大きい「互助」が中心だったが、次第にそれが困難となってきたので、「介護保険」が誕生したのである。
現在はもはや「互助」という機能はごく限定的となっているため「自助・共助・公助」と言い換えても差し支えないと思う。
あくまでも土台となるのは制度的には「共助」であるが、それ以上に自分で豊かな老後をおくりたいと考えるのであれば「自助」によって資産形成をすれば良いし、仮に共助の枠組みから外れてしまう人に対してはセーフティーネットである「公助」が起動し始めるというのが社会保障全体の仕組みなのである。
したがって「自助・共助・公助」を社会保障の面に限って言えば、ど真ん中に「共助」が来て、その両脇を残りの2つが支えるという構図となろう。
もちろん、生きていく上で全てを「自助」でまかなうことは不可能だ。
高齢で働けなくなったり、病気になったり、あるいは介護を受ける必要が出てきた時には「共助」という仕組みを使うことになる。
但し、この共助=社会保険という仕組みは、社会全体で負担をまかない、必要な人にサービスを届ける“保険”の役割であるから、その便益を受ける人が一定の費用負担をすることは当然である。
ところが、不幸にしてそうした費用負担すらできなかったという人たちもいる。
そうした人たちに対して最後に機能するのが「公助」なのである。
これはまさにセーフティーネットであり、具体的には高齢者福祉や虐待の防止といった人権擁護の対策、そして生活保護といった、生きていく上での最低限の生活保障が「公助」の役割なのだ。
「公助」の財源は保険料ではなく税金である。
税収を増やすためには経済が成長し、個人のベースにおいては給料が上がることは不可欠である。
自助努力と言うが、「頑張れなかった人」は報われなくてよいのだろうか
■ 努力という才能
「他人にどこまで努力を求めてよいか?」という問題は結構微妙になる。
例えば、Aさんは努力すれば1日16時間の勉強ができる。
一方で、Bさんはどんなに努力しても1日3時間の勉強がやっとだ。
この場合に、BさんをAさんよりも「努力していない」と考えるのは妥当だろうか?
日本は、「努力の結果ついた差については許容しよう」という考え方で社会が回っている。
しかし、「努力の才能」がなかったために、他の人より結果が著しく悪くなってしまった人を「自業自得」と考えるのは正しいのだろうか。
たしかに、頑張った人は報われるべきだろう。
それは間違いない。
では、「頑張れなかった人」は報われなくてよいのだろうか。
責任は、きちんとした判断能力が無いと俺は悪く無いと主張してしまうもの
■ 何でもかんでも他人の責任にできるもんですよ
責任ってのは、きちんとした判断能力が無いと、正解に、全くたどりつけないで、結局、何もかも上手くいかないで、失敗して、俺は悪く無いと主張してしまうものでしょう。
最近の日本では、どんどん、他人の責任にして生きている人たちが増えているし、そういう考え方の方が正しいと教えている気もするし、それが、正解だと勘違いしている気がします。
自分のことを中心に考え、分からないことでも適当に想像して判断している人が多いような気がします。
経営が悪化して、リストラしたり、工場を閉鎖したり、施設を売却したりと、会社を立て直そうとしている所が多いと思いますが、何か変じゃない?ってことです。
じゃあ、リストラされた人は?
工場が閉鎖されたら、その近辺の人たちは?
施設を売却って、無駄なことをしていたの?
元々、経営が悪化したのは、誰の責任なの?
何故、ひどくなる、もっと前から立て直せなかったの?
と言う疑問が浮かんできます。
工場だったら、運送会社とか、工場の近くに営業所があったけど、それが無くなったり、食堂の業者も大変だろうし、近くの下請けの工場も仕事が無くなると、、、、
工場を閉鎖して、リストラ何人とか他人ごとのように、自分が責任が全くないような感じで、平気で言ってますが、実際には、数字で表せない人もたくさんいるんですよね。
「お前が全部悪い」ブラック企業の搾取ワード
■ 「お前が全部悪い」ブラック企業の搾取ワード
ブラック企業から社員に対して、どのような働きかけがなされているのでしょうか?
よくみられるのが「自分が悪い」と思い込ませる目的で、上司が部下に声をかける事例です。
類似するフレーズとして「お前は努力が足りているのか」「この程度の働きしかできなくて、悔しくないのか」といったものも。
業績が上がらない原因を労働者の人間性に求めることで、働き方の検証を拒もうとする意図が共通しています。
このような声かけが、標語の形を取って行われることもあります。
ブラック企業による労働者の取り扱いは、いかにも過酷です。
しかしその源流をたどっていけば、ごく一般的な日本企業の労務管理に行き着くと強調します。
「昇進などを判断する上で、『査定』という手法がよく使われますよね。あれは業績ではなく人格の評価なんです」
「サービス残業をどれくらいしているか、といった点が『頑張り』とみなされる。ブラック企業同様、非常にスピリチュアルな世界です」
「頑張り」は曖昧な概念で、その範囲が際限なく広がる恐れがあります。
一方で企業は、働き手の努力に終身雇用や昇給で報いてきました。
しかし経済状況が変化し、従来の関係性が崩れ、企業の命令権だけが肥大化したといいます。
「ストライキや団体交渉で、企業側に改善を促すことは大切です。でも『今以上に頑張るから賃金を上げて』と言っても意味が無い」
「『これだけの仕事をしたら、これくらいの賃金を払って下さい』と、企業や職業の枠を超えて訴える必要があるでしょう」
むちゃな働き方を社員に強いるブラック企業。
その成立過程には、個人の心がけを過度に重視する仕事観と、それを労働者の意識に刷り込む巧みな言葉遣いがありました。
こうした構造に気付くことが、状況を変える一歩になるのかもしれません。
過度な自己責任意識を社員に生じさせる経営理念
■ 会社を辞めたくても辞められない…退職妨害、なぜ増加?転職妨害、脅迫行為…
創業者は24時間365日働いてきたので、社員に対しても「俺みたいに働け」と労働基準法を無視して仕事を強要しがちです。
理念や口上をセミナーなどを通じて社員に浸透させ、会社に順応しやすい人間にしてしまうのです。
そうなると、社員には辞めたいという思いがあっても、なかなか口に出せなくなってしまいます。
「社長に叱られる自分が悪い」
「ノルマを果たせない自分が悪い」
という過度な自己責任意識が生じてしまうからです。
そういう企業で社員が「辞めたい」と口にすると、経営者は怒りだします。
社員は自分の分身だと思っているので、「俺を裏切るのか」「俺に足向けするのか」という心境になって、異常に怒りだすのです。
上司は、部下に辞められると自分の責任になると思っていたり、自分の評価が下がると思っていたりして、必要以上に部下をとどまらせています。
社員を使い捨てにする企業でも、理不尽に辞めさせない企業でも、経営者や上司の心理状態は同じです。
どちらも社員を使い潰しているのです。
辞めさせない企業も、ブラック企業であることには変わりありません。
ブラック企業を見分けられなかったことも自己責任なのか?
■ 「日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?」
若者からの相談は、本当にひどいものばかりだ。
たとえば、入ったばかりの会社で、いきなり「使えない」と言われて、イジメがはじまる。
そしてうつ病になり、「自分から辞めるしかない」状態に追い込まれる。
あるいは、入社した会社で長時間のサービス残業を求められる。
休日に出勤を命じられることもある。
それでも「自分は甘い」と思って頑張ってきたけれど、もう身体も心も限界だ、といった相談。
こうした状況に追い込まれても、私たちは「自分が悪い」「どうしようもない」としか考えられない。
どんなにそれが違法な状態でも、相談に来る若者が「会社が悪い」と考えていることは、めったにない。
だが、みんな「おかしい」と思っているはずだ。
いくらなんでも、日本の「労働」には無理がある、と。
最近では、ようやく「ブラック企業」という言葉が世の中に広がってきた。
若者のひどすぎる職場環境が、やっと社会問題になってきたのだ。
しかし、マスコミの論調は、「ブラック企業を見分けろ」というものばかりだ。
正直、「見分け方」ばかりの論調には疑問を感じている。
単純に考えてわかることだが、いくら努力したところで、見分けるのには限界があるだろう。
どんなに対外的に「いいこと」を言っていても、その会社に入ってみるまでは、わからないことだらけだ。
また、見分けたところで、ブラック企業からしか内定が取れなかったら、結局、入社するしかない。
「見分けろ」という議論は、ヘタをすると、「見分けないやつが悪い」「ブラック企業にしか入れないやつが悪い」と、ブラック企業を正当化することにもなりかねない。
これでは、せっかくブラック企業が社会問題になってきたのに、私たちの苦しさは何も変わらないではないか。
それどころか、「見分けろ」という圧力が、さらなる負担となって私たちにのしかかってくる。
「生活保護叩き」に走る人は苦しい人が多く、自己責任論を内面化している
■ 「生活保護リアル」
今日では、失敗すること、敗北することは、自己責任で招いた結果とみなされる。
特に貧困状態に陥ってしまったら、誰に言われなくても「自分の能力のなさが招いた結果」と考えて自責しがちだ。
「能力主義」「自己責任」「自己選択」・・・
どれも、資本主義社会のもとでは、当然であり、好ましいものとみなされている。
「頑張ればなんとかなる」という文化。
裏返せば「なんとからないのは、頑張らなかったからだ」という文化だ。
そして、精神的にも経済的にも追い詰められた人々が、精神を病み、精神科へと流れ込む。
いわゆる「生活保護叩き」に走る人々は、どのような人たちなのだろうか?
そういう人たちのなかには、苦しい人が多いんです。
がんばっていたりする人です。
恥の意識が強くて、自己責任論を内面化しているんですね。
自分は必死でがんばっていますから、「なぜ、あいつは」と思ってしまうんです。
しかし、その「苦しい人」たちは、実のところ、自分の首を締めているだけではないだろうか?
自分がいつ頼らざるを得なくなるかもしれない生活保護制度の改悪を望み、生活保護受給者を攻撃するということは、自分の生存の基盤を切り崩し、近未来の自分を攻撃するということになるのではないだろうか?
人間と人間との関係は、なんらかの形で「助け合う」ことで成り立っている。
そのように考えることができたら、世界はどれほど豊かに感じられるだろうか?
「自己責任」のなかで育ち、助けを求めようとしない30代が増えている
■ 「助けてと言えない - いま30代に何が」
90年代に入ると、バブル崩壊とともに長期低迷が続く。
経済は収縮し、企業は合理化を進めた。
いまの30代は自分でなんとかしなければならない「自己責任」の風潮のなかで育ってきたといえる。
私たちは、助けを求めようとしない30代が増えていることを知った。
「家族に迷惑をかけられない」
「自分で仕事を見つけて何とかする」
彼らはまさに「自己責任」として自分を責め、誰にも相談せず、家族や友人、地域とのつながりを断ち切って孤立していた。
一度の失敗やきっかけで人生がうまくいかなくなったとき、そこから這い上がることが容易ではないことを、当事者たちは語っている。
30代の姿には、いまの社会が映し出されている。
自分の責任。
自己責任。
「彼らは、本当はギリギリのところまで追い詰められているんだけど、まだ自分で頑張れると思って、自分で頑張っている人たちなんだと思う」
「彼ら自身の思い込みかもしれないけど、僕は社会がそうさせていると思うんですよね」
「自己責任論ということを社会は言ってきた」
「この社会が、自分の責任だと言い続けてきたんですよ」
「だから、本当に苦しい状況になっても、それは自分の責任だと」
「自己責任」に埋没した結果、助けを求められない人は非常に多い
■ 「ルポ 若者ホームレス」
そもそも彼らはなぜ「助けて」と言えないのだろう?
彼らは「自己責任」という言葉をたびたび口にする。
ホームレス状態にあるのはすべて自分のせいだから人に頼ることはできないし、頼るつもりはないという姿勢を決して崩そうとしない。
「自己責任」にこだわり、他人の介入を拒否し、関係を断ってしまったのとは裏腹に、孤独や不安に押しつぶされ、今にも砕け散ってしまいそうな心がある。
「自己責任」に埋没した結果、助けを求められない、求めようとしない人は非常に多い。
しかし、心が折れそうな時、誰かの助けが必要な時、声を上げなければ、周囲の人たちはその声に気づくことはできない。
聞き取り調査の際、「行政や社会への不満や望むことは?」という質問を投げかけた。
セーフティネットの欠陥や派遣切り等に対する不満が挙げられると思っていたが、「特にない」と答えた人が圧倒的だった。
むしろ、大半の人が、現在の状況は自分の性格や過去の行いが招いたものだから、社会に責任はないと「反省の弁」を口にしている。
苛酷な現実の中で、自ら「助けて」とサインを出せない若者ホームレスたちが大勢いる。
「自己責任」や「自業自得」と「いす取りゲーム」の問題
■ 「おっちゃん、なんで外で寝なあかんの? ― こども夜回りと「ホームレス」の人たち」
野宿をしたことのない多くの人たちは、こう言うことが多いのです。
「まじめに生活していれば、ホームレスになんかなるはずがない」
「野宿するようになったのは、その人の努力が足りなかったからだ」
もちろん、野宿をするようになるときには、人によってちがういろいろな理由があって、みんな同じではありません。
(たとえば夫の暴力や、けがや病気という原因の場合もあります)
でも、「野宿するようになったのは、その人の努力が足りなかったからだ」という人は、いろいろな原因をひとつだけにまとめて「本人が悪い」と言うのです。
それを、よく「自己責任」とか「自業自得」などと言います。
そして、ときには野宿をしている人自身も、「野宿をするようになったのは自分が悪かったからだ」と言うこともあります。
いすが3つあって、そのまわりに5人の人がいるとします。
そして、音楽が続いている間はいすのまわりを歩いて、音楽が止まるとパッとすわります。
この場合、3人がすわって2人がいすを取れません。
このとき、Aさんがいすを取ったとします。
Aさんは「わたしは人よりがんばった。だからいすが取れたんだ」と思うかもしれません。
そして、Bさんがいすを取れなかったとすると、Bさんは「わたしの努力が足りなかったからいすが取れなかった。だから自分の責任だ」と思うかもしれません。
この場合、いすは「仕事」にあたります。
仕事がなくなれば、収入がなくなって、いずれは家賃がはらえなくなって、最後には野宿をするようになります。
これは、それほど金持ちではない多くの人にとって、そうなってもおかしくない話です。
こうして、どんどん「いす取りゲーム」をしていくとします。
ここで、ゲームの参加者みんながいまの100倍の努力をしたらどうでしょう。
その場合でも、いすの数は3つですから、もちろん3人しかすわれません。
では、全員がいまの1万倍、あるいは100万倍がんばって走り回ったとしたら?
それでも、誰かがいすを取れば、誰かがすわれないだけですから、当然なんの変わりもありません。
つまり、いすを取れるかどうかは「個人の努力の問題」ではなくて、「いすの数」と「人間の数」の問題なのです。
いすの数や人間の数は、もともとゲームをはじめるときに決まっているので、このような問題のことを、「構造的な問題」と言うことがあります。
昔とくらべると、仕事のない人の割合が日本でどんどん増えていきました。
これは、「いす取りゲーム」でいうと、人の数にくらべて、いすの数が減ってきた状態になります。
こうして、いす(仕事)がなくなって、野宿をする人が増えたのだと思います。
決して、「努力の足りない人」や「野宿の好きな人」が日本で急に増えたからではありません。
けれども、いすを取れなかった人が「取れなかったのは、自分の努力が足りなかったからだ」と考えてしまうように、野宿をするようになった人自身も「自分の努力が足りなかったからだ」とつい考えてしまうのです。
「野宿をしているのは自業自得だ」と言う人は、野宿をしている人たちの話をよく聞いてほしいと思います。
そして、本当にその人だけの問題だったのか、「いす取りゲーム」のような問題もあるのではないかと、一度考えてほしいと思います。
努力信者と自助努力や自己責任
■ 「マジメすぎて、苦しい人たち」
日本人には、「努力すればものごとは改善する、解決する」と思い込んでいる人がたくさんいます。
たしかに努力も大事ですが、努力だけですべてが解決すると思い込む「努力信者」になってしまうのは問題です。
「自分が努力さえすれば何でもできる」という考えは、裏を返せば悪いことが起こったとき、「責任はすべて自分にある」ということになります。
正論が通用しない日本の組織で見られる自己責任とは
■ 「「一体感」が会社を潰す」
権限のある人が、その権限を使ってビジネスを行い、成果をあげれば報酬を受け取り、失敗すれば責任を問われるというのが正論です。
ところが、この正論が通用しないのが日本の組織です。
権限は与えられず、責任だけとらされる組織にいるメリットはゼロです。
権限と責任が不釣合いな組織では、誰もリスクをとりたがりません。
誰もリスクをとりたがらないのですから、当然、リターンもない、じり貧の組織になります。
「挑戦しよう」
「新しいことにチャレンジしよう」
といくら掛け声をかけたとしても、思ったとおり自由にやらせてもらえず、失敗したら責任をとらされることがわかっているのですから、誰もそんな挑戦などしません。
自己責任は「ルールのないまま一方的に責任だけを押しつけられる」こと
■ 「(日本人)」
日本では、いったん「責任」を負わされ、スケープゴートにされたときの損害があまりにも大きいので、責任を逃れようとする。
その結果、権限と責任が分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからなくなる。
呪術的な無限責任の国では、自己責任は「ルールのないまま一方的に責任だけを押しつけられる」ことと同じだ。
これでは、人々が自己責任論を忌避するようになるのも当たり前だ。
だが、責任をとれない社会には致命的な弱点がある。
組織のなかに統治(ガバナンス)の構造をつくることができないのだ。
日本の組織では権限と責任は分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからない。
一歩間違えれば無限責任を追及される閉鎖的なムラ社会では当然の自己防衛策でもある。
誰もが責任をとりたくない社会では、全員の総意で、誰も責任をとらなくてもいい組織ができあがるのだ。
このような組織は、「責任」を免れることができない重大なトラブルが起こると機能を停止してしまう。
トラブルを表に出せば”無限の”責任をとらなくてはならないのだから、残る選択肢はトラブルを隠蔽し、外部には知られないように隠密裏に処理することだけだ。
自己責任の「責任」とは何か
■ 「生きる力をつける ドイツ流子育てのすすめ」
日本では「責任」という言葉をよく耳にするが、それは、「上」の人が「下」の人に対して(先生が生徒に対してとか上司が部下に対して)のみ使っている言葉に思えてならない。
ドイツの場合、「上」へ行けばいくほど「責任」が問われるという考えが強いため、「下」の人が「上」の人に対して「責任、責任」とうるさく言うことはあっても、逆はあまりない。
日本の場合、自分や組織のやり方を「下」に押しつけるために、「下」の人に「責任をとってくれ」云々と言っているように思えてならない。
ドイツの場合「義務」と「権利」はセットになっていると言っていい。
一方日本の場合は、義務が多く権利主張は立場の上の人や目上の人から「ワガママ」と片付けられてしまうことが多い。
ドイツ的な考えでは、「上」へ行けばいくほど義務も多くなるのは当たり前だが、それに「下」の人を巻き込もうとはしない。
例えば、社長は残業しても部下は17時には帰ってしまう。
ところが日本は「下」の人に「義務」をたくさん押しつけたがる。
(社長が帰るまで部下が帰れないなど)
「義務」や「責任」というのは一応は訳すことはできても、その意味合いは両国でかなり違う。
意味合いというより使われる場面が違う、と言ったほうがいいのかもしれない。
これは教育現場でも明らかだ。
日本人が子どもに言う「責任」とは、イコール「人に迷惑をかけないこと」である。
欧米人には何が迷惑になるのかの幅がものすごく広いように感じられる。
例えば自分一人だけ違うことをするなど、ドイツ人から見たら何でもない行動が、日本人にとっては「わがまま」や「協調性がない」となってしまうのだから、同じ単語でもその違いには驚く。
ドイツ語で言う「権利」は、「あるもの」そして「通すもの」である。
例えば、有給をとる権利が法律上あるならば、必ず有給を全部とる、ということだ。
日本の場合、「権利」とは名ばかりで、立場や複雑な人間関係が優先され、使えない(通せない)ことがよくある。
また、日本では、「権利なんていう言葉は、一人前になってから言え」というお説教もよく聞く。
失敗から学ぶ機会を逃してしまう組織の中の自己責任
■ 「医療事故 ― なぜ起こるのか、どうすれば防げるのか」
事故は個人が起こすものではなく、組織の中で起こるものですから、個人に責任を押しつけて処分し、それで片付けてしまうやり方では、事故を起こしやすい組織の体質はそのまま残ってしまいます。
一方、自分の責任を認め、事故の経過や状況を正直に明らかにしたばかりに、それが証拠となって処分が重くなるということになれば、その後は、
「事故を否定する」
「不都合な点はできるだけ隠す」
ようになってしまいがちになるのは、人間の心理の面から明らかです。
同様に、組織についても、事故後に組織が自発的に事故調査をし、自らの組織の問題点を明らかにして発表することによって、かえって重い処分を受けるということになれば、以後、「できるだけ隠す方が得」となってしまいます。
それでは「事故から学ぶ」ことができなくなり、安全な組織に改善するチャンスを逃すことになるでしょう。
自己責任や自業自得とは?自助・共助・公助との関係って?
(パート2)
んでー、例えばこんなのからも・・・
自己責任や自業自得って、何なんだろーか?
自己責任の「責任」って、何なんだろーか?
誰に対する「責任」なんだろーか?
誰が誰に対して要求する「責任」なんだろーか?
何をしていたら、「責任」をとったことになるんだろーか?
何をしていなかったら、「責任」をとったことにはならないんだろーか?
自業自得って、どーゆーことなんだろーか?
自業自得と言い切れる根拠はなんだろーか?
自己責任や自業自得なのかそうでないのかって、何を基準に誰が判断するんだろーか?
何をしていたら自助努力をしていて、何をしていなかったら自助努力をしていないって評価されちゃうんだろーか?
自助努力の「努力」って、何なんだろーか?
何をしていたら「努力」をしていることになって、何をしていなかったら「努力」をしたことにはならないんだろーか?
自己責任や自業自得を他者に要求するメリットやデメリットって何なんだろーか?
それは誰にとってのメリットやデメリットなんだろーか?
自助・共助・公助って、何なんだろーか?
自己責任や自助努力と、自助・共助・公助との関係って何なんだろーか?
どんな状況だったら自助が適していて、どんな状況だったら自助が適していないんだろーか?
どんな状況だったら共助が適していて、どんな状況だったら共助が適していないんだろーか?
公助が必要になる時って、どんな時なんだろーか?
それは誰がどんな基準で判断するんだろーか?
何のための自助・共助・公助なんだろーか?
誰のための自助・共助・公助なんだろーか?
などなども含めて、念のために一応考えてみるのはどーでしょう?
(。・ω・。)ノ
自己責任とは?
○ コトバンク
- 自分の行動の責任は自分にあること
- 自己の過失についてのみ責任を負うこと
○ はてなキーワード
自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないという大人の掟。
自己や組織などが自らおこなった行為に対して負うべき社会的な(つまり、対外的な)責任。
自分の責任をとらずに他人になすりつけて逃げる口実。
マスコミ等が自己責任という用語を用い、損失(害)の最終的帰属先の「責任」を表現することがあります。
それは多分に、弱者に被害がしわ寄せされることを揶揄し、比喩的に表現したものでしょうが、誤用と云わなければなりません。
自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはない、と言うことです。
従って他に、責任を負う者が居るのに、事実上全責任を負うことを強いられている者の「責任」を意味するものではありません。
○ ニコニコ大百科
自己責任とは、自分の責任の事。
またそこから発展した「自分が起こした行動の責任は自分で取る」という考え方。
「責任」とは、己の意思で決めた行動から来る結果に応答・対処する義務と定義されるが、わざわざそれに「自己」を付け強調する、いい意味でも悪い意味でも(大半は後者だが)日本人らしい言葉。
抑も自己責任は、自己、自分自身の行動により発生する影響は、自分がとらなければならないという考え方であり、他人はその内容に関し一切関わらないという主張を指す。
自己責任という語感だけ捉えて都合よく適当に使いまわされた為、現在では、他者に影響しない行動であることをアピールし自分への影響を拒否する場合や、連帯責任者が決まっていない連帯責任行動を行う事を、形式上注意しておく場合等に用いられる。
○ Weblio辞書
自己責任という詭弁は現在、多岐に亘るレトリックとなっている。
反対の意味の語として「連帯責任」がある。
第一に、「自己の危険において為したことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う」という意味がある。
「お互いに他人の問題に立ち入らない」という大義名分によるものである。
アメリカ社会における名目上の国家観に立脚した行政改革・司法改革による事後監視、事後救済社会における基本原則の一つである。
もっとも、この原則は十分な情報と判断能力がない場合には妥当しない。
第二に、「個人は自己の過失ある行為についてのみ責任を負う」という意味がある。
個人は他人の行為に対して責任を負うことはなく、自己の行為についてのみ責任を負うという近代法の原則のことである。
責任とは?
○ ウィキペディア
近・現代に用いられている責任(英:responsibilityという用語・概念は、元をたどればラテン語のrespondereレスポンデレ(答える、返答・応答する、英語ならばrespond)に由来しており、-ityの形では、何かに対して応答すること、応答できる状態、を意味している。
respondereという語自体は古代ローマ時代には、法廷において自分の行為について説明したり弁明したりすることを意味していた。
責任とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。
責任とは、社会的に見て自由があることに伴って発生する概念である。
自由な行為・選択があることに伴い、それに応じた責任が発生する。
責任の概念は、他のことを意志できること、少なくとも意志したとおりの行為を為すことができるという意味での自由意志の概念を前提としている。
そのため、責任という概念は、伝統的に自由意志の概念とも結び付けられてきた。
現代の社会において、ひとりひとりの人間は、何らかの自由を行使し行為を選択する際には、その自由に応じた責任があると認識・自覚する必要がある。
連帯責任とは?
○ ウィキペディア
連帯責任とは、同一債務について複数の者が連帯して責任を負うことをいう。
○ コトバンク
多数の者が共同で責任を負うこと。
法律用語として、憲法上用いられる場合と民事法上用いられる場合とがある。
憲法上用いられる連帯責任
憲法上では、内閣の連帯責任、つまり内閣が一体として議会に対して負う政治的責任のことをいう。
国務大臣の全体が内閣を組織するということになると、内閣が統一的に行動することが必要であり、そのため内閣は行政権の行使について一体として責任を負うことがたてまえとされる。
だれに対して責任を負うかは、統治構造によって異なるが、多くは議会に対して責任を負うとされ、とくに議会の信任を存立の基礎とする議院内閣制の場合は、内閣総理大臣を中心に内閣が一体として議会に対して責任を負うことが必然的となる。日本国憲法も「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」(66条3項)と定めた。
民事法上用いられる連帯責任
民事法上では連帯債務と同義に用いられ、連帯債務者の負う責任をさす。
自業自得とは?
○ はてなキーワード
仏教ですべての不結果は、以前に自分が行った良くない行為の報いに基づくとする考え方。
○ goo辞書
自分の行いの報いを自分が受けること。
一般には悪い報いを受ける場合に用いる。
自分の行いの報いが、自分に返ってくること。
もとは仏教の語で、自分のした善悪の行為で、みずから苦楽の結果を招き受けること。
○ ニコニコ大百科
仏教用語の自業自得の意味は「自らなした業の報いは自分で受けなければならない」というものである。
ちなみに、自業自得の「得」は「得をする」という意味ではなく「(報い)を得る」という意味である。
「自己責任」、「藪を突いて蛇を出す」、「ミイラ取りがミイラになる」などがイメージとして湧きやすい。
自助努力とは?
○ コトバンク
他を頼らず、自力を尽くして物事を成し遂げようとすること。
○ Weblio辞書
自分で努力に励み、困難の解決や成長を独力で進めていくこと。
努力とは?
○ コトバンク
ある目的のために力を尽くして励むこと。
力をこめて事をすること。
あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。
また、それに用いる力。
自助・共助・公助とは?
○ 防災・危機管理eカレッジ
災害への備えを考えるとき、「自助」「共助」「公助」の3つに分けることができます。
「自助」とは、災害が発生したときに、まず自分自身の身の安全を守ることです。
この中には家族も含まれます。
「共助」とは、地域やコミュニティといった周囲の人たちが協力して助け合うことをいいます。
そして、市町村や消防、県や警察、自衛隊といった公的機関による救助・援助が「公助」です。
○ 防災対策の三助「自助」「共助」「公助」とは?
自然被害を最小限に抑えるためには、「自助」「共助」「公助」の3つの要素がうまく機能することが重要だと言われています。
「自助」自分で自分と家族を守る
自助とは自分自身で切り抜けることを指します。
防災において、家具の固定や耐震シートの貼付けを行い転倒を防止する。
寝起きする場所の周りに家具などを置かない、もしもの際の防災バッグなどを準備しておく。
また、水害に備えて側溝の掃除を心がけるのも、大切な備えです。
そのほかにも日頃から、防災マップやハザードマップで地域の特性や避難場所の把握を行い、災害情報の収集方法や災害時の情報伝達方法を確認しておくことで、もしもの時の行動に役立ちます。
備蓄は避難生活を想定し保存できる食料や水を準備しておくことも重要です。
「共助」地域の人達や地域団体、事業者が助け合って守る
大規模災害では特に周囲との、さまざまな助け合いが大きな力になります。
地域の自治体が実施している防災訓練には参加するなど日ごろの防災意識を高めるとともに、日常的に近所の方々とのコミュニケーションを図ることを心がけるようにすることも大切です。
「公助」市役所や消防・警察などの公的支援
各都道府県、市町村では、それぞれの地域に応じた防災計画や避難場所、防災マップなどを提供しています。
それらの内容を確認しておきましょう。
自助とは?
○ goo辞書
他人の力によらず、自分の力だけで事を成し遂げること。
○ コトバンク
他人の助力に依存しないで、自分の力で事を行なうこと。
他人を招いて自分の助けとすること。
共助とは?
○ goo辞書
互いに助け合うこと。
互助。
○ 意味解説辞典
「共に助ける」と書いて、「共助」。
その言葉の通り、互いに助け合うことを意味する言葉です。
互いに助け合う仲間は、近隣を指すことが多く、自分の家族を含め近隣住民みんなでお互いに助け合うことを「共助」と言います。
「共助」を行うことで、万が一の災害時でも近隣の人同士、声を掛け合い助け合うことができます。
また、「共助」の場合、年金などによりともに助け合うといった意味として用いることが多くなります。
同じような意味を持つ言葉には、「協働」、「コラボレーション」、「共同」、「コラボ」、「協力」などがあります。
互助とは?
○ goo辞書
互いに助け合うこと。
相互扶助。
○ 意味解説辞典
「互いに助ける」と書いて、「互助」。
その言葉の通り、互いに助け合うことを意味する言葉です。
家族や仲間、近隣住民といった輪でお互いに助け合うことが「互助」なのです。
なにか賃金が発生するものではなく、人が人を思いやる無償の気持ちが「互助」となるのです。
同じような意味を持つ言葉には、「支え合い」や「相互依存」、「持ちつ持たれつ」、「助け合い」、「いたわり合い」などがあります。
相互扶助とは?
○ goo辞書
お互いに助け合い支え合うこと。
互いに助け合う協同精神のこと。
公助とは?
○ goo辞書
公的機関が援助すること。
特に、個人や地域社会では解決できない問題について、国や自治体が支援を行うこと。
三助とは?
三助(さんじょ)は、江戸時代中期に財政破綻していた米沢藩を建て直した大名上杉鷹山が掲げた国家の方針・国家政策・精神。
自助・共助・公助による「三助の思想」「三助の精神」とも知られる。
- まず自力で努力する「自助」
- 次に家庭・近隣の地域社会と年金・公的保険・民間保険等の保険料積立で助け合う「共助(互助)」
- 最後に国・地方自治体などの行政が社会全体による租税でカバーする「公助(扶助)」
のこと。
自己責任や自業自得とは?自助・共助・公助との関係って?
(パート3)
うーむ・・・
どっ・・・、どーでしょう???
「そっ・・・、そーだったかのかー! ガ━━(= ̄□ ̄=)━━ン!! 」
「だからかー!!だからだったのかー!! ヾ(.;.;゜Д゜)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「自己責任とか自業自得とか自助努力とかって、実はそーゆーコトだったんだ・・・ Σ( ̄ロ ̄lll) 」
「自助・共助・公助との関係って、本当はそーゆー意味だったんだ・・・ \( ̄▽ ̄;)/ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「何でもかんでも自己責任だ!とか自業自得!とかって言っちゃうのって、やっぱ疑問や違和感を持っちゃうよなー・・・ (・_・;) 」
「自分に対して自己責任とか自業自得とかって自ら思うのはともかくとして、他者に対して自己責任とか自業自得を強制しちゃうのはさすがにどーかと思うよなー・・・ ( ̄▽ ̄;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「自己責任とか自業自得とかを他者に要求するのって、私には関係ないから助けません!助けたくありません!だから勝手に野垂れ死んでください!って言っているのと、やっぱ同じに聞こえちゃうもんなー・・・、日本の良さって人に対する思いやりとか、おもてなしの心とかじゃーなかったんだろーか???って疑問も感じちゃうぐらいだもんなー・・・ (|||▽ ) 」
「自己責任とか自業自得とかって他者に言いたくなっちゃう気持ちになるのもわからなくはないんだけど、そーゆー言葉を言っている側がいざ困って、自己責任とか自業自得とかって言われる側になっちゃうことだってあるかもしれないもんなー・・・ (ーー;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「経営環境の変化も激しいんだし、一寸先は闇でリスクだらけって状況なんだし、たとえ今は順風満帆であったとしても今の世の中じゃー何が起こっても不思議じゃーないから、自分だけは絶対に大丈夫ってことはないもんなー・・・ (o´д`o)=3 」
「いい会社に就職したつもりであっても、会社がコンプライアンス違反をやらかしたとか、経営不振だの業績不振だので会社が倒産しちゃうことだってあるだろーし、リストラされちゃうことだってあるだろーし・・・ o゚p(∴´⌒`∴)q゚o。 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「うーん・・・、自分自身に対しても他者に対しても自己責任とか自業自得とかって思っちゃうのも、どーかと思うんだけど・・・??? o( ̄_ ̄|||)o 」
「自己責任とか自業自得とかって誰にも相談できない理由の一つなんじゃーないのかな~???過度な自己責任を抱え込んでいたり抱え込まされたりするから、誰にも相談できなくなっちゃうんじゃーないのかな~??? ヽ(;▽;)ノ 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「人間だから誰だって失敗することがあるんだし、本人は失敗していなくてもなーんにも悪いことをしなかったとしても、自然災害とかで昨日までは考えられなかったようなとんでもない状況に陥っちゃうこともあるもんなー・・・ (;・∀・)」
「そんな時に、自己責任とか自助努力とかって言われたら、めっちゃキツイもんなー・・・、心がボッキリ折れちゃうし立ち直れなくなっちゃうもんなー・・・ (;´д⊂) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「一度転落すると這い上がりたくても這い上がれない社会構造になっていることが、根本的な原因なんじゃーないのかな~??? (´・ω・`) 」
「結局のところ、何があってもどんなことがあっても、たとえ生活保護を受給することになったとしても、ホームレスになったとしても、やり直しができるシステムが必要なんじゃーないのかな~??? (;´д`) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「だとしたら、やり直しができる社会になるには、まず何が必要なんだろ~??? ( ̄○ ̄;) 」
「社会全体が失敗を許容する空気とか、社会全体で失敗から学ぼうって考え方とかが必要なのかな~??? (´ε`;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「えーと・・・、もう既に自助だの共助だのって言っていられる時代じゃーないような気がするんだけど・・・??? (;゜д゜) 」
「スフィア基準すら満たしていない状況からも思うんだけど、公助に頼らせまいとして、自助や共助に丸投げしているだけなんじゃーないの!?国民に税金を使わないでいったい何に使っているのさ!?って、怒り狂いたくなっちゃうぐらいなんだけど・・・??? (〝▼皿▼)=3 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「自己責任バッシングのせいで、公助が本当に必要な人が相談すらできない状況に陥っちゃっているような気がしなくもないんだけど・・・??? ( ノД`) 」
「もはや自助努力では問題が解決できない状況なのに、自己責任の呪縛のせいで誰にも相談できないし誰にも頼れなくて、自助努力を半ば強要されちゃっている人がたくさんいるから、日本の幸福度も低くなる一方になっちゃっている気がするんだけど??? (T▽T) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「自助努力って言うけど、どんなに努力したって報われない人だっていっぱいいるだろーし、むしろどんなに自助努力をしても必死でがんばっても報われないことの方が多いんじゃーないのかな~??? ((((_ _|||)))) 」
「そう思うと自己責任論って弱者切り捨てだし、強者の理論のような気がするんだけど・・・??? (っ´;ω;’c) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「例えば給料だって上がらない状況が続いているし、勤務先の会社が倒産しちゃったり、リストラを余儀なくされちゃったりすることもあるだろーし・・・ (; ̄Д ̄) 」
「それで無職になって家賃が払えなくなってホームレスになっちゃうことだってあるだろーし、そんな時に生活保護を受けられないなんて酷過ぎるし、最悪の場合、自殺とか一家心中とかにつながっちゃう場合だってあるんじゃーないのかな~??? (;゚;Д;゚;;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「はあ???なーにを甘っちょろいこと言っているのさ???自助努力をするのが当たり前だし、自己責任が常識なのに決まっているじゃーんっ q( ̄3 ̄)p」
「みんないっぱいいっぱいで精神的にも肉体的にも金銭的にも余裕がないんだから、自分のことぐらい自分でナントカしろっちゅーに!! (# ̄3 ̄)」
という方も、いらっしゃれば・・・
「貧困に陥るのは自分が悪いからだろ!!自業自得だろ!!選ばなければ仕事ぐらい見つかるだろ!!少しは自助努力しろっちゅーに!! ( ̄ヘ ̄)凸 」
「コッチはノルマがどんなにキツくて自爆営業をやらなきゃいけない会社であっても、みんな我慢して家族を養うために必死で仕事をしているんだからさー!!不平・不満ばっか言っていないで、自助努力しろやー!! o(`ω´*)o 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「結局、自己責任論って価値観を他者にも押し付けるから、話がややっこしくなっちゃうんじゃね?いざ自分が困った時に助けてもらわなくても構わないし、どんなに困ってもそれは自己責任だし自業自得だし自分が悪いから自助努力するって思っている人は、自分だけそーすりゃーいいんでね?その気持ちは尊重するからさー ( ̄。 ̄) 」
「いざって時に私は助けて欲しいから、自分自身に対しても他者に対しても自己責任論を押し付けたくないけどねー ( ̄・・ ̄)」
という方も、いらっしゃれば・・・
「会社で考えてみたら、何でもかんでも自己責任だの自業自得だの自助努力だのって従業員に押し付ける会社って、間違いなくブラック企業だなんじゃーないのかな~??? (((( ;゜д゜)))) 」
「サービス残業で長時間労働を無理やりやらせるとか労働法違反を散々やらかしておいて、それで従業員が過労死したり過労自殺したりしても、自己責任だの自業自得だの自助努力だの言っちゃう組織文化って、どこからどう考えてもおかしいと思うんだけど・・・ (;´゚д゚`) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「こんな状況でも自己責任だの自助努力だのって言っている人は、国民がいっぱいいっぱいになっちゃったその状態をつくったのは誰なのか、誰がこんな国にしちゃったのかって、少しは考えた方がいいいいんじゃーないのかな~??? ( ー`ω´ー ) 」
「自分もこれまで意識すらしていなかったし無関心だったけど、何のために税金を払っているのかとか、どのぐらい税金を払っているのかとか、その血税が何に使われているのかとか、少しは知ろうとした方がいいんじゃーないのかな~??? p(´⌒`q) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「自己責任とか自業自得とか自助・共助・公助とかって、一種のプロパガンダなんじゃーないのかな~??? ( ̄∧ ̄ ) 」
「何の疑問も持つことなく、そのプロパガンダに洗脳されちゃったら、思う壺にはまっちゃうんじゃーないのかな~??? (@ ̄□ ̄@;) 」
という方も、いらっしゃれば・・・
「ブラックボックス化させないためにも、声をあげるってやっぱ大事なのかも~??? ( ゜Д゜) 」
「一人ではできないことがあるからこそ組織をつくるんだし、日本は民主主義の国なんだし、みんなでまず声をあげてみるってのが必要なのかも~??? (。・ ・) 」
という方も、いらっしゃるんじゃーないでしょうか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
他にも、例えば・・・
などなども含めると、いろんな意味で考えさせられちゃいません? (^^)
ふーむ・・・、こーやって考えてみると・・・
まだ見えていないだけで・・・
意外なところにヒントがいっぱい溢れている
おお~っ ━━━━ヽ(゜Д゜)ノ━━━━ 見っけ~♪
のかも~???
なーんて、感じません?
(〃▽〃)
どっ・・・、どうでしょう???
皆さまは、どう思われますか?
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